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砂の王と千夜の唄  作者: 回向田よぱち
第二夜 星の旋舞、呪われし一族
5/22

 高砂は楽屋に運ばれた。母は現場にいた人間に堅く口止めをし、清那以外を高砂から遠ざけた。

 あの症状は普通ではない。必死に医者を止めたということは、公にしたくないものなのだろう。

 とりあえず仮眠用のソファに寝かせたが、どう対処していいか分からず、濡らした布巾で汗を拭くことしかできなかった。

 備え付けの瑣末な椅子に座り、清那は長くため息をついた。

 窓の外はもうすっかり陽が落ちていた。目をやると、屋台で買ったのであろう、水鳥の串を頬張りながら楽しげに通る人々が見える。明日の宵山に向けて喧騒も最高潮に達している。甘夏が行っていた凱旋パレードもちょうど終わった頃だろうか。

 明日には太陽の船が中央通りを通る。

 太陽船神事は、死後の世界である夜の国から朝日の象徴である白冠の都に戻ってくる一連の神話を船旅に準えたものだ。旅の最後、隼日神殿の前では、初代王和隼王に扮した神官が千夜の悪神である巨大な黒い蛇を倒す演劇が繰り広げられる。

(黒い蛇……)

 高砂の腕に目をやる。どうしても連想してしまう。

 滑り気のある鱗にランプの光が反射し、怪しく揺れている。

「ん……」

 薄く瞼が開いた。

 清那は慌てて布巾を離す。

 高砂はふらつきながら上体を起こす。乱れた髪が汗で顔に張り付いている。まだ苦しそうだが、先ほどよりはすっきりした顔をしていた。

 清那は水を入れた素焼きの杯を渡すと、よほど喉が渇いていたのだろう、喉を鳴らして一口で飲み干した。

「お加減はどうですか?」

「大丈夫だ。すまない、心配をかけた」

「ダメですよ。こういう時は謝るんじゃなくて、ありがとうでしょう?」

「すま……ありがとう」

 鞄を、と短く言われ、清那はいつもの薄汚れた肩掛け鞄を渡す。中から長方形の紙のようなものを取り出して、何か小さく呪文のようなことを呟いた。

 紙には左目の模様が書かれている。縁日でも時々見る守護の護符だ。屋台で売っているものとは違い、左目の他にもよく分からない呪文や模様がびっしりと書き込まれていた。

 右腕に護符を貼り付ける。するとまるで水に溶けるように護符が黒い鱗に吸い込まれていった。

 清那が驚くのも束の間、黒い鱗は嘘のように薄く消えて、元の健康的な褐色の肌に戻った。

 いつの間にか、顔色も良くなっている。

「この件はこれで終わりだ。今見たことは他の人には言わないでくれ」

 何も無かったかのように鞄を閉じる。

 清那は人間業に思えない一連の動作に驚愕していたが、そっけなく言われ少しムッとする。

「何も教えてくれないんですか?」

「それはできない」

「なんで」

 高砂は、長いまつ毛を伏せる。

「政治家の家出身だと言っただろう。この病は家の問題とも深く関わっている。興味本位で首を突っ込んだら、清那君が危険な目に遭う。家族も仲間もいる生徒が踏み込んでいい領域ではない」

「私のこと、信用できませんか」

「違う。一生徒でしかない他人に背負わせるものではないと言っているんだ」

 他人。

 改めて言われると、胸が疼いた。

 高砂と清那の関係は、確かにただの教師と生徒なのだ。他人の体の問題に関わる権利はない。

 いくら同じ志を持ち、同じものを探しているとしても、それはそれまでだ。

 でも、本当に他人なのか?

