第二話:永遠の綻び~律花、二〇一五年初夏~①
京都の夏は暑い。まだ五月の初めだというのに、猛暑の片鱗が垣間見え始めている。
東に見えるのは滋賀県との環境を隔てる山々だ。力強さを秘める青い空の下、もくもくと猛る雲が稜線の向こう側から顔を覗かせている。
憂鬱な季節が来た。あたしは手の中でシャーペンをくるりと回すと溜息をついた。
このゴールデンウィークから先、しばらくの間、この街は賑わいに包まれ続ける。長期休暇を活用して京都に観光に訪れる人々。修学旅行の中高生。ゴールデンウィークを境として、県外や国外の人々が続々とこの街に集まってくる。
(一体、何が面白いんだか……)
滋賀県大津市生まれ、京都府京都市育ちのあたしからすれば、この街は寺社仏閣の類ばかりで特に面白くも何ともない。市内のあちらこちらに点在する観光スポットと言われている場所はどれも古臭いばかりで現地民のあたしからすればわざわざ足を運ぶ価値があるようには思えない。
「そんなことより、SSやりたいなあ……」
あたしは問題集とノートの山の下敷きになったノートPCへと目をやった。SSは今、ゴールデンウィーク限定キャンペーンクエストが開催されているはずだった。
「一時間だけ……とか、あかんよねえ……」
二年生に上がって、新学期早々に実施された実力テストであたしは散々な点をとった。あたしのテストの結果を見咎めた父親に、今度のゴールデンウィーク明けの中間テストの点も悪いようならノートPCを取り上げると脅されている。
「はああ……」
あたしはもう一度深々と溜息をつく。家の外からは、父親が庭の手入れをしているのか、ひっきりなしに芝刈り機の音が聞こえてくる。一階のリビングからは芝刈り機の音に怯えているらしい臆病な愛犬のマロンの鳴き声が響き続けている。この状況でどうやって勉強に集中しろと、と思いながらあたしは勉強机の端に置いたくすみピンクと花柄の手帳型ケースに入ったスマホを手に取った。
Postedを開き、タイムラインを眺めていると、中学の友人たちの投稿の間にトワの投稿が紛れ込んでいた。「もう勉強やだー……SSやりたいー」そんなトワの投稿にあたしはくすりと笑うと、ハート型のアイコンを指先でタップしていいねをつける。そして、「わかるー……あたしももう勉強やだー」とあたしは彼の投稿にリプライを飛ばした。
「レナは今何やってるー?」「英語ー。トワは?」「数学。だけど、さっぱりだし僕も英語やろうかな」
ぽんぽんとひっきりなしに通知が飛び、リプライの応酬が続く。そうだ、とあたしは思いついたことがあって、トワにリプライではなく、DMを送った。
「トワは、LI-NGってやってる? よかったら、通話しながら一緒に勉強やらない? これあたしのID→ritsuka-0826」
ひっきりなしに飛び交っていた通知がぴたりと止まった。あたしはどきどきしながら、スマホのホーム画面を見つめる。
LI-NGは個人間やグループでのコミュニケーションのためのクローズドSNSだ。オープン型SNSであるPostedに比べて、よりリアルに近い。ネットの友達にリアルに程近い情報を教えるのは初めてなので、何だか落ち着かなかった。
しばらくして、ぴこんとあたしのスマホのホーム画面に通知が表示された。LI-NGに「つしろはると」なる人物からチャットが届いている。これはもしかしてトワの本名なのだろうか。
あたしがチャット画面を開くと、「トワだよー、よろしく」と短いメッセージが届いていた。あたしはSSの公式が出しているスタンプからよろしくと書かれたものを探してくると、それを打ち返し、「つしろはると」のアカウントを友達に追加する。
「通話いい?」とあたしがメッセージを送ると、すぐにOKというスタンプが返ってくる。トワの名を騙った赤の他人かもしれないという一抹の不安を抱えながらも、あたしはアプリの画面右上にある受話器のアイコンをタップする。とぅるるとぅるるとぅろろーん。聞き慣れた発信音に不安と期待で何だかそわそわする。
「レナ?」
聞き慣れた少年の声が、スマホの向こう側から聞こえた。あたしはほっとした気分になりながら、彼の名を呼ぶ。
「トワ! そーだよ、あたし! レナやで!」
あたしはスマホをスピーカーモードに切り替えると、机の上に置く。
「SSではいつもボイチャしてるのに、こうやって話すのちょっと変な感じやねー。ところでさ、トワの表示名って、もしかして本名?」
さりげなさを装って、気になっていたことを聞くと、スピーカーから発されたトワの声はそうだよとあっさりあたしの疑問を肯定した。
「ちなみに漢字ではこう書くんだけど」
そう言うと、トワはメッセージを一件送ってきた。津城晴翔。なるほど、漢字ではこう書くのか。あたしの中でトワという人間がより現実味と実体を帯びたものに変わっていく。
「もしかして、レナのそのリツカっていうのも本名だったりする?」
そうトワに聞かれて、うん、とあたしは相槌を打つ。
「律する花で律花。藤間律花だよ。トウマは藤の間って書くんよ」
へえ、とトワが感心したような声を漏らす。気負った様子もなく、綺麗な名前だねと彼はあたしの名前についての感想を述べている。
「ところで、あたしに本名教えちゃって大丈夫やった? もしかしたらあたし、トワの個人情報で悪いことするかもしれへんで?」
冗談めかしながらあたしが聞くと、大丈夫とトワはきっぱりと断言する。
「本名についてはお互い様だし。それにまだ知り合って一ヶ月半くらいだけど、僕はレナのことを信用してるから。レナはそういう悪いことする人じゃないって」
あっそ、と照れ隠し気味にあたしはそう呟いた。真正面から何の衒いもなしにこんなふうに断言されるのは、何だか心がこそばゆかった。
「……それはそうと、一緒に勉強やるんやなかったっけ? トワは英語って得意?」
「英語は人並み程度には。難しい応用とかじゃなければ大丈夫だと思うけど、レナ、何かわからないとこあるの?」
「wasとdidの違いがわからへん。どっちも過去のことなのはわかるんやけど、何が違うのかわからへんの」
「レナはbe動詞ってわかる?」
わからへん、とあたしが言うと、通話越しにトワが苦笑したのが伝わってきた。
「いい、レナ? 去年、一年の初めごろに、amとかisとかやったでしょ? あれがbe動詞ってやつで――」
スマホ越しに、声変わり途中の少年の声が滔々と説明を始める。時折、あたしはううん、とかわかんないとか相槌を打ちながら、トワの説明に耳を傾け続ける。
いつの間にか外でブンブン唸り続けていた芝刈り機の音は止んでいた。気がつけば、リビングも静けさを取り戻している。
網戸にした窓の外から、刈られた草の青い匂いが薫風に乗って入り込んでくる。初夏の風に流されてきた積乱雲が、青い空に僅かな翳りを見せていた。