XIV:遺言
「温室は、初めて?」
美しい囀りに包まれて、苔生すぬくもりが手の平に伝う。大樹は透明な屋根を突き抜け、放射線状の区切られた空に大きく枝葉を広げている。ごつごつとした逞しい樹皮に触れていると、後ろから誰かが髪の毛にそっと触れた。振り返ると、母親によく似た黒い瞳の女性が微笑んでいる。
「私は“助手”よ。|自然保護回復強化区域研究所で、あなたのお父さんの、お手伝いをしているの」
“助手”のそのひとに連れられて、瑞々しい空気を吸い込み、色とりどりの植物の中を散歩した。透明に仕切られた壁の向こうに、飛び交う虫や、草を喰む動物を見た。
「どうしてみんなを閉じ込めてるの?」
少し驚いて、女性はくすくすと笑った。
「閉じ込められているのは、どちらかしら?」
あの向こうに行きたい、と言うと、微笑みに少し瞼を落としてその地を見た。
「あそこへは、行けないのよ。とても危険だから。“こわい悪魔”が眠ってるの」
“助手”のそのひとは、何でも知っていた。植物の呼吸のこと、動物の食物連鎖のこと、最期はみんな土に還ること。
「命が終われば、大地にその骨を蒔いて、みんな肥料にするの。そうして育った作物を私たちはいただいているのよ」
そしてみんな、ここへは来たがらないのだと彼女は言う。現実を見るのが恐いのだと。
「この水も、いつかは涸れてしまうわ」
ふたりで、地水溝に注ぎ落ちる巨大な滝を見て彼女は言った。自然保護強化区域に降り注ぐこの水は、すべての源なのだと教えてくれた。“循環”こそが、集結協和都市の生ける動力なのだと。
「でも、水や風は、地球からいなくなったりしないよ」
賢い子ね、と、白衣の傍に少年の肩を抱き寄せた。
「だけど、私は不安なの」
「どうして?」
「どうしてかしら。人は、形あるものを求めるものよ」
女性は寂しそうに微笑み、自分によく似た幼い顔を見つめた。
「お父さんのこと、大切にしてね」
その黒い瞳を深く覗き込むように向けられた。母親を見ているようで何かが違う。同じようで、何かが拒む。呑み込まれたくないようで、委ねたくなる。戸惑う瞳にそのひとは愛おしく微笑みかけている。その手はざらざらと、少年の頬をやさしく撫でた。
水槽の中の魚は、きっとこんな風に見ているに違いない。硝子越しに、白い服を着た人たちが行き交い、きびきびと忙しそうに動いている。まるで人造人間のプログラムかのように、迷いもなく、誰もが我が道を知るように清々しい。すれ違いざまに笑顔を交わし、時折ひと所に寄り集まり、また思い思いに散り去って、活き活きと為すべきことをこなしている。
あんな風に生まれていたなら、きっと幸せに生きていただろう。
それは硝子越しの憧憬にすぎず、陸を羨む魚と同じ羨望だ。泳ぐ力を使い果たし、無気力に横たわる少年には、彼らの声は何ひとつ聞こえていない。仕事を終えた医療用人造人間が終了の挨拶を残して消えてから、しばらく時間が経っている。しんと静まり返った狭い部屋に、時々、衣服の擦れる細やかな音が思い出したように聞こえている。枕元に立っていた女医は、眠りにつこうとしている少年を静かに見つめ、少し癖のある繊細な黒髪にそっと触れた。絡まり縺れた髪を解きほぐすように、その手はやさしく、やさしく撫でている。心地良い微睡みの揺籠に揺られ、少年だったすべてのものが、あたたかな暗い海へと蕩けてゆく。漂う意識の残影に花束のような香りを感じ、やわらかい羽毛がふわりと傍に降りてきて、静かな子守唄が海深く眠りの奥へと流れていった。
「誰も、あなたを責めないわ。責めるのは、あなた自身。あなたを脅かす存在が、たとえ目の前から消えたとしても、あなたの心は憶えているの。みんな同じように、今もまだ闘っている 。いつか解放される、その日まで。─── でも、あなたなら大丈夫。あなたは、強くて賢いから、きっとまた乗り越えてゆく。─── どうか、自分を責めないで、生きて ─── 」
