第八話:言葉に、できない。~律花、二〇一七年初秋~①
※※注意!!※※
本話はセンシティブな内容を含むため、ご注意ください。
現実の事件や事象を増長させる意図はございません。
かちかちかちかち。斜めの線が入った薄鈍色の刃先を手首に当てる。ひやりとした冷たさを皮膚に感じながら、あたしはそれを押し込んで手前へ引く。鋭い感触が手首を薄く裂き、少し遅れてじんわりとした熱さとひりつくような痛みがあたしの感覚に伝わってきた。
切り傷というよりは引っ掻き傷に近い真新しい傷口からぷつ、っと赤い血が薄く浮かぶ。その熱と痛みがあたしが確かにここにいて、生きていることを感じさせてくれる。こうして自分をぐちゃぐちゃに傷つけて否定することだけが、今のあたしを肯定してくれる。もう既に手首は両面ともに多くの赤い筋が浮かんでいたが、あたしは心を空っぽにして半ば機械的に自分に傷を刻み続ける。これは罰だ。
あたしは高校に入学して、合唱部に入った。うちの学校の合唱部は強豪かつ練習が厳しいことで有名だった。
合唱部では、先輩と後輩がペアやトリオを組んで日々の練習に取り組んでいる。しかし、異変が起きたのはゴールデンウィークが過ぎたころだった。
パート内で、あたしとトリオを組んでいる一年生の瀧川心春が他の一年生たちに陰口を叩かれるようになった。きっかけは些細なことだった。標的は誰でも――心春でもあたしでもよかったのだと思う。あのときは家の事情で練習を休むことが多い心春に対して不満を覚えていた子たちからそれまで溜まっていた鬱憤が噴出した。
その日のことをあたしはよく覚えている。あれは夏のJHKのコンクールに向けた土曜日の練習が終わった後のことだった。
全パート揃っての通し練習が終わった後に、いつも通り練習終わりのパート別の反省会があった。三年のパートリーダーの近藤絃葉により、今日の練習の総括がなされ、解散が告げられた後も、一年生はその場を離れなかった。
「心春ってむかつくよね」
そう言い出したのは確か梨汐だった。それに釣られるように他の子たちもその場にいない心春の悪口を言い始めた。
気がつけばアルトの一年だけで車座になり、順に心春の嫌いなところを挙げていく流れになった。まだ五月だというのに、背中に嫌な汗が流れ、制服のワイシャツがべったりと肌に張り付いた。
あたしは自分があのとき何といって難を逃れたのか覚えていない。おそらく当たり障りのないことを言ってその場をやり過ごしたのだろう。
あたしはトリオを組んでいるだけあって、心春の事情についてもある程度理解してはいた。それなのに、あたしは次に矛先が自分に向けられるのが怖くて、心春を庇うことができなかった。
それから程なくして、心春は合唱部を辞めていった。そして、それからそう経たずに学校にも来なくなった。
あたしとトリオを――今となってはペアだが――を組んでいた三年の加藤清香は何かあたしに聞きたそうにしていたが、結局何も聞いてくることはなかった。
あたしに異変が起きたのは、季節が梅雨に移ろうころだった。夏のJHK全国学生音楽コンクールの選抜メンバーに一年生から唯一あたしが選ばれたのを機に、あたしは夜眠れなくなった。
それだけではなく、部活の練習中に倒れかけることが増えていった。歌っているはずが、突然視界が真っ暗になり、さーっと全身の血が下へ落ちていくような感覚が度々あたしを襲った。その度に、あたしは倒れるな、と自分を叱咤して、無理やり意識を繋ぎ止めた。
夏休みに入ったころ、あたしが眠れていないことに気がついた母親があたしを三条にある精神科に連れていった。薄暗く、息の詰まる鬱蒼とした空気が沈澱した駅前のクリニックで何時間も待たされた結果、起立性調節障害と診断された。
起立性調節障害とは、立っているときに血圧や血流が低下する病気で、不眠の原因にもなるのだという。検査の一環で血圧を測ったところ、上が七十五、下が四十二しかなく、同伴していた母親にはどうしてこれで生きているのかと不思議がられた。
夏休みが開けたころから、あたしは徐々に学校に行かなくなった。そのせいで心春のときのように同じパートの一年生の面々からはあれこれ言われているのは間違いなかったが、それでもどうしても学校に行く気になれなかった。
