7
心なしか、風景が褪せているような気がする。
貧民街の一角。
清那の実家である隊商宿や劇場がある場所も、いわゆる花街に隣接しているのであまり治安は良くない。しかしそんな育ちの清那でさえ、ここは特に入ってはいけないと大人にきつく言われる場所だった。清那自身用事もないので白冠の中でも初めて足を踏み入れる地域である。
砂埃が景色をくすんで見せている。
この国の太陽光は真上から降り注ぐ。昼間でもカラッとしていて薄暗いわけではないが、路地がやたら狭くなっている。砂塵を防ぐ外壁に近いためか、地面に溜まる砂山も高い。
物乞いの手を振り払いながら、清那は地図に従って四角い建物の半地下に降りる。建てつけたというよりかうまく嵌ったと表現した方がいいような、ささくれた木の扉を叩く。
「すみません」
気だるそうな物音が響いたかと思うと、軋みあげながら板戸が開いた。
まぶたを擦りながら男が出てくる。
ダチョウの羽に暗緑色の髪、褐色の肌は不健康にくすんでいる。無精髭は伸びっぱなし。重い目蓋に潰されそうな垂れ目には深い隈が落ちる。貧民街の住人らしく腰巻だけ巻いている状態だが、体には無数の傷がありそれらを包帯でぐるぐる巻きにしているため、肌の露出自体は少ない。
(この人が、明星先生が言っていた墓泥棒……)
確かに、今まで清那が会ってきた男とは種類が違う。物騒な雰囲気を纏っている。
「こんな時間から扉を叩くやつがあるか」
不機嫌に顔を歪めて欠伸をする。
寝起きだとしてもその視線は鋭い。
「オシさんですね。依頼したいことがあります」
「こちとら売女と商売するほど落ちぶれてねぇよ」
吐き捨てるように言った。
しかし清那には想定内である。
流石に朱鷺書院の生徒だとバレたら多方面に迷惑がかかる。いっそ無名の踊り子という体で行こうと一旦寮に戻り制服は脱いできた。髪も解いているので、清那のことを良く知る者でないと一瞬ではわからないだろう。商売女に見えたのは逆に都合がいい。
早速切り札を切らせてもらう。
「……王墓の地下地図を持っている、と言ったら?」
オシの灰色のダチョウの羽が微かに震える。
落ち窪んだ瞳に、光が宿る。
「前金制だ。ブツを見せろ」
清那は先ほど明星にもらったパピルスを鞄から取り出した。
ぞんざいにぶん取られる。中身を一目見て、部屋の奥に視線をやる。
イシ、と呼ぶと、闇から女が出てきた。
牛の角に細い尻尾。整ったかんばせに一本引かれた細い目は、ともすれば妖艶な雰囲気すら醸し出している。お姉さんと言った体つきだが、牛の女性はほかの種族に比べて肉体の成長が著しいのでまだ少女と言える年齢だろう。顔に似合わずあどけなさの残る表情からも察せる。
イシと呼ばれた少女は前かがみになってオシの手の中にある地図を覗き込む。まっすぐな長い黒髪が肩から滑り落ちる。
「どうだ」
オシが問うと、イシは唇だけ動かして返答する。
「オシ、これすごい。今まで見た中で一番正確」
オシは息をのんだ。大きいというよりは凶暴ささえ滲む手でボリボリと頭を掻く。
黒い闇に、睨まれる。
「ネエちゃん、あんたこれ、どっから持ってきた」
「それは言えない」
「ふん」
オシは顎をしゃくって中に入るよう促した。
緊張で拳を握りしめながらサンダルを踏み出したその時だった。
ふわりと体が浮かぶ。
「わっ!」
苦しい、と思った時には丸太のように太い腕が清那を拘束していた。オシに後ろから羽交い絞めにされている、という認識に至るまでに数秒を要した。
喉元に冷たい感覚がある。
恐る恐る目線を下に降ろす。
視界に入ってきたのは、鈍く光る短刀だった。
清那は息を飲む。心臓に血が流れていく音すら聞こえる。ばくんばくんという心音。
「こちらとしても、信用で成り立っているのでね。情報源がわからんものを渡してくる奴にゃあ用心しないといけねえ」
オシは地を転がすような低い声で言う。
「でも」
ここで入手経路を伝えたら、明星に危害が及ぶかもしれない。そうなったら、千夜の研究は本当の意味で止まってしまう。
「そもそもお前さん、ただの踊り子じゃねえな。高級娼婦でもない限り、あれを見ても墓の地図だとはわかんねえだろ」
「……」
確かに、文字が読めなければわからないのだ。
大枠の図形は書いてあるが、どこに何が配置されているかは全部文字で書いてあった。読めなければ地図でないのも同じ。天狼座のように貴族も来るような劇場に属している人間は別として、墓泥棒を率先してやるような人間は文字どころか学に触れる機会すらない。あれは地図とすらわからないのだ。文字で表記することは、葬祭殿独自の泥棒対策でもあるのだろう。
「答えられなきゃここで首搔っ切って地図を拝借するまでだ」
刃が清那の肌に食い込んだ。
首元に鋭い痛みが走る。
「……ッ」
「強情だな、ネエちゃん」
オシは鼻を鳴らした。
暗闇から黙って事態を静観していたイシが口を開く。
「オシ、だめ。殺すのは勿体ない」
「あぁん?」
「その子、星が読める。使えるよ」
イシの顔からは表情が読み取れない。
(星が、読める?)
