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水飛沫を上げ、勢いよく頭を突き出した。
今度こそ本当に死ぬかと思った。用水路は中に入ると激流になっており、清那は泳ぐ間もなく押し流されていった。空気が足りないと思ったその時はるか上に水面が見え、その方向に必死に泳いだ。
息を整え、周囲を観察する。
庭園のようだ。砂漠の都市だというのに緑豊かな植栽。そこらじゅう花の香りで満ちている。清那が流されてきた噴水を囲むように、葡萄の蔓棚を屋根にした長椅子が並ぶ。
「ここにお客様が来るのは初めてだわ」
可憐さと気品が併存した、不思議な魅力のある声だった。世間知らずの感さえある。
生垣の奥から、人影が現れた。
頭のてっぺんからつま先まで、完璧に整えられた女性だった。黒檀の黒髪は癖という概念を知らず、彼女を彩る装飾品は、ふんだんに宝石と金が使われた一級品。
耳の後ろから羽が生えている。天に翼を掲げているかのような、隼の羽が。
彼女が歩くたび、光沢のある白い絹織物が熱風に舞う。精緻に施された金の刺繍の柄が踊る。そのゆらめきさえ陽炎のよう。
清那の進路が間違っていなければ、ここは王族とごく近しい臣下しか出入りのできない区画。
そこから推測できる人物といえば。
「隼南王……」
女性は濃紺のアイシャドウで縁取られた大きな目を細めた。不思議な瞳だった。右目が金、左目が青。正当な王族の瞳は太陽と月を現していると聞いたことがあるが、このことなのか。
「そう。わたくしが隼南」
隼南王は清那を長椅子に誘導すると、持っていた盆を二人の間に置いた。とろりとした葡萄酒と、見たこともないような美しい菓子が並んでいる。不思議なことに、この場にはもともと隼南王しかいないはずなのに、杯は二個用意されていた。
「あなたが清那さんね」
清那は緊張のあまり唾を飲んで首を縦にふった。
「あなたとお話してみたかったの」
隼南王が首を傾げると、耳飾りがしゃらしゃらと音を立てた。
「なぜ、私を知っているんですか」
「王の目は全てを見通し、王の耳は全てを聞くわ。知らないことなどないのよ」
柔らかく笑った。穏やかな話口ではあるが、その瞳に映る光はなぜか少し澱んで見えた。
「お兄様の生徒。朱鷺書院の女学生なのでしょう? ならばわたくしと同じよ。男性のみが口を開ける世界で、場違いに存在する女性」
流麗な所作で菓子を口に運ぶ。その洗練された動きに、清那はしばらく見惚れてしまった。
「わたくしは、清那さんとお友達になりたいの」
「へぇっ?」
突然の告白に目を白黒させていると、隼南王はぽつぽつと語り出した。
「他国よりいくらかましとはいえ、照耀国は女の地位がまだまだ低いわ。現に、わたくしは隼人お兄様の完全な言いなりで、進んで政治に参加できたことなどほとんどないの」
清那は居心地が悪くて、葡萄酒に口をつけた。こんな状況なのに、これまで飲んだどの酒より芳醇で深く、その味に驚愕してしまった。
「人には中身の前に役割がある。わたくしは王として、神として相応しい人間であらねばならない。そのためには指先の動作ひとつ気を抜けなくて、お兄様の人形として正しく踊らなければならない。あなただってそうでしょう。女の学者として、酷い扱いの一つや二つ、受けたのではなくて? ただ、生まれや性別が今の形であっただけだと言うのに」
憂いを帯びた長いまつ毛が、艶やかな褐色の肌に影を作る。こう見ると、スッと伸びた鼻筋などが高砂とよく似ているなと思った。
「わたくしは、自分のことが大嫌いなの。目的があって奮闘しているお兄様たちと違って、椅子を守ることにだけ執心している空っぽな女ですもの。それなのに、周囲はわたくしを囃し立てて、崇められて。もう嫌なの。女王なんかじゃなかったら、自由に恋をして、真実の愛を知ることができたでしょうに。差別なんてなくなってしまえばいいのだわ。ねえ、清那さん」