「先生の病、千夜国に関係があるのでしょう?」

 図星なのだろう、鋭利な流し目がすこしだけ開かれる。

「それなら私も無関係じゃない。私は千夜のことを知りたくて先生に着いてきたんです。黒狗の街が焼かれたあの日から、砂漠に骨を埋める覚悟はできています」

 ランプの光だけが光源の暗い楽屋に、沈黙が流れる。

「なぜそこまでして、俺に関わろうとする」

高砂の黒目は動揺するように揺れていた。

「……気づいてないんですね」

 褐色の右手は、毛布を掴み震えている。

 鱗が消えて話し始めてから、ずっと、震えている。

「高砂先生、さっきからずっと苦しそうですよ」

 高砂は震える手にようやく気付いたのだろう。毛布から慌てて手を離した。

「……空気が読めるのも考えものだな。教職など、最初から突っぱねていればよかった」

「それじゃ何も解決しません。私を頼ってください。思い出の唄を覚えていてくれた恩人が苦しんでいるのに、ただ見ているだけなのは、辛いです」

 高砂の口を開かせるための、精一杯の言葉だった。

 清那自身、なぜこんなにも積極的に彼に関わろうとするのかわからなかった。高砂ほどではないとしても、清那だって人間関係を利で考える方である。だというのに、今は敢えて危険な道を選んでいる。彼は迷惑がっているのに、反するような行いをしている。

 何が自分を突き動かしているのかわからなかった。

 清那は壊れたように震える褐色の手に、自分の手を重ねた。高砂の手は清那より関節ひとつ分ほど大きく、豆だらけで硬い。ざらついた肌には、柔らかさが感じられない。

「他人を、信じてください」

 冷たくなった指先に、体温を移す。

 不器用な手だ、と思った。

 一人でずっと歩んできたのだろう。人を頼らず、人に心を許さず、生きてきたのだろう。清那の妄想かもしれないが、そんな感傷を抱かせる手だった。

「……わかった」

 高砂は諦めたとでも言うようにため息をつく。

「俺の負けだ。清那君には俺の荷物を一緒に背負ってもらうぞ。後悔するなよ」

「望むところです」

 外から宴の音が聞こえてくる。

 喧騒は逆に、この部屋の暗さと静けさを強調しているようだった。

 孤独な隼は、覚悟を決めたように唾を飲み込んだ。

「俺には、千夜国の悪神の血が流れている」

 そして、何かを恐れるように語り出した。

「和隼王が悪神を殺し、照耀国を建国するという正史は王家に都合よく改竄されたものだ。実際、悪神は死んでいない。悪神は和隼王に討ち取られる瞬間、照耀国王家に末代まで続く呪いをかけたんだ。異形の呪い。王の第一子は必ず、忌子として生まれてくる。鳥族なのに骨が通った尾を持ち、成長するとともに体が悪神の姿に変化していく。最後には人間の姿を失い、自我が消え発狂する。俺が当代のその長男にあたる」

「えっ⁉︎ 先生って王子様だったんですか」

「正真正銘隼玉王の第一子だよ。この情報は王家でも数人以外秘匿されているが」

「私が聞いちゃいけないんじゃないですか……」

「だから言っただろう。危ない目に遭うかもしれないと」

 まさかこんなに規模が大きい問題だとは思っていなかった。これに関しては先ほどの高砂の伝え方も悪いんじゃないか。

「今現在、王家の呪いを解く方法はない。生まれてからこの方、俺は王宮の中に閉じ込められ、いないものとして扱われた。転機が訪れたのは十四歳の時。朱鷺書院の入試に受かったことが認められ、やっと外に出ることを許された。それからは王宮から援助をもらいながらだが、一人暮らしをして、呪いを解く方法を独自に調べていた」

「じゃあ、高砂先生が千夜の研究をしているのは、王家の呪いを解くためってことですか」

「それが大きな理由の一つなのは否定しないが、単に研究が好きだというのは事実だよ」

 急に表情が柔らかくなる。

(本当に、研究が絡むと子供のように素直になる人なんだな)