春に進学祝いに父親に買ってもらったデスクトップPCのモニターが、明かりの消えた暗い部屋の中でぼんやりと白い光を放っている。あたしは手首から流れる血をそのままに、机の前から『JWSではじめるAI入門』というタイトルの本を引っ張り出した。今年のはじめに瑚夏や楓佳と初詣に行ったとき、河原町にある中島屋の書店で購入したものだった。
あたしは本のページをめくると、机の隣に置かれたデスクトップPCの画面ロックを解除する。ブラウザでインターネットに繋ぐとJWS――Jungle Web Serviceというクラウドコンピューティングのサイトにアクセスした。
JWSの利用にはクレジットカードの登録が必要である。しかし、まだ高校生のあたしは当然クレジットカードなど持ってはいない。けれど、あたしは父親が以前に出来心でJWSのアカウントを作っていたのを知っていた。
(たぶん、メールアドレスはいつものやつ……アカウント名はきっとAdminかAdministratorだし……パスワードはまあ、あれしかないよね)
あたしはJWSにログインするべく、パスワード欄にペットの犬の名前と誕生日の下四桁を入力する。そして、ログインボタンを押下すると、特にエラーメッセージが表示されることもなく、ログイン画面はコンソール画面へと遷移した。
(お父さんちょろいな……こんなんじゃ誰かにアカウント悪用されても文句言えないよ)
あたしは自分のしていることを棚に上げてそんなことを胸中で独りごちる。幸い、誰かが特に何か作業をした痕跡もなく、コンソール画面は真っ白だ。
(ええと……確か、これはルートアカウントだから、実際の作業には使えないんやったっけ)
そうなると、実作業用のアカウントを別に作らなければならない。あたしは本のページを先に進め、新しくアカウントを作成する方法が解説された一節を開いた。
(アカウント名は「im_lena」っと……パスワードはあれにしよう)
あたしはアルファベットを六文字打ち、0の位置で指を止める。あいつの誕生日はいつだっただろうか。
机の隅に置いたままだったスマホを手に取ると、あたしはLI-NGの通知が来ていることに気がついた。今は午前二時三十八分。通知は四時間も前のものだ。
トワかな、と思いながらあたしはLI-NGを開く。休み始めたころは来ていた合唱部の子たちやクラスの子たちからの形ばかりの心のこもらないメッセージは今ではぱったりと途絶えていたし、中学のときに仲良くしていた瑚夏や楓佳とも高校に入ってから何となく疎遠になってしまっていた。
メッセージの送り主は案の定トワだった。「つしろはると」の名前の横に未読数を示すアイコンが表示されている。
チャット画面を開くと、「最近どう? 元気にしてる?」とあたしのことを気遣う文章が綴られていた。画面に表示された吹き出しの下に既読の二文字が表示される。こんな時間だとはいえ、既読だけつけて何も返さないのも感じが悪い。
「返事遅れてごめんね。最近、大会近いせいで部活がハードで疲れてて」
ただそう返すと、あたしはチャット画面を閉じる。そっけなかったかな、とも思うけれど、トワヘボロを出さないようにするためには、これが精一杯だった。
あたしはLI-NGアカウントからトワの誕生日を確認すると、JWSの新しいアカウントに入力しかかっていたパスワードの末尾に0219と付け足した。
アカウントを作成する、と書かれたボタンを押下し、正常にアカウントが作成されたことを確認すると、次はロールの付与に移る。ロールというのは、簡単にいえば、JWSの各機能を使うのに必要な権限のことだ。
今後別のユーザを作るために必要な権限、ストレージへアクセスするための権限、データを分析するための機能を使用するための権限などをリストから探してはチェックボックスにチェックを入れていく。
そんなことをしていると、全身の血がざっと急激に下へ落ちていくのを感じた。視界が真っ暗な闇へと呑み込まれていく。あたしはマウスから手を離すと、ぐわんぐわんとする気持ち悪さをやり過ごすために机の上へと突っ伏した。そして、あたしは闇の中へとふっと意識を手放した。




