表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/47

第十話:約束と期待~晴翔、二〇一九年初夏~ ③

 六月十五日、土曜日。朝八時四十五分に僕は今日の派遣先の最寄駅に降り立った。改札を出て、コンビニの前を通り過ぎ、僕は今日初仕事をする大型ショッピングモールへと向かって歩き出す。

 このショッピングモールは海と呼ばれるエリアと花と呼ばれるエリアに大別される。僕が登録した派遣会社から事前に共有された情報によると、この二つのエリアの間に従業員用の入り口があるのだという。

 改札を出てから十分ほど歩くと、搬入口が見えてきた。従業員用の入り口はこの辺りにあるはずだった。

 通用口の扉を見つけると、僕は建物の中へと入る。入ってすぐのところに受付があり、受付の中には警備員らしき壮年の男性の姿があった。

 受付に置かれた来訪記録に僕は自分の名前と派遣元の会社名、現在時刻を記入する。「すみません」僕は今日の仕事の概要が書かれた紙と派遣会社のIDカードをリュックから取り出すと、警備員に声をかけた。

「試食販売の仕事で参りました、津城と申します」

「ああ、試食販売員(マネキン)さんね」

 警備員は僕の顔とIDカードに一瞥をくれると、リュックの中を見せるように言った。僕はリュックの口を開けると、警備員に見えるようにする。警備員は僕の持ち物をおざなりに確認すると、

「行っていいですよ。スーパーのバックヤードはここ真っ直ぐ行って三つ目を右ね」

 わかりました、と小さく頭を下げると僕はその場を後にした。

 薄暗い通路を進んでいくと、だんだんと台車や段ボールが増えてきた。僕はパートらしきエプロン姿の中年女性を捕まえて日配品のバックヤードの場所とマネージャーの場所を聞いた。

日配品(デイリー)なら次の角曲がったところね。橋本さんは確かさっき売り場で見たけど、内線で呼んであげようか?」

 パートの女性の言葉にお願いします、と僕は小さく頭を下げる。ちょっと待ってて、と彼女は近くの壁にかけられた電話機を取ると、どこかへ連絡し始めた。

 しばらくして、眼鏡をかけた小太りの男性がバックヤードに姿を現した。橋本、と書かれた名札を左胸につけている。僕が今日仕事をさせてもらう日配品コーナー担当のマネージャーだった。

「ああ、君が今日パンの試食やるマネキンの子?」

「はい、津城と申します。よろしくお願いします」

「試食台の場所わかる?」

 いえ、と僕が首を横に振ると、ついてきてと橋本は僕を誘った。歩きながら、今日が初仕事であることを僕が橋本に話すと、彼は売り場に出るときの注意事項を僕に説明してくれた。

「バックヤードから出るときは必ず、『いらっしゃいませ』。戻るときは『失礼します』。常にお客様に見られていることを意識して。

 売り場を離れるときは必ず試食台をバックヤードに戻して。あと、子供だけのお客様には絶対に試食をさせないこと。あとでアレルギーとかの問題で揉められても困るから」

「わかりました」

「あと、今日赤伝だよね。試食に使った商品数は必ずメモして、袋も捨てずに取っておいて。夕方、終わるときに確認するから」

 わかりました、と僕は再び頷いた。橋本は僕を試食台置き場へ連れていくと、「それじゃあ頑張って」と忙しげにどこかへと去っていった。

 僕はリュックから黒い無地のエプロンを出すと、首を通し、紐を腰で結んだ。同色の三角巾を続いて取り出すと、僕はそれで髪を覆う。唾が飛ぶのを防ぐために口元はマスクで隠した。

 リュックを試食台の下に押し込むと、僕は試食台を押して、手近な出入り口から売り場に出た。まだ、開店前だ。『いらっしゃいませ』は不要だろう。

 僕はパン売り場まで試食台を押していくと、仕事の準備を始めた。試食台に百均で買ってきたテーブルクロスを広げ、その上にトレーと紙皿を置く。ビニール手袋を手にはめると、売り場のパンを手に取ると袋を開け、僕はキッチンバサミでパンを一口サイズに切り始める。切ったパンを紙皿の上に並べ、爪楊枝を刺していく。これで買い物客を迎える準備は万端である。あとは僕が覚悟を決めるだけだ。

 どきどきしながら数分を過ごし、開店時間となった。買い物客たちが入り口から店内へと入ってくるのが視界に入った。

 僕はすうっと深く息を吸った。大声を出すのは恥ずかしくもあるが、仕事である以上、そうも言っていられない。

「いっ、いらっしゃいませっ」

 そう言った声が裏返った。試食のパンが乗ったトレーを手に、僕はほぼ中身がなかったに等しい研修の内容を思い起こしながら、必死で言葉を続けていく。

「ほ、本日は新発売のパンをご紹介いたしておりまーす! いっ、いかがでしょうか、どうぞお試しくださいませっ……!」

 しどろもどろになりながらも僕は開店直後の売り場で声を張る。だんだんと買い物客がパン売り場へと流れてきて、僕の手元のパンへと手を伸ばしては通り過ぎていく。

「マネキンさん、ちょっと」

 店内を巡回していた警備員の男性が僕へと近づいてきた。早速何かやらかしてしまっただろうかと内心で冷や汗を垂らしながら警備員の方へと向き直ると、彼は僕にとんでもないことを耳打ちした。

「あそこの杖ついてるお客さん。あの人、万引きの常習犯だから気をつけて。こっちでも一応気にはかけとくけど」

「えっ……!?」

 僕は思わず絶句した。気をつけろって言われてもどうすれば。この前の面接という名の説明会兼研修のときには万引き犯に遭遇したときの対応法なんて習っていない。こんなの今日が初仕事の僕には荷が勝ちすぎる。

 僕は今日の初仕事を無事に終えることができるのだろうか。こうして僕の初めてのアルバイトは不穏な匂いを漂わせながら幕を開けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