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第八話:言葉に、できない。~律花、二〇一七年初秋~④

※※注意!!※※

本話はセンシティブな内容を含むため、ご注意ください。

現実の事件や事象を増長させる意図はございません。

 十月に入り、しばらくが過ぎた。少しずつ日が昇るのが遅くなり、空の色も秋めいた深く澄んだものへと変わりつつあった。

 昨晩のあたしは一睡もできなかった。しかし、おかげでスマホの日記アプリやSNSから取得したデータのJWSのストレージへの移行はほぼ完了した。半月ほどかけて構築した自作AIはLI-NGと連携させてあるし、あとは学習のためのジョブをクラウドのサーバ上で回し続け、AIの学習を深化させるだけだ。

 今日はどうしても学校に行かなければならない。今日からうちの高校は二学期の中間テストが始まる。行きたくないのはわかるけれど、単位のためにテストのときだけは行くように、というのが両親の言だった。高校で単位を落として留年でもすれば、将来困るのはあたし自身だぞ、と。あたしに将来どころか明日だって必ずあるかはわからないのに。いつまた、先月のように死にたいという感情に突き動かされてああいうことをしてしまうとも知れないのに。

 あたしは寝巻きのワンピースをもそもそと脱ぐと、制服のワイシャツに袖を通す。こうして制服を着るのも随分久しぶりだなと思いながら、臙脂のチェックのスカートのジッパーを上げる。鏡の前でスカートと同色のリボンを胸元につけ、申し訳程度に髪を整える。まともに眠れていない日が続いているせいで、目元は黒々としたクマができて落ち窪み、いささか頬の肉が落ちたような気がする。

 まあなんだっていい。当たり前のように自宅学習なんてしていないし、赤点確定だけれど、今日と明日だけは両親との約束通り登校せねばならない。部活の子たちと鉢合わせしなくて済むように、保健室で試験を受けられるように母親が学校に掛け合ってくれたと言っていた。

 スクールバッグを持つと、あたしは部屋を出て階段を降りる。洗面所で顔を洗い、歯を磨くとあたしはリビングへ顔を出す。

「律花、おはよう」

 台所で洗い物をしていた母親があたしにそう声を投げかけた。テスト期間だけとはいえ、あたしが学校に行く気になったことに少しほっとしているらしいことが声の調子から察せられた。

 あたしは口の形だけでおはよう、と母親に返した。あれから週に一度、耳鼻咽喉科には通い続けているが、未だにあたしの声が戻る様子はない。

「律花、何か食べていく? 喉痛いならヨーグルトとか」

 母親に朝食を勧められたが、あたしは首を横に振った。これから学校に行くというだけで気が重く、何かを口にする気にはなれなかった。

 くぅん、とマロンが構ってもらいたかったらしくケージの中で存在を主張した。あたしはケージの前で膝を折ると扉を開け、マロンの赤茶の毛を撫でた。嬉しいのか、わずかに開いた口の角が上がっている。行ってくるね、とあたしは声にならない声でマロンへと言った。マロンはあたしに向かってぱたぱたと尻尾を振る。

 ケージの扉を閉めると、あたしは立ち上がった。そして、リビングの扉を開け、玄関へ向かう。

 母親は洗い物の手を止めて、あたしを追って玄関へ来ると、

「律花、いってらっしゃい。気ぃつけてな。お母さんもこの後仕事行くけど、いつもの時間には帰ってくるから」

 わかった。いってきます。あたしは母親に口の動きだけでそう伝えると、玄関の扉を開けた。

 家の外に出ると、きらきらとした金色の朝日が頭の上から降り注いでいた。朝からまともに外に出るのが久しぶりすぎて、あたしはヴァンパイアみたいに太陽に灼かれて灰になってしまいそうになる。たぶん、昨夜一睡もできていないのも一因な気がするけれど。

 どこからから季節に取り残された寒蝉の声がする。何本か向こうの通りから、車が走る音がする。

 そんなさりげない朝の音を聴覚に捉えながら、あたしは三条通に出ると、県境の山々を背に山科駅へと向かって歩き出した。


 向島駅で近鉄を降り、家々がまばらな田畑の間を進む。天高く青い空の下を秋声が抜けていくが、歩くとワイシャツの背中がじんわりと汗ばむ。

 仏教系の小さな大学の前を過ぎた辺りにあたしの通う白鳥商業高校はある。今は八時二十八分、遅刻スレスレの時刻だ。さすがに定期テストの当日ということもあり、昇降口近辺に人影はない。

 あたしは昇降口の扉を潜ると、下駄箱の前でローファーを脱いだ。自分の下駄箱を開けると、蝉の死骸と画鋲とビリビリに破かれた楽譜が入っていた。この中から上履きを救出することは諦めて、あたしはローファーを手に持ったまま校舎の中を進む。保健室で説明してスリッパか何か履くものを用意してもらったほうがよさそうだ。