血に塗れ、青褪めたその顔と向かいあった時、少年は、もう、すべてが、取り返しがつかないことを悟った。銃口は自ら“死神”を選んだ。覚悟のない腕はその重さに耐えきれず、凶暴な口吻が顔や胸へと乱れ移ろう。自らの運命を知ったその瞳には、失望の嘆きが天色に浮かび、その奥で怒りと呵責の業火が燃えていた。“死神”は恐れもなく佇み、少年の瞳をただ見据え、その選択を糺すように、無言の問い掛けをのしかける。振り乱れる指を引き鉄に留め、少年は何度も尖る唾を呑み込んだ。既に絶望が釈明の声を奪い、その銃に最期の懇願を抱いていた。
パンサーは崩した体勢を整えながら、腰の短機関銃を持ち上げ、二歩進み出て構えると、両手を無防備に下げていたジャッカルが、後ろ手に銃口を塞いでそれを制した。困惑するパンサーの見つめる先で、自体は刻々と切迫していた。少年は辛うじて浅い呼吸を繰り返しながら、足掻く銃口を顎の下へと導き、か細い喉元に冷たい鋼が触れようとしている。咄嗟に短機関銃を捨てた。少年はその覚悟に目を閉じる。やむを得ずハンドガンを取り出し、パンサーはジャッカルに掴み掛かった。
「 ─── それは俺の“オヤジ”の形見だ」
乾いた風が吹いた。
永い旅路に多くの終りを見てきた、少し疲れた渋い風だ。
「・・・義理のな。いいだろ、年代物だぞ」
まるで別れを告げるような、寂しさを孕んだ声は、少年の震える瞼を開かせた。鋭く穏やかな瞳に見護られながら、少年はゆっくりと銃口を下げてゆく。漸く安堵したように小さなため息を漏らし、“死神”は片頬を力なく持ち上げた。
「大事に持っていてくれ ─── それ以上、傷をつけるなよ」
そう言い遺すと、車体の屋根に凭れながら“死神”は少年に背を向けた。固唾を呑んで見護っていたパンサーが見兼ねて背中に伸ばした手を黙って断り、“死神”は振り返りもせず、誰にも支えられず、独りふらふらと歩いて行った。
膝の上でゆっくりと震える指を開いた。少年が手にしていたのは、惑星のような波紋を描く木目の握把を持つ、白金とも銀色ともつかない美しい傷だらけの銃だった。その銃身に刻まれた小さな傷のひとつひとつが、この銃が辿った運命と、その“重み”の理由を語っていた。
男は少し離れた救急移送車の車体を叩いた。扉が開くと中から救助隊員の一人が屈んで現れ、流血姿で仁王立ちする男を前に、目を丸くして明らかに狼狽えている。パンサーはその場で手を上げ、目配せで合図を送った。暫くして、救助隊員が道を開け、車内から銀髪の青年が顔を覗かせた。肩を貸して車から降ろすと、愛想もないその顔を確かめるようにじっと見据え、男は突然、大きな手でヴァルスの髪をくしゃくしゃにした。されるがままの青年は、一度、胸に強く抱き寄せられ、肩を並べて赤い車の方へと向かってゆく。
「自分で呼んでおいて、まったくあの人は」
立ち尽くしていた線の細い青年は、背中に下げていた白い防護マスクを小脇に抱え、眼鏡のテンプルに搭載した無線でβ(ベータ)部隊の撤収を呼びかけた。呆れて口をへの字に曲げていながらも、何処か微笑んでいるようにも見える。
キースはいつの間にか戸口に立ち、ふたりの遠去かる背中を無意識が追いかけていた。そして、じっと乾いた地面と見つめ合い、躊躇いがちに左の足を降ろしかけると、眼鏡の青年が近づいて、車を降りるのを手伝った。初めて見たはずのその顔は、何故か少し心配そうな親しみを浮かべている。そのやさしさに見送られ、少年は覚束ない足取りで歩み出た。ふたりの背中は、もう届きそうにないほど先にある。
「 ─── ルイス」
男は、少し遠くで振り返った。
「帰るぞ、キース」
顔もまともに見せないまま、男は足も止めずに進んでゆく。少年は、開きかけた唇をそっと閉じた。託された銃を胸に抱え、その背中を見つめながら、少しずつ、ゆっくりとふたりの元へと還って行った。