心当たりがない。そもそも墓泥棒に使えるような技能は持っていないはずだが。
何を見て、この少女はそう判断したのか。
「……マジか」
オシは拘束を緩めた。
清那は地面に投げ出された。気管に砂が入って激しく咳込む。清那が尻餅をついたところに砂埃が舞った。
「ネエちゃん、何者だ?」
清那が答えるより早く、イシが口を挟む。
「イシが見るに、巫の血族だよ」
(かんなぎ?)
オシは舌打ちをした。
「……巫様が、何が悲しくて、こんなところで踊り子なんかやってるんだか。お前の舞と体は、小汚ねぇジジイに捧げるためのモンじゃねぇだろうに。死体屋といい、落ちるとこまで落ちやがって」
清那のわからないところで納得をしたらしい。オシは清那に傷だらけの手を差し出した。
「手を貸してくれるんですか?」
「信用したわけじゃねえ。お前の祖先に借りがあるだけだ」
それ以上何も言う気が無いようで、オシは口を閉した。
差し出された手を握って、地面に立つ。
服についた砂をはらって粗末な家の中に入ると、暗闇に見えた屋内は予想外に明るい。半地下なので小さな灯り取りしか窓はないが、ランプがいくつか置いてあり、暮らすには十分な照度だった。
仕事道具だろうか、物騒な刃物や工具がそこかしこに置いてある他、簡単な衝立で仕切られた向こうは呪術道具が沢山並べられている。方角でも占うのだろうか。
オシに促され、椅子とは名ばかりの木の上に座る。目の前に大きな卓には、地図や羅針盤が広げられている。やはり墓泥棒というより、測量士の事務所のようだ。二人とも身分で言えば文字が読めないのが普通なのに、この資料の数はなんだ。狭い部屋なのに書院の研究室と見紛うほどの本棚がある。明星は信頼できると言っていたが、この人達は、何者だ。
オシは股を開いて椅子みたいなものに座る。
「改めて自己紹介をしようか。俺は墓泥棒の忍塚。んで、このちんちくりんが」
「イシ、だよ。オシの相棒」
イシは甕から水を掬って卓に置いた。近くの水路から汲んだのだろう。少し濁っている。
「清那です。……訳あって、踊り子をしています」
「要件を聞こう」
オシは腕を組んで、亀のように首を突き出す。
「坂羅から王宮に侵入したいんです」
「へえ、なぜ?」
「大切な人が、無実の罪で捕まっているんです」
笑われると思ったが、オシは眉間の皺を深くしただけだった。隣に座るイシに目配せをする。イシは答えるように頷いた。
「嘘ではないよ」
「そうか」
しゃあねえなあ、と言いながらオシは背筋を伸ばした。ぼきぼきと関節が鳴る。
「引き受けよう。お題はこの地図で十分だ。ちょうど、昨日荒らされた現場も確認しておこうと思っていたしな。地図に従って、和隼王墓に侵入するぞ。決行は今夜だ」
「あいあいさー」
間延びした声を出してイシが腕を振り上げる。
「え、いいんですか?」
やけにあっさり承諾したので本音が漏れてしまった。こちらからはふわっとした情報しか伝えていないのに。
「ネエちゃん、さてはこの地図の価値をわかっていないな。この地図の書式は葬祭殿発行の公式文書だ。しかも、王宮の連絡路どころか太陽の舟の埋葬場所まで記されている。俺たちにとっては、喉から手が出るほど欲しいブツなんだよ」
「太陽の舟?」
明星が言っていた、開けられていない区画のことだろうか。一般に太陽の舟は太陽祭の御輿のことを指すが、それ以上の意味を感じる。
「なんだ、知らねえで持ってきたのか。太陽の舟ってのは昼と夜を渡る舟ってだけじゃねえ。穢れた千夜国から和隼王が脱出した際に実際に使われた戦艦なんだよ。そこには、どんな病気でも治す薬があると言われている。貧民街で繰り返し語られる夢物語の一つではあるが」
オシは包帯に手をかけた。するすると解くとそこには、緑色に化膿したやけどの跡のようなものがある。ランプの炎が揺れるたび、腐臭とともにぬらぬらと光る。
「遺伝でな、大人になるにつれ皮膚が腐っていく病を持っている。今まで色々な医者に当たったが、治せずじまいだ。どうせ死ぬんだ。最後くらい伝説の類に縋ってみてもいいだろう?」
