Prologue
まるで、宇宙の果てのような闇だ。それは寄せ集まって揺らぐ、ざらざらとした鈍色の砂嵐にも見える。時折、迷い込んだ火の粉のように、取り止めもない光景が浮かんでは消え、また浮かんでは闇に溶ける。そこに暖炉があった。いつの間にか砂嵐の真ん中にぼんやりと、そして煌々と浮かんでいる。それは折り重なった黒い薪の上でパチパチと火花を散らし、橙色の炎が火の鳥のように燃え盛っている。両手を翳すと炎は眩しく羽撃き、あたたかなぬくもりに芯のその深くまで包まれた。そしてひと際大きく火の粉を上げると炎は明々と舞い上がり、ひと息にすべてを呑み込んだ。
ガシャン。
思わず瞼が開いた。途端に足先が刺すように痛みだし、カビと埃の臭いが瞬く間に戻って来た。何度目かの夢の入口はまた遠くへ還ってしまった。小さく溜息を吐いて首を曲げ、じんじんと千切れそうな足先に視線を遣ると、微かに開いた冷たい引き戸の隙間から蒼白い光が見えた。線状の淡い光が差し込み白い粉雪がちらちらと煌めいて吹き込んでいる。その光景に心を動かされた自分に少しばかり驚いて、しばらくその小さな美しい世界を眺めた。しかしその背景には似つかわしくない音響が響いている。いくつかの隔たりの向こうから興奮した甲高い声や何かが砕ける音、金属のぶつかり合うような破壊的な音が途切れ途切れに聞こえている。
始まりがあれば、必ず終わりがある。
子守唄に揺れるように意識はゆらゆらと遠退いていたが、足の痛みがそれを赦してはくれなかった。おそらくこれは最期の警鐘だろう。どこで学んだわけでもなく本能がそう教えていた。狭めた肩のすぐ脇にある硬い棒を押し除け、重たい身体を起こして筋の浮いた足の甲を悴む指で辿った。爪まで黒ずんだ冷たい中指が硬いゴムのように鈍く触れる。
この足じゃあ、歩けない。
今夜の“逃げない理由”はそうすることに決めた。たとえ立ち上がれたとしても、この閉ざされた世界に、逃げる場所など何処にもないのだ。
いつか、誰かが気付いて助けてくれるかもしれない。
我慢して、耐えて、待ち続けていたら、いつの日か ───。
そうして、いつの間にか期待は乾涸びてしまった。
人はたくさん居るはずなのに。
世界は透明人間で溢れかえっている。
正義の味方を望んでいるわけじゃない。
救世主なんか求めてない。
ずっとここで、待ち焦がれているのは、
冷酷無慈悲な、死神だ。
ゴトン。
グラスがテーブルの上にぐるりと弧を描いた。気がつくと手元に汗をかいた背丈の違うグラスが幾つも並んでいる。左手に重みを感じて布巾を下げていたことを思い出した。辺りには重厚な木製の家具や年季の入った調度品が静かに眠る、薄暗い喫茶店か骨董品屋のような雰囲気が広がっている。そのしっとりとした木の匂いを感じた時、やっと意識が“ここ”に戻ってきた。どれくらいそうしていたのか、しばらく時間が止まっていたようだ。壁際に鎮座している大時計の針は七時より少し前を差している。突然冷やりと目が醒めて慌てて転がったグラスを持ち上げた。幸い、にもグラスにもテーブルにも傷は付いていないようだ。ほっとすると、また視界がぼんやりと滲んできた。慣れたとはいえ、もしものことが過ぎると未だに睡眠が浅くなる。疎かになっていた右手を木製のテーブルの上にそっと載せた。暗い部屋に注ぐわずかな白い光が、精巧に刻まれたグラスの影絵を投影している。別のグラスを手に取り、その隣にコトリと置いてみた。この不揃いの作品たちは、この店の店主の宝物だ。あらゆる地を廻り、ひとつひとつ長い歳月をかけて拾い集めたのだと、彼はいつか懐かしそうに話していた。血の通う誰かの手から産み出された、個性的で美しい過去の遺物でこの箱庭を飾るのが、店主の唯一穏やかな愉しみにほかならない。古傷が味を深める紫檀の家具、絡繰の歯車と振り子が覗く手彫りのホールクロック、ビロード張りの椅子や個性豊かなティーカップ。これらは海を渡り、時代を渡り、時には灰に埋もれながらも、朽ちることなくこうしてここに辿り着いた。その手の人に掛かれば相当な価値として取引されるだろう。あるいは、無価値なガラクタとして壊されたかもしれない。しかし彼はそうしなかった。すべてを愛し、すべて抱えて生きる道を、彼は選択したのだ。
ふと、布巾をカウンターテーブルの上に投げ出し、白い光に照らされながら窓際の方へと歩み寄った。閉した部屋が気分をよからぬ方へ傾けているような、そんな心地がしたからだった。分厚いジャカード織りのカーテンに手をかけると、この店を初めて訪れた時のことがまた不意に甦った。真ん中を閉じて上部を弛ませ、縄状のタッセルを巻き付ける。お手本を示しながら、こだわり屋の店主にそう教え込まれた、あの日の午後が懐かしい。その口振を思い浮かべ、思わず口元が弛んだ。不意にまた湧き立つ不安を振り払うようにさっとカーテンを開くと、教会を思わせるアーチ型の格子窓が清々しく現れ、存分に朝陽を取り込み店内を穏やかな光で照らし出した。
ふと、気配を感じて入口の方を振り返った。しかし、その重たい扉に動いた形跡はなく、人影が現れる様子もない。窓から差し込む白い斜光の中で、小さな埃たちがただ静かに煌めき舞っている。耳の奥に響いているドアベルの残響に動揺して、抑え込んでいた不安が膨れ上がってきた。きっと気のせいだ、作業に戻ろう。息を潜めて緊張していた自分にそう言い聞かせた。それでもなお、張り詰めた黒い瞳だけはステンドグラスの向こうを注視し続けて離れることはなかった。