 保健室の場所は二階の職員室の横だ。あたしは靴下のまま昇降口の正面にある階段を上る。靴下越しに伝わってくるリノリウムの感触が硬くて冷たい。

「――藤間?」

 あたしが一階と二階の間の踊り場に足を踏み入れたとき、頭上から冷ややかな女子生徒の声が降ってきた。上を見ると、同じ合唱部の同じパートの神尾梨汐(かみおりせ)――最初に心春の陰口を言い出し、彼女を退部に追いやった少女の姿があった。梨汐、とあたしの唇が動いたが、声が発されることはなかった。

「よう今になってのこのこ学校に顔出せたなあ? JHKコンの選抜メンバーに選ばれといたくせに、近畿大会も全国大会もすっぽかしてからに、皆迷惑しとんねんで? どうせ、自信のうなって逃げたんやろ? 違う?」

 梨汐の言葉にあたしは何も言い返せなかった。頭の中ですら反論の言葉を思いつけなかった。あたしは唇を噛んで俯く。あたしの様子にふん、と梨汐は鼻を鳴らすと、あたしを責める言葉を更に連ねてくる。

「無責任やね、って先輩たちも他のパートの子たちも言うてたで。それに一年のくせに選抜メンバーに選ばれて生意気や、鼻持ちならないともね。このままいなくなってくれればせいせいするって皆言うとるもん」

 梨汐の言葉が胸に刺さった。体調的な事情があったとはいえ、JHKコンクールの選抜メンバーに選ばれたくせに誰にも何も言わずに部活に顔を出さなくなったのは無責任と謗られても仕方のないことだったかもしれない。学校にも来なくなって、一年生唯一の選抜メンバーという重圧から逃げたと解釈されても仕方のないことだった。

 梨汐の言葉が部内全員の総意かどうかはわからない。けれど、それを確かめるのが怖かった。そして、今のあたしはそれを確かめるための言葉を持たなかった。

(ああ……やっぱり、あたし、休んでる間、色々言われてたんだな……下駄箱見ればわかる話ではあったけど)

 今の合唱部にはあたしの居場所はない。それどころかいなくなればいいとさえ思われている。新学期に入って授業に出なくなってからも、最初のころに形式ばかりのLI-NGメッセージが何通か届いただけで、今やクラスの誰からも気にかけられていない。

(――ああ、そうだ。あたしはいらない、部活にも、クラスにも。だったら、もう生きてたってしょうがないじゃない。いなくなるしかない。死ぬしかないんだ……!)

 視界が滲んだ。あたしは踵を返すと、落ちそうになりながらも階段を一段飛ばしで駆け降りていく。

 昇降口で手に持っていたローファーを足に突っかけると、あたしは学校を飛び出した。午前八時半を知らせるチャイムが学校の敷地内に鳴り響いていた。


 それからあたしはどうやって家に帰っていたのか覚えていない。あたしは玄関でローファーを脱ぎ捨て、スクールバッグを上り框に叩きつけた。

 ドアを開け、リビングに入ると、あまりに荒々しいあたしの気配に怯えたマロンが激しく吠えていたが無視をする。今のあたしにマロンを構っている余裕などなかった。

 リビングに踏み込むと食器棚の引き出しを開け、あたしは精神科で処方された薬を全部引っ張り出した。先週末に精神科を受診したばかりで、幸いにも薬の残りは潤沢だった。

 水切りラックに干されていたコップに水道水を汲むと、あたしはコップと薬の袋を手にばたばたと階段を駆け上がった。あたしを引き止めるようにマロンが鳴いている。

 自室に飛び込み、あたしはベッドサイドにずるずると座り込んだ。いつの間にか目元は泣き腫らして熱を帯び、顔は涙でべとべとになっていた。

 あたしは睡眠薬やら精神安定剤やらを入るだけ口に押し込み、コップの水で流し込んだ。錠剤を嚥下すると、あたしは残りの薬を更に口から流し込む。薬の袋が空になるまで、あたしはそれを繰り返した。

(もう、あたしはこれで二度と目覚めることはない。これで、全部終わりにできる。これで……あたしは死ねる。もう楽になれるんだ)

 疲労感と眠気が徐々にあたしの思考を占めていく。帰ってくるまであれだけ泣いたのだから、疲れて当然だ。

 だんだん瞼が閉じてくる。お父さん、お母さん、マロン。ごめんね。さよなら。トワは……あたしが死んだなんて気づくことはないだろうけど、それでも何か伝えたかった気がする。それだけが心残りだったけれど、きっとそれもあたしが作ったあたしの人格が代わりにやってくれる。

 だんだんと思考の輪郭が薬の副作用に飲まれてぼやけてくる。つかれたなあ。そう思ったのを最後に闇の彼方から忍び寄ってくる幽世(かくりよ)の誘いにあたしは身を委ねた。


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