オシは自嘲するように笑った。
「……理由はわかりました、が。ほら話じゃなかったとして、一緒に埋葬する意味があるんでしょうか? そんなに優秀な戦艦なら、普通に利用してもいいようなものなのに」
「それはね、千夜の呪いが関わっている。悪神は和隼王に殺される際、世界に穢れをまき散らしたと言われている。栄光の戦艦もそれに接触して、通常の方法では使用不可能になった、というのがこの伝説では必ず一緒に語られる文言なんだ。普通に考えると、この穢れというのは砂のことじゃないかな」
通常なら河を渡る舟が、砂漠に乗り上げる。王が乗る舟じゃ精密な機能があるものだろうし、砂が入ったらどうしようもなくなるのはわかる。
千夜国と照耀国の戦争で砂漠化したという、いわゆる正史とも合致する事項ではある。
「とにかく、俺は薬が手に入りゃあそれでいい。巫様もいるし、双方得ってことだ。夜に備えて俺は寝るぞ。夕方になったら作戦会議をするから起こしてくれ」
そう言い残してオシはひらひらと手を振って仕切りの奥に消えた。
「驚いてるね」
後方で控えていたイシは清那の方に来ると、オシが座っていた椅子に腰を下ろした。
「あの、なぜ」
色々聞きたいことはあるのに、起こったことが多すぎて口が回らない。とんとん拍子に話がすすんでしまい、頭の整理が追い付かない。
「イシには見る力がある。イシの目は本人も知らないものを見通す。清那の祖先は、千夜国で神を降ろす巫女の一族。オシの祖先は戦で体をバラバラにされたことがあって、それを蘇生したのが清那の祖先だった。だから恩がある」
イシはやはり年齢の読めない相貌で、雲を掴むように語る。彼女の方がよっぽど千夜のお伽噺に出てくる巫女のようだ。
「でも、いくら巫の血が流れていると言ったって星が読めるわけではないです。白冠育ちのただの平民で……」
「千夜の舞は、神を降ろす儀式。清那はもう、神に触れたことがある。道はできている」
イシはささやくように言った。
「踊り子だから舞はしますが……」
神を降ろした経験などない。神事などでたまに見る、いわゆる恍惚状態のようなものだと思うが、清那自身論理的な考え方をしがちなのもあって、そんな状態になったことはなかった。
「大丈夫、道は指し示してくれる。イシは、嘘は言わない。出発まで時間はある。ここで楽にしてるといい」
伝えることは伝え終わったとでも言うように、イシは立ち上がると仕切りの奥の祭壇に消えていった。その祭壇は清那が知っているものとは形式が違っていて、太陽神殿の信者というよりかはもっと土俗的な感じがした。
(民間の呪術師、か)
路地裏で呪術師が商売をしているのはよく見かける。人生を占ったり、厄を祓ったり、呪いの代行を行う者たちである。いくら墓泥棒と言ったって、恒常的に収入があるわけではない。呪術師がイシの本職なのだろう。
太陽の舟。
清那の祖先、星読み。
疑問に思うことは沢山あるが、人が視界から消えたとたんどっと疲れが押し寄せてきた。今更警戒してもしょうがない。清那は伸びをすると、机の地図を避けて突っ伏した。
そして、驚くほど滑らかに、眠りの底に落ちて行った。
□
地下牢の空気は、砂埃で灰色に染まっていた。
灯り取りの窓は一つ。四肢を鎖で繋がれた高砂は土壁に背中をもたれてぼんやりと虚空を見つめていた。右腕は既に黒光りするものに様変わりしており、その鱗は右半身を覆っている。黒い瞳は金色に染まり、瞳孔は蛇のように縦に割れている。
息は整っている。じりじりと焼くような痛みはあるが耐えられぬ程ではない。
しかし突然意識が飛ぶことがある。これが自我の喪失か、と他人事のように思う。
「お加減はいかがですか、お兄様」
鉄格子の向こうには隼人が立っている。
伴はつけていない。見張りの兵以外ここにはいなかった。
燭台の火に切り取られた影が、無風だがされど揺れている。
「良くはないな」
「そうですか」
隼人はさして興味もなさそうに言った。
「隼南は、知っているのか」
隼南。この国の王の名であり、二人にとっては妹の名であった。
