旅支度と伝話石
朝の空気が、少しだけやわらかくなっていた。
窓を開けると、まだ霜の残る外気が鼻をついたが、それでも春の匂いが混じっている。
ゴルザンは部屋の隅に置かれたカバンに目をやると、やれやれとばかりに腰を下ろし、革のベルトを締め直した。
「……まったく、歳をとると旅支度ひとつで腰にくるぜ」
誰に聞かせるでもない呟きが、薄く笑い混じりに宙に消える。
棚の上、磨かれた金属の玉が、微かに光を反射していた。
伝話石──通信専用の魔道具。最近になって届いたものだ。封の印には、見覚えのある紋章。
《本部人事課》──送り主は、カレン=ノルディア。
しばし迷った末、ゴルザンは石に軽く触れた。手のひらに微かな震えが走る。
そして、カレンの落ち着いた声が、空気を振るわせた。
『ゴルザンさん、お疲れさまです。
本部人事課のカレンです。お元気ですか?』
変わらぬ声だった。少しだけ、抑揚のつけ方が柔らかくなった気もする。
彼女は続ける。
『ご希望いただいていた本部復帰の件、正式に手続きを進めました。
ロランさんからの推薦もあり、上層部も了承済みです。……あとは、あなたの“返事”次第です。』
ゴルザンは、伝話石を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「……気が早ぇな、まったく」
部屋の片隅に、封を切らずに積まれた報告書。
見送りの準備。引継ぎの段取り。
そして──ミーナへの言葉。
“まだ、終わっちゃいねぇ”。
カレンの声は、なおも続いていた。
『あなたが、あの支部で何を残し、何を手放そうとしているのか。
その答えを、私は見届けたいと思っています』
ピリ、と小さく、魔力の余韻が弾けて音が止む。
伝話石は、ただの石に戻った。
ゴルザンはそれをそっと棚に戻すと、立ち上がった。
厚手の外套を肩にかけ、扉の前で振り返る。
──ここでの暮らしに、確かに“春”が来ていた。
「さて……」
この一歩が、過去から続く道の、どこに繋がるのかはわからない。
だが、もう一人で歩くことを、怖がる歳でもない。
「そろそろ、“次”を迎えに行くか」
軋む扉を押し開けて、ゴルザンは歩き出した。