第七話:終わりの朝~晴翔、二〇一七年初夏~③
週が明け、テストがぱらぱらと帰ってき始めた。幸い赤点はなかったけれど、途中で諦めて放り投げた化学はぎりぎりだった。
梅雨前線が近づいてきているのか、少しずつ雨の日が増えていった。そんな中、来月の体育祭についてホームルームで種目決めが行なわれた。
(クラス対抗の大縄跳びだけでお茶を濁したかったんだけどな……なんでムカデ競争と借り物競走なんか……)
僕は放課後の図書館のカウンターで頬杖をつきながら、ため息をついた。今日は水曜日、図書委員を務める僕のカウンター当番の日である。
窓の外ではしとしとと緑雨が地面を打っている。中間テストが終わったということもあり、利用する生徒は少ない。廊下で走り込みをしている運動部の生徒たちの足音が断続的かつ規則的に聞こえてきて、うと、うと、と僕は船を漕ぎ始める。図書館の中に満ちる本の匂いとペトリコールが心地よくて、なぜか安心する。
意識が眠気に飲み込まれかけ、やば、と僕はかぶりを振った。そして、ダークグレーのブレザーの胸ポケットからスマホを僕は取り出す。
ロック画面に表示された時刻は十六時三十七分。閉館時間までまだ一時間半近くある。
(そういえばまだ今日のデイリー消化してなかったな……)
僕は画面のロックを解除すると、BNFのアプリを起動させる。司書の先生に見つかれば大目玉だが、居眠りをしているよりはマシである。たぶん。きっと。
シングルクエストのリストを眺めながら、目的のものを見つけると僕は指先でタップする。バジリスク討伐戦。難易度は大したことはないが、ドロップアイテムのバジリスクの牙がさまざまな装備品の強化に有用だ。
えい、と僕は多段攻撃系のアビリティをぽちっとタップする。僕の手持ちには相変わらずURのキャラも装備品もないが、それでもこの程度の敵であればアビリティ一撃で事足りる。
「あっやっべ、ドロップアップのバフつけとくの忘れた」
いろいろなところで使うので、バジリスクの牙のドロップ率を少しでも上げておくべきだった。しかし、これは一日一回までしかできない。後悔先にたたずである。
「……津城くん?」
ふっと僕の背後に影がさす。人の気配を感じて振り返ると、エプロン姿の三十代前半の女性が立っていた。司書の若井だった。やば、と僕は思わず口走る。
「何がやば、なのかしら? そんなことして遊んでる暇があるのなら、図書委員らしく本を書架に戻してきてくれる?」
若井はカウンター横のラックを手で指し示しながら、にこやかにそう言った。笑顔にどこか圧があって、ちょっと怖い。
「……はい」
見えない圧に押し負けて、僕は頷いた。そそくさとスマホをブレザーの胸ポケットにしまい、立ち上がると、僕はラックから本を何冊か手に取った。
(ん……分類番号が五四八……? 珍しいな、大抵のやつは小説ばっか借りてくのに)
腕の中の本のタイトルに目を落とすと、『はじめてのアルゴリズム』、『猿でもわかるプログラミング入門』などと書かれている。世の中にはレナ以外にもこういうものに興味がある高校生がいるのだと思うとなんだか可笑しみを感じる。
僕は天井まで届こうかという本棚の間を本を抱えてこつこつと歩く。雨音と上履きの靴音が人気のない図書館の中に響く。廊下で走り込みをしていた運動部員たちの足音も遠く、誰もいない水底にいるかのような錯覚を起こしそうだった。
意識の隅ではまだ眠気が緩やかに揺蕩っている。十七時のチャイムが鳴るのを聞きながら、僕は腕の中の本たちをあるべき場所へ片付けていった。
目覚まし時計の音を意識の隅で聴いたような気がして、僕は目を覚ました。枕元の充電ケーブルに繋いだスマホを半ば無意識に操作して僕は現在の時刻を確認する。午前四時五十二分。起きるにはまだ二時間ほど早い。