 清那はなぜか安心した。あるいはそれは、どんな事情があれども、研究に対してだけは純真でいてほしいという願いだったのかもしれない。

「幼い頃、遊んでくれる子供も構ってくれる大人もいなかったから、宮廷図書館に入り浸って本を読んでいたんだ。そこの司書長が俺によくしてくれてね。歴史に留まらず、算術や工学に至るまで様々なことに精通した人で、俺は師匠と慕っていた。彼とは沢山話をした。俺を怪物扱いしない、優しい人だった」

 憧れだったのだろう。声音に哀愁が混じっている。

「清那君は、竜という言葉を知っているか?」

 高砂は不意に話題を変えた。

「いいえ。初めて聞きました」

「そうだろうな。俺も司書長が漏らしているのを聞いただけだから、知らないのも当然だ。司書長の言うことには、旧千夜国では、悪神をその言葉で表現し、崇拝していたらしい。しかし、そんな言葉を書いた文献は愚か、南方砂漠での調査でも聞いたことがない」

「司書長に聞いてみたらいいんじゃないですか。思い違いということもあるだろうし」

「そうしたいのは山々だが。彼はその言葉を発した数日後に罷免されたよ。金の使い込みと言う名目だったが、あんなに欲のない人がそんなことするわけがない」

 書院の図書館司書もそうだが、司書というのは書記系の職の中では野心の薄い、ただ書物が好きな人間がなる印象がある。幼少期から大人の悪意に触れてきた高砂が懐くくらいだから、その司書長という人もそうだったのだろう。今の高砂に似ている人だったのだろうな、というのは何となく想像がつく。

 となると、この話は、一気に怪しくなってくる。

「口封じ……」

「そうだろうな。彼は王家の禁忌に触れたんだ」

 高砂の中に流れている悪神の血と、千夜国で敬われていた竜。清那が先ほど見た印象では、あの腕は禍々しいものではあれども、信仰するに足るものではなかった気がする。少なくとも、二面性があるとは言えない。

 では、竜とは、何だ。

「文献にない、言葉を発する人もいない。何らかの思惑で消されたとしか思えない。だから俺は、その二つとは違う方法で千夜国を調べることにした。俺の研究方法については、清那君も知るところだろう」

 禁忌に直接触れず、外堀から類推するにはどうすればいいか。

 高砂が必死で考え抜いた結果生まれたのが、あの話者からの印象を拾う研究方法だったのだ。

「それだけじゃない。黒い蛇の悪神。それでは辻褄が合わないんだ。太陽祭の演舞に見られるように、一般に流布している悪神の姿は黒い大蛇だ。でも俺の腕は、鱗は生えども独特な手があるだろう。症状が重い時は、背中に翼のような突起も生える。明らかに蛇じゃない」

 そして高砂は、初対面で発したあの言葉を、もう一度繰り返した。

「黒は、死の色だと思っていたんだ」

 高砂は土色の天井の遥か先、星空を見つめるように天を仰いだ。

「しかし千夜国の民は肥えた土壌の色として認識している。照耀の肥沃な土の黒さも変わりないのに。三百年前、「何か」があったんだ。黒が忌まれるようになった歴史が。そしてそれは今でも、意図的に隠されている。そこに俺は病を治す糸口があると踏んでいる」

 黒色。最初に聞いた時とは、印象が全く変わる。含む意味も、重さも。

「照耀国王家が隠しているものを、外側から暴く。そして、王家にかかった呪いを解く。それが俺の使命であり、責任だ」

 アイシャドウで丁寧に縁取られた黒い瞳が、一層黒くなったように感じた。しかしそれは闇が深くなったのではなく、確固として闇を見つめる者の黒さだ。

「俺は完全に怪物になる前に、その方法を見つけなければならない。次の世代に呪いを残したくはない。俺のような子供は、これ以上増えなくていい……体の変化に怯える恐怖も、自分がいずれ厄災になるという自責も、こんなもの、明るい未来に必要ない」