照耀の王は神託を受ける神の化身と言われているが、実際のところは少々頭が切れるだけの人間である。そして隼南はその中でも、書記官たちのいい傀儡となっているのは王宮暮らしから離れた高砂でも察せることだった。
「お兄様の処分については僕が一任しています。王宮に連れ戻したということは伝えてありますが、それ以上はなにも知らないかと」
「そうか」
「お兄様の処刑は王でさえ触れられない禁忌です。そして兄殺しは、兄弟の中でも選ばれたものが引き継ぐ暗部であり役目。それはお兄様もご存じでしょう?」
「そうだな」
王位継承権のない男に与えられた役割。それが怪物と化した兄に引導を渡すこと。
照耀国の王家は、その血統の神聖さを保つために近親相姦の楽園となっている。血が混じらないと脆弱になるのは当然で、生まれつき体が弱かったり、隼人のように欠損した状態で生まれてくる子も少なくない。
そして王家の暗部は、その男子に回ってくるのだ。具体的には高砂さえも知らない、欠損のある者にだけ引き継がれる秘密。ある意味一子相伝の法である。
「ご理解いただけたようで。なにがそんなに気がかりなんです?」
隼人はうっすらと眉を顰めた。
「……清那君は」
唯一の心残りだった。
「勿論、懇願通り何もしていませんよ。天狼座も放ってあります。支配人は聡明な方とお見受けいたしましたから、ちゃんと口留めするでしょうし」
隼人はため息をつく。
「そこまで心配ですか、あの女のこと」
「俺のせいで、巻き込んでしまった」
自分でも不思議だった。あれだけ呪いの解除と研究に固執していたのに、最終的に気がかりになるのは一人の人間のことだった。
自分が関わらなければ、ただ人として生きていられただろうに。それを思うとやりきれない気持ちになる。腹の底にもたれる油が残ったままのような感触。
「伝えなければよかった話です。逆に、なぜあの女には気を許したのか。僕はそっちの方が気になります。まさか、お兄様に限ってほだされたとか」
ほだされる、なんて自分に向けて言われた言葉なのだろうかと思う。
縁がない、というよりも個人に執着した経験がない。自分の人生そっちのけで全てを研究に捧げた毎日だった。他人の人生を観察することばかりで、色恋なんてそんな余裕も興味もない。今回だって、清那がしつこく自分の人生に首を突っ込もうとするから、仕方なく首を縦に振った。
でも、確かに、清那のことを考えると、胸がざわつく。これは一体なんなのか。
だから、
「……わからない」
というのが最終的な感想だった。
隼人は高砂の感想に、声を殺して、くくく、と笑った。
「何がおかしい」
「いやあ、本当に数奇なものです。ここまで来たら、お兄様が執心するのも天命ですね。まあ、変数が現れたところで、僕は今まで通り照耀国を脅かす厄災を排除するだけですけど」
灯火で半分に切り取られた顔に、影が差す。
「ねえ、お兄様」
「なんだ」
「炎の王は、千夜国王家の家系図に載っていない。もっとも偉大な賢王だというのに、名前まで忘れ去られてしまった。なぜなのでしょうね」
隼人の顔は、今は完全な闇に沈んでしまって、霞む視界では表情が見えなかった。
「なぜ、それを」
思いがけず、荒い呼吸になる。
思考を読まれているのか、と思った。高砂が数年かけてやっと迫れた核心を、隼人が知っている。
炎の王と星の巫女は脚色の強い物語ではあるが、この類の「鳥族の王と狗族の巫女が婚姻をする話型」は照耀国各地に散らばっている。つまり史実である可能性が浮上するのだ。
ここで問題になってくるのは、千夜国王家の家系図にそれにあたる人物が存在しないということ。千夜国の王家は照耀ほど血統を重視する王家ではないが、一般に流布している歴史書では全員狗族で統一されている。もっとも、随分と簡易的な系図ではある。当然抜けもあるだろう。
しかし、炎の王は稀代の賢王と作中で謳われる。記録が何も残っていない賢王など、あり得るのだろうか。
炎の王とは、一体誰のことなのか。
隼人は顔を上げて、きゅっと目尻を細める。
「お兄様よりちょっと詳しいだけですよ。かの呪いの国に関して、ね」




