(2)諦め
放課後に私物を鞄に纏めて教室を出たマグダレーナは、少し離れて前方を歩いているエルネストに気付かれないように、慎重に足を進めていた。
(昨日は自習室で官吏科の生徒と過ごしていたし、その時に今日は用があるとレベッカが聞いていたとおり、こちらに来たわね)
情報通りであることに安堵したものの、自分が何をしているのかを再認識したマグダレーナは、次第にもの悲しくなってくる。
(最近はしていなかったのに、またこんなコソコソ探る羽目になるとは……。趣味嗜好とかは捉えどころがないし、親子の情に訴えるとか無駄なのは分かりきっているし、一体どうやって説得すれば良いのよ……)
周囲にも怪しまれないようにさりげなく気を配りながら歩いていた彼女は、頭の中で八つ当たりじみた考えを巡らせていた。
(それにしても……、事務係官とどんな話をしているのかしら? そんなに盛り上がる話題があるのなら、それだけ興味があるということよね。それを突破口にして、国王就任を説得する材料の一つにできないかしら)
管理棟に到達したマグダレーナは、視線の先にいたエルネストがドアをノックして室内に入っていくのを、曲がり角に身を隠しながら確認した。そして慎重に廊下を進み、そのドアの前に立つ。
「印刷室?」
そこは学園内で、教授達が授業や研究に使う文書の印刷を担う部屋であり、マグダレーナはエルネストがこんな所に何の用事があるのかと首を傾げた。それと同時に、どんな話を聞きたがっているのかと不思議に思った彼女は、周囲を見回しながら考えを巡らせる。
(廊下からだと壁やドアが厚くて、こっそり話を聞くのは難しそうよね。でも外の窓際からだったらどうかしら? 窓が少しでも開けてあれば好都合だし。ちょっと行ってみましょう)
管理棟の構造を思い返しながら、マグダレーナは踵を返した。そして廊下を戻って出入り口から外に出る。そのまま外壁に沿って足を進め、先程の印刷室の位置に該当する窓に近づいていった。
(あら、今日は天気が良いし、窓が開けてあるわ。良かった。これで中の様子も分かりやすいはず)
生憎と管理棟の床の位置が地面より高い関係で、窓は彼女の頭よりも高い位置で開いていた。しかしそこから室内の声が聞こえており、マグダレーナは満足しながら窓の下でそれに耳を傾ける。
「……ええと? これはこうかな?」
「おいおい、王子様。また間違ってるぜ。左右が逆になるから、微妙に判別しにくいのは分かるがな」
「ああ、そうか。ドルツさん、すみません」
「まあ、急ぎの物じゃないし、文字数も少ないからゆっくりやって貰って良いが、何で王子様がこんな事をやりたいかね? 酔狂にも程があると思うが」
「ご迷惑なのは分かっていますが、色々な事を体験してみたいので。王宮の中では、こんな事はできませんでしたし」
「そりゃあ、王子様に活版印刷なんかさせようって奴はいないだろうなぁ……」
男達の会話を黙って聞いていたマグダレーナは、ここで勢いよく走り出してその場を離れた。そして元来た道を淑女にはあるまじき勢いで駆け戻り、ノックもせずに印刷室のドアをぶち破る勢いで押し開く。
「失礼いたします!!」
開けた勢いでドアは壁にぶつかり、盛大な音を立てた。それと前後して怒声を放ったマグダレーナの登場に、室内にいた男二人は呆気に取られながら彼女に視線を向ける。
「え? 何だ?」
「うわ、驚いた。マグダレーナ嬢、そんなに血相を変えてどうかしたのかい?」
「エルネスト殿下、何をしておられるのですか!?」
「何って……、印刷するための活字を揃えているところだけど。それがどうかしたのかな?」
「どうか、って……、あのですね……」
キョトンとしながら問い返してきたエルネストを見て、マグダレーナは怒りが振り切れそうになったが、辛うじて自制心を掻き集めて暴発を押さえた。そして深呼吸をしてから、なるべくいつも通りの口調を心がけつつ意見を述べる。
「以前、廊下で窓枠の修繕をされていた時にもご忠告した筈ですが、職人の真似事をするのは、王族の振る舞いとしては色々と問題があるのではないでしょうか」
すると先程エルネストから「ドルツさん」と呼ばれていた男が、口を挟んでくる。
「やっぱりお嬢さんもそう思うか?」
「そう思うなら止めていただけませんか?」
「そう言われてもなぁ……、この王子様は妙に押しが強くて」
「あ、私のことは、エルネストと名前で呼んで貰って良いですよ?」
「あんた、本当にお気楽だな」
「で ん か」
気安げに言葉を交わしているエルネストに、マグダレーナは険しい視線を向けた。するとエルネストが苦笑いで指摘してくる。
「マグダレーナ嬢、顔が怖いよ?」
誰のせいだと思っていると苛ついたが、マグダレーナは素っ気ない口調で話を続けた。
「余計なお世話です。他の者に見られたら、職人の真似事などして王族としての誇りはないのかと陰口を叩かれるのは必至ですよ?」
「別に構わないよ。どうせ私を王族扱いしている人間は、一握りだけだろうし」
「そういう問題ではありません」
「君は数少ない、私を王族扱いしてくれている酔狂な人間だよね。だからここは、大目に見て貰えないかな。せっかく頼み込んで、仕事をさせて貰っているわけだし」
「…………」
(腹立たしい程、無駄に良い笑顔ですわね。教室内では間違っても、お目にかかったことはないわ)
邪気のない笑顔を向けられたマグダレーナは、自分にはこんな風に笑えたりはしないだろうなと思った瞬間、もうどうでも良い気分になって色々諦めてしまった。
「分かりました。見なかったことにします。その代わり、交換条件があるのですが」
「何かな?」
「殿下が一番懇意にしている、官吏科下級学年の方はどなたです?」
「え? それはやっぱりグレンかな。寮も同じだし」
「それではグレンさんに、放課後の予定が決まり次第教えて貰えますか? それでグレンさんには、それをレベッカに教えて欲しいのです」
そこでエルネストは、怪訝な顔になって一瞬考え込んだ。
「レベッカって……、レベッカ・シアーズの事を言っているのかな? 去年教養科で同じクラスだった」
「ええ。そのレベッカです。彼女から私に伝えて貰いますので」
それを聞いた彼は、益々要領を得ない顔つきになる。
「随分回りくどいことをするね。君とは同じクラスだし、私が直接君に教えれば済む話じゃないのかな?」
「これまでろくに接点がなかった殿下と直接話し込んだり、メモの類いをやり取りしたら周囲の人目につきますので。要らぬ憶測を呼ぶのは回避したいのです」
「それは分かるけど……。それならどうして、私の放課後の予定を知りたいのかな?」
「あなたが何をしでかすか予測不能なので、王族として相応しくない変な行為が他人の目に触れないように、私がフォローしてさしあげます」
エルネストの目の前で腕組みをしたマグダレーナは、半ば自棄になりながら偉そうに宣言した。それに彼が一瞬目を見開いてから、笑いを堪える口調で確認を入れてくる。
「ええと? つまり君は、私が王族らしくない事をしても、今後も黙認してくれるということかな?」
「そういう事ですわね。少々、いえ、かなり不本意ですが」
「そうか。それではよろしく」
ここでエルネストは楽しげに笑ったが、ドルツは慎重に声をかけてきた。
「お嬢さん、良いのかい?」
「説得も忠告も面倒になりました」
「……あんたも大変だなぁ」
心底同情する眼差しと口調での台詞に、マグダレーナの疲労感は否応なく増加したのだった。