女王の怒りは、悲しみは尤もなものだ。
「……確かに、学者の世界は、女に厳しいですけど」
でも清那は心にしこりを感じていた。
「それが世界に絶望する理由には足り得ません。やりたいこと、成したいことの前に障害があるのは当然で、一人一人立場は違う。配られた条件の中でどううまく立ち回りを楽しめるかが重要なんだと思います」
清那は自ら選択して、学者を目指したのだ。不条理は感じた。差別は受けた。でもそれだけじゃない。
「私は、女王様とは違います」
差別を無くすという題目は大切なことではあるが、そこに注力していても現実は変わらない。
「大体、誰かを仲間だと思った時点で、それ以外の他人は差別する対象になるんです。だから、苦しみに同情するだけじゃ何も変わらない。自分を傷つけてきた人々をも含め、どうしたらうまく物事を進められるか。これを考えなきゃいけない」
だから高砂が圧倒的なのだ。不利な条件を受け入れた上でどう行動するか決める。その大切さを教えてくれた。
「空っぽな自分自身に価値を見出し、何もできない自分を好きになるんです。差別がどうのと喚くのは、それからの話。差別をなくすというのは、殺したいほど憎い相手であってもお互い妥協点を見つけ、どちらもやんわり嫌な思いをすると言うことですから、自分が寛容でないとできないことです。もし自分が完全にいい思いだけをして差別されない状況を作れるとしたら、それはただの独裁です」
息が切れている。
「だから、隼南王は、今のままでは操り人形のままです。悲劇のヒロインぶってても何も解決なんてしません。もしこの状況が嫌なら、行動するんです。そうすれば、肩書きなんか吹っ飛ばすほど素敵な女性になれます。絶対に」
言ってから悪い癖が出た、と自覚した。相手は女王様なのに、いつもの要領で捲し立ててしまった。同性からの悩み相談は清那の特に苦手なことのひとつだった。相手からの慰めてほしいという欲求を無視して、理屈っぽく打開策を組み立ててしまう。こんなんだからモテないんだよと甘夏にも散々言われてきたじゃないか。
言ってしまったことを反芻し青ざめていると、隼南王は予想に反し薄く笑った。
「強いのね。隼砂お兄様とそっくりだわ」
「あっ……ええと、だからと言って友達のお誘いを断るわけでは……」
「いいのよ。貴女を少し試しただけだもの。わたくしに同情するような女じゃ、これから隼人お兄様とは戦えないわ」
その瞳に、光が宿る。
一変して、その笑みには自信と熱情が溢れる。
「やはり貴女は、わたくしと志を同じくする者だわ。この国の変革を強く望んでいる。未来を賭けるに値する」
今までの気弱な女王はどこにもいない。ただ操られて嘆いているだけの弱い女王は演技だったのだ。
太陽を照り返す金の装飾は、今は彼女を象徴するためだけに存在する。
彼女こそが、照耀国の真の王であると。
「わたくしが隼人お兄様に操られているのは事実だわ。でもそれだけじゃない。わたくしはわたくしのやり方で、王を務めてみせる。与えられた脚本を、演じてみせる」
灼けた風が吹き抜け、黒髪を揺らす。
隼南王は長椅子から立ち上がると、その細い指で磨かれたタイルを一枚目繰り上げた。
石灰石の床の下に、地下に続く階段が続いている。
「この下は地下牢よ。行きなさい。隼人お兄様は周到な人だから、着実に処刑の準備を進めているはず」
どこから取り出したのか、錆びた鍵束を渡される。女王の手のひらには似つかわしくない、粗雑な作りのものだった。
「いいんですか、た……隼砂様を助けることは、国を傾けるかもしれませんよ」
ふるふると首を振る。
「変化は痛みを伴うもの。その覚悟がない者にまつりごとなどできない」
隼南王は、傷ひとつない手を差し出した。
その青と金の瞳は、大地を照らす太陽の光を一心に浴びて、燃え上がるように耀いている。
「貴女のこと、応援しているわ。もちろん、一友人として」
「……はい!」
清那は傷だらけの手で、その柔らかい手を握り返した。