第三話:秋思と旋律~晴翔、二〇一五年秋~④
「あれ、晴翔。サボるかと思ってた」
二年三組の男子の練習場所として割り当てられた多目的教室の扉を開けると、蒼也は意外そうに目を瞬いた。歌が苦手だと言って憚らない僕が一番乗りで登校してきているとは思わなかったのだろう。
「蒼也、おはよう」
おはよ、と返事をすると、蒼也は僕のそばにリュックを下ろした。相変わらず信じられないものを見るかのような目で蒼也は僕を見ながら、
「何見てんの? って楽譜?」
引き気味な様子の蒼也にどうかした、と僕は楽譜から目線を上げる。
「どうしたんだよ、晴翔。昨日あんなにやる気なかったじゃん。何、誰か嫌われたくない女子でもいるわけー? やっぱ人気どころで志筑とか?」
そんなんじゃないよ、と僕は首を横に振った。
「じゃあ何?」
「合唱祭の話愚痴ったら、この曲好きって子がいてさ。だから、ちょっとくらい頑張ってみてもいいかなって思っただけ」
「結局理由、女子じゃん」
なあんだ、と拍子抜けしたように蒼也は半袖のワイシャツの肩をすくめる。
「女子……といえば、女子だけど、別に蒼也が期待してるような関係じゃないし」
「その子ってあれだろ、晴翔の話によく出てくる、ゲームで知り合った京都の子。やっぱ女子じゃん」
「まあ、そうなんだけど……でも、レナは友達だよ。恋愛感情とかそんなんじゃないよ、互いに」
「ま、そう思ってるのお前だけかもしれないけどな。普通、どこの誰とも知らねえ男にLI-NGのアカウント教えないだろ」
「それは……」
ない、と蒼也の言葉を断じきれない自分がいた。レナはただの友達と言い切ってしまうには、僕にとって特別な存在だった。実際に会ったことすらないけれど、レナは――藤間律花は、僕にとって特別な友達だった。そこに恋愛感情はない、と僕は思っている。僕たちの間にあるのはもっと純粋で、深くて、密な精神と精神の繋がりだった。
この関係性を表す名前を僕は思いつけない。けれど、レナが僕にとって大切な相手であるのは間違いなかった。
「まあ、悩めばいいんじゃん?」
蒼也は自分のリュックからわずか一日にしてよれよれになった楽譜を引っ張り出すと、にっと笑った。彼はほら、と楽譜の上部に書かれた歌詞を指で示しながら、
「この曲の主人公だって、自分の感情の正体が分からなくて、終始自問自答してるだろ。たぶん、それだけ人間の感情は複雑ってことなんだろうから、晴翔も悩めばいいじゃん」
「……うん」
レナに対して恋愛感情はないとは思うが、それでも自分たちの関係を表す名前がわからないのは事実だ。儚いのに強固な、見つかりそうで見つからないその答えを探してみるのもいいような気がした。
ざわざわと階段を上がってくる男子生徒たちの声が聞こえてきた。おそらく、合唱練習のために集まってきた僕たちのクラスの男子たちだろう。
黒板の上の時計は午前七時半を指している。秋の透明さを帯び始めた蒼穹にまだ夏の名残を残した白い朝日が降り注いでいた。