掛け布団の中に潜り込み、もう一度眠りにつこうとすると、スマホが着信を知らせた。とぅるるとぅるるとぅろろろーんというこの音は、LI-NGの呼びだし音だ。
(もう……誰だよ、こんな早朝から……)
確か今日の朝からBNFの大型のレイドイベントが始まる予定だ。報酬がかなり美味しいからと、蒼也たちがやる気を出していた。通話をかけてきたのが蒼也なり旭飛なり大智なりだったら無視をして、学校で文句を言ってやろう。
重い瞼を押し上げて、僕はメロディを奏で続けるスマホに表示された発信者名を確認する。画面に表示されていた人物名は予想外のものだった。リツカ――藤間律花ことレナだった。
え、と僕は戸惑い、目を瞬かせた。すっと眠気の波が引いていく。僕はスマホから充電ケーブルを引き抜くと、緑の受話器のアイコンをタップして通話に応じた。
「レナ? こんな時間にどうしたの?」
僕の問いに対して返ってきたのは沈黙だった。ざらざらとしたかすかなノイズ音に混ざるようにして、嗚咽が聞こえたような気がして、僕はもう一度彼女の名を呼んだ。
「っ……トワ……、どうしよ……っく……」
スマホのスピーカー越しにか細く弱々しい声が聞こえた。
「トワ……っ、あたし……」
「レナ? レナ、一体何があったの?」
尋常ではない彼女の様子に、僕の声は高くなる。隣の兄の部屋から、ドンと壁を叩く音が聞こえてきたが、そんな瑣末事に構っている場合ではない。
再び通話の向こう側で、嗚咽を押し殺したような不自然で痛々しい沈黙が流れた。そんな時間が五分近く続き、なんでもない、という小さな声が僕の耳朶を弱々しく打った。
「ごめん……、何か、変な夢、みちゃって……それでちょっと……トワの声聞きたくなっちゃった、みたいな……?」
そんなふうにレナは弁解するが、僕にはそれが嘘であるように思えて仕方なかった。
「ねえ、レナ、大丈夫? 何かあったんなら話聞くよ?」
僕はレナの身を案じ、彼女へとそう畳み掛けた。しかし、彼女は大丈夫だよと小さく笑った。涙交じりの悲しげな声だった。
「全然、大丈夫って感じじゃないよ。ねえ、どうしたの?」
「何でも、ない……っ、トワがっ……心配する、ようなことは……っく、何も、ない……よ」
――ごめん、ありがとう。
彼女は細い声で呟くと、通話を切った。ドゥルルン、という電子音が一方的に通話を切られたことを僕に知らせている。
僕はレナとのLI-NGのチャット画面を開くと、指を動かした。無理しないでね。話したくなったらいつでも聞くよ。伝えたいことはいくらでもあるのに、今の彼女にどう言葉をかけたらいいのかわからなくて、言葉を打ち込んでは送れないまま消すことを僕は繰り返した。さっきのレナの大丈夫は紛れもなく強がりだということはわかるのに、一体何が彼女をあのように苦しめているのかわからない。
何か手掛かりがないかと僕はレナのPostedとClipperのアカウントの投稿を辿った。Postedは相変わらず、今年の三月で更新が止まっているし、Clipperは昨日の夕方に新作のフラッペの写真が上げられており、不審な点はない。リアルの彼女に何があったのか、まったくわからなかった。
カーテン越しに金色の朝日が暗い部屋の中に入り込んできていた。首都高速の交通音が僕の聴覚を薄く占めていく。
僕はレナのために何もしてやれない。彼女の近くにいれば、何かしてやれることがあったかもしれないと、僕はこの脆く儚い繋がりを初めて恨んだ。東京と京都、数百キロにもわたるこの距離が憎い。
上の階の住人の一日が始まったのか、どすどすと無遠慮な足音が聞こえる。僕はそれを聴覚の隅に捉えながら、スマホを握りしめたまま唇を噛んだ。




