第十話:約束と期待~晴翔、二〇一九年初夏~ ④
(ど、どうしよう……)
十八時の業務終了時間を迎え、僕は自分がとんでもないヘマをしていたことに気がついた。
(開店前に在庫数のチェックするの忘れてた……)
最初に売り場にあった数もわからなければ、バックヤードに置かれていた在庫の数もわからない。そもそも派遣会社に登録に行った日にそういったことを全く説明されていない。適当な紙の裏に売れた数を正の字を書いて数えていたが、十六時を過ぎて売り場が混雑してきたころから、接客に追われてきちんとカウントできていない。よって、本日の売り上げ数がわからない。
(どうしよう……派遣会社に今日中にレポート送らないといけないのに……)
何にしても、今は売り場からバックヤードに撤退するのを優先せねばならない。僕は混雑のピークを過ぎ、自分の周りから客足が遠のいたのを確認すると、そそくさとゴミをまとめ、「し、失礼します」試食台を押してバックヤードに逃げ込んだ。
バックヤードの試食台置き場まで戻ってくると、僕は積まれた段ボールの陰で一日分のゴミが入った袋を広げた。売り上げ数も把握できていないが、試食で出したパンの数も途中からわからなくなっている。
「う、わ……」
パンの袋に付着していたジャムやらクリームやらソースやらで手がベタついた。僕は手をべとべとに汚しながら、パンの袋を商品ごとに仕分けていく。仕分けた袋を商品ごとに数え、試食で出した数をメモしていく。手だけでなく、普段愛用しているボールペンまでべとべとになった。
バックヤード内のトイレの洗面台で手を洗うと、僕は人を探してバックヤードの中を彷徨いた。通りがかった同い年ぐらいに見えるバイトの学生を呼び止め、僕は事情を話すと、日配品のマネージャーである橋本を内線で呼んでもらった。
「ああ、君、今朝のマネキンの子ね。何、赤伝の話?」
数分して、PHSを手にした橋本がせかせかとした様子でやってきた。
「ええ、それもなんですが、まずは今日、終了させていただいて大丈夫か確認したくて」
「ああ、十八時までだっけ? うちの店は構わないよ」
ありがとうございます、と頭を下げると僕は試食に使用した商品の数をメモした紙を橋本へと手渡した。
「これ、今日、試食で使用した分のリストです。あと、すみませんが、こちらに勤務証明をいただいてもよろしいですか?」
「あーはいはい」
リストに続いて僕が派遣会社から渡されたレポート用紙を橋本に差し出すと、彼はそれを受け取り、「えーと、九時半から十八時だっけ」「そうです」勤務時間とサインをさらさらと書き殴り、僕へと返してきた。僕はそれを受け取ると、エプロンのポケットに畳んで仕舞った。
「今日、試食で出したパンの袋ってどこにある? 一応、リストの数字が間違ってないか確認したいんだけど」
「それならこっちに」
僕はさっき自分で数えるために床の上で仕分けた袋の束を指し示した。「あんまり散らかしたり、その辺汚さないでほしいんだけどなあ……」橋本はちくりと僕に苦言を呈すると、手早く試食で出したパンの袋の数を確認していった。
「よし、大丈夫。じゃあそのゴミ、帰る前に捨てておいてね」
どこに、とも説明しないまま、それじゃあお疲れさまと橋本は来たときと同様にせかせかと立ち去っていった。「え、ちょっ、捨てるってどこにですか!?」僕は咄嗟に呼び止めようとしたが、橋本は振り返らなかった。
僕はゴミ袋にパンの袋をもう一度まとめて入れると口を縛った。仕方ない。誰か呼び止めて、ゴミ置き場の場所を聞くしかない。
僕は袋を持って、バックヤードの中をあてもなく歩き始めた。いくつか柱を過ぎたあたりで、僕はバックヤード内の案内図らしきものが壁に貼られていることに気がついた。
案内図によれば、ゴミ置き場は現在地とはほぼ正反対の場所にあることがわかった。売り場を突っ切っていければ早いのだが、ゴミを持って売り場を彷徨くわけにはいかない。明確に誰かに駄目と言われたわけではないけれど、たぶんやっちゃいけない気がする。
僕はぐるりとバックヤードの中を回り込んで、ゴミ置き場へと向かった。可燃ゴミのスペースにゴミ袋を放り込むと、元来た道を僕は足早に戻る。そろそろ今日の業務終了時間から一時間が経つ。家までも多少距離があるし、いい加減早く帰りたかった。それにこんなアウェイな土地にいつまでもいたくない。
(それにしても、会社へのレポートどうしようかなあ……)
自分がしでかしてしまった失敗で気が重い。ついでに慣れないことをした疲労で体も重い。
(仕方ない……なんかちょっと字汚いふうで少し読みづらい感じに書き濁すしかないか……)
派遣会社やメーカーがここの店に売り上げ数を確認したりすることはないだろうか。そんなことを危惧しつつも、僕は考えられうる方法のうちでも最悪に近い方法を決断した。
(だってしょうがないじゃん。事前に何も知らされてないし、教えてもらってないんだから)
仕方ない。そう、仕方がない。僕はそうやって己を無理やり正当化する。
僕は試食台置き場に戻ってくると、エプロンや三角巾、マスクを取り、帰り支度を進める。身につけていたものやテーブルクロスをやけくそ気味にぐちゃあっと突っ込むと僕はリュックを背負う。僕は帰宅の途につくべく、入り口の方角へ踵を巡らせた。
今朝通ってきた入り口の受付で僕は退館時間を来訪者記録に記入する。入館時と同様に荷物の確認を求められ、僕はぐちゃぐちゃのリュックの中身を警備員へと見せた。警備員の対応はおざなりを通り越してなおざりで、荷物について何も言われることはなかった。一体あの人は何をチェックしているのだろう。
通用口からショッピングモールの外に出ると、宵闇ともわっと蒸した空気が辺りを満たしていた。疲れたなあと思いながら、僕は駅の方角へと足を向ける。
お金を稼ぐというのは実に大変なことなのだなあと僕は今日、身をもって思い知らされた。今日の初仕事は失敗も多かったけれど、それでもこの先やっていけないこともないような気がした。少なくとも、夏休みにレナに会いにいく――この目標があるうちは頑張れそうな気がした。
電車の中で派遣会社に出すレポートを書いたら、レナにLI-NGしてみよう。今日あったことを誰かに――他でもない彼女に聞いてもらいたい気分だった。彼女ならきっと、僕の今日一日の出来事に呆れて、笑って、お疲れ様と労いの言葉をくれる。
ズボンのポケットからスマホを出して、次の電車の時間を確認すると僕は足を急がせる。麦星が明るく瞬く夏めいた空の下、遠目に見えるマンションの窓々に灯る人々の生活の光がきらきらと煌めきを放っていた。




