第八話:言葉に、できない。~律花、二〇一七年初秋~②
※※注意!!※※
本話はセンシティブな内容を含むため、ご注意ください。
現実の事件や事象を増長させる意図はございません。
あたしがふと意識を取り戻すと、カーテンの隙間から夏の残滓を含んだ白い日差しが部屋の中に入り込んできていた。
あたしが意識を失っていた間に、PCの画面はロック画面に戻ってしまっていた。変な姿勢で眠ってしまったせいで、節々に痛みを感じながら机から身を起こすと、あたしは手元のスマホを手に取った。スマホの時計を見ると午前十一時を回っており、その下にはLI-NGの通知が一件表示されている。きっとトワだろう。
ふいに喉にかさついたような違和感を覚えた。机やPCのある辺りはエアコンの直風が当たる場所だ。冷房をつけっぱなしで寝てしまったのが良くなかったのだろうとあたしはあたりをつける。とりあえずなにか飲もう。スマホを部屋着のワンピースのポケットに突っ込むと、あたしは階下へと降りていった。
台所で冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、喉を潤すと、あたしはリビングへと足を踏み入れた。ソファに腰掛け、あたしはトワからのLI-NGメッセージを開いた。
「大丈夫? あんまり無理しないでね」という優しい言葉に、「大丈夫」と打ちかけた指が止まった。トワにならあたしが今置かれている状況を打ち明けてしまってもいいのかもしれなかった。きっと、彼ならば、あたしのこの苦しいとか辛いといった感情を受け止めてくれるに違いない。
(……ううん、トワに心配かけるわけにいかない。トワにだってリアルの生活があるわけだし)
あたしは「大丈夫」という短い返事をそのままトワへと送った。きっと、彼は今ごろ授業中だろうし、既読がつくのは早くても一時間半くらい後だ。
ふと、リビングの掃き出し窓に面したケージから視線を感じた。ミニチュアダックスフントのマロンだった。
あたしに構ってもらえることを期待して、マロンは赤みがかった茶色のふさふさとした尻尾をぶんぶんと振っている。ソファから立ち上がってケージの前にしゃがむと、あたしは愛犬の名を呼んだ。呼ぼうとした。
声が出なかった。口から発されるのは、息が吐き出されるかすかな音だけだ。
部活柄、半ば癖のようになっている、ハミングとリップロールも試してみたが、あたしの声帯から音が発されることはなかった。一体、自分の身に何が起きているのか理解できなくて、段々とあたしの思考が硬直していく。
(なん、で……?)
昨日までは普通に声は出ていた。正確には昨日の夕方ごろに声に若干のざらつきは感じていたが、たまにあることなのであまり気にしていなかった。
鼻に不調はないし、熱っぽいだとかだるいだとか、頭痛だとか吐き気だとかといった風邪の初期症状らしきものは感じられない。ただただ、声が出なかった。
どうしてこんなことになったのだろうか。あたしが悪い子だからだろうか。あたしが心春のことを庇わなかったから、こうして報いを受けているのだろうか。神様が天罰を与えたとでもいうのだろうか。
(あたしは、悪い子だから、ここにいちゃいけない。あたしなんて、生きているべきじゃない)
そうだ、死のう。白く塗りつぶされたあたしの思考から、あまりにもあっさりとそんな結論が飛び出した。あたしは、よろよろと台所に戻る。
痛いのは嫌だけれど、酔った勢いを借りればきっとどうにかなる。冷蔵庫にある親のビールを出して飲んだら怒られるかもしれない。多少減ってもバレないだろうと、シンクの下から料理酒を取り出すと、麦茶を入れていたコップに少量注いだ。
黄色がかった透明な液体にあたしは舌先で触れた。すると、すし酢から酸味を抜いて代わりにえぐみを足したような味が強烈に味覚を貫いた。どうにか飲めないかと、あたしはコップを傾けたが、体が受け付けずにあたしは声なくえずいた。酔った勢いで自殺を試みるというのは無理そうだ。素面のままでいくしかない。あたしは料理酒が入ったままのコップをシンクの上に置く。
仕方ないとあたしは水切りラックの上に干されていた大きな肉切り包丁を手に取ると、頸動脈へと当てがった。大きくて存在感のあるひやりとした刃の感触が、この向こう側にある死の存在を静かに物語っていた。これを一思いに引けば、おそらくあたしは無事ではいられないだろう。昨夜まで幾度となく繰り返してきたリストカットのようなごっこ遊びじゃ済まされなくなる。
それでもいい。あたしには罰が必要だ。自分が心春にしたことを思えば、いくら痛めつけても、壊しても、引き裂いてもまだ足りない。あんな生ぬるい否定じゃ物足りない。
あたしが力を込めて包丁を首に押し込んで手前に引きかけた時、リビングで異変を感じたらしいマロンがウォンと吠えた。その声にあたしはすっと意識を引き戻された。
あたしの自己否定はただの自己愛の発露に過ぎないのだという事実がすっと頭の中に妙に鮮明に降りてくる。あたしを取り巻く現実は、自己否定すら否定してくる。否定の肯定を許してくれない。どこにも逃げ場などないのだと、心を絶望の闇がじわじわと侵食してくる。
包丁を持った手ががたがたと震えた。あたしは今、何をしようとしていたのだろう。すっと手の中を包丁がすり抜け、床へと転がった。
あたしはその場に蹲って顔を覆った。一体どうすればいいというのだろう。死にたくない。だけど、ここにもいたくない。あたしがあたしでいたくない。もう何もかもが嫌で嫌で仕方がなかった。
ウォンウォンとマロンが吠え続けている声が聴覚の表面を撫でていく。あたしはのろのろとリビングのケージの方へと這っていく。
ケージからマロンを出すと、あたしは小さなダックスフントの体を抱きしめた。マロンは大きな黒いつぶらな瞳であたしを静かに見ていた。
マロン、あたしどうしたらいいんだろう。あたし、もうこんなの嫌だよ。お願い、助けて。小さくて暖かい体に縋りつき、あたしはそんなことを思った。声にならないあたしの本当の声だった。
大丈夫だよ、とでも言いたげにマロンはあたしに顔を擦り寄せてきた。その優しさが傷だらけになった心に沁みて、あたしの目から涙が溢れ出した。
あたしは泣き疲れて動けなくなるまで、そのまま鼻を啜り、声にならない嗚咽を上げ続けた。