 最後の言葉は、絞り出すように吐き出した。

 高砂の告白に、清那の鼓動は早まっていた。

 可能性に気づいてしまったのだ。

 清那にも、今まで目を逸らし続けていることがあった。今の高砂の告白は、それを裏付けるものだ。

「……実は私も少し、おかしいと思っていたんです」

 壊れたように、鼓動がより早く、大きく波打つ。

「黒狗の街がなくなった理由は千夜の残党の反乱だと言われていますよね? でも、あの頃あの街に、そんな過激な組織があったとは思えないんです。なにせ三歳の頃の記憶なので確かではありませんが、私にとってはのんびりした田舎町以上の何物でもなかった」

 心臓を強く握りつぶされているような感覚に陥る。

 心の裡に潜む秘密を明かすのは、こんなにも怖いことなのか。

(高砂先生も、同じ気持ちだったのだろうか)

「地方都市ですらない。交易の拠点でもない。内陸部のオアシスの領主を殺したところで、何の得もないんですよ。私怨ならわかりますが、歴史書には計画的な政治反乱と記されているでしょう。おかしいと思いませんか」

 ずっと、頭の片隅に常駐していた疑問。ずっとそこにありながら、気付かぬ振りしてしまい込んでいた。なんなら、今この瞬間まで、墓場まで持って行こうと思っていた、私の荷物。

(私が千夜国を知りたい、本当の理由)

「私は、あれは照耀国側が故意に起こした紛争だと踏んでいます」

こんなこと考えた時点で国賊だ。いくら優しい今の両親相手でも、これまで伝えることはできなかった。

「知りたいんです。私の故郷がなぜ滅ぼされねばならなかったのか」

 声を潜めて、でも確実に聞こえるように、小麦色の毛並みを持つ山犬は言葉を発した。

「……なるほど。ここに来て、利害の一致ということか」

 異形の隼は顎に手を当て、その目を細めた。

「面白い。その話、乗った」

 その視線は、獲物を狩るときの、それ。

「今から俺たちは共犯者だ。異論はないな?」

「ええ。受けて立ちましょう。二人なら王家のひとつふたつ、怖くありません」

 ランプの炎で、二つの影が切り取られている。

 影に映された二匹の獣は、大きさの違う手を取り合い、堅い握手を交わした。



 次の日の朝。

 あの後打ち上げにも参加したため、疲れが抜け切れておらず、清那は布団に体を埋めて泥のように眠っていた。昨晩はあんなに大事を起こしたにも関わらず、いざ宴が始まると高砂はケロッとした顔で強い酒を飲んでいた。

 朝の光が天井沿いの小さな窓から差し込んでいる。

 夢現のまま、大きな耳だけは敏感に音を集める。

 慌ただしい靴音。窓の外からだ。

 太陽祭の最終日だが、祭りのどんちゃん騒ぎとは毛色が違う。それはどちらかというと緊張をはらんでいた。

 パタパタとサンダルの足音が聞こえてくる。それはだんだん近づいてきて、最後にはドンと盛大な音を立てて自室の扉が開かれた。

「清那! 清那! やばい!」

 甘夏の清んだ声が響き渡る。高い声は焦りで少し震えている。

「甘夏〜? 入る時はノックしてよ〜」

 清那は目を擦りながら起き上がった。

 自室は学術書や服がとっ散らかっていて汚い。身内でもあまり見せたくはない。

「早く起きてよ! あの! は、ははは、隼人様が……!」

「隼人様?」

 身内にはいない名前だ。寝ぼけた頭ではうまく像を結べない。

(ん? 隼人様?)

 誰かと思えば、甘夏の憧れの将軍ではないか。熱を上げている人間が言う「やばい」はどうせたいしたことではない。

「私隼人様はタイプじゃないんだよね〜」

「そういうことじゃない! いいから早く!」

 再び布団に潜ろうとした清那を、甘夏が引っ張り上げる。さすが花形役者、腕力はある。

 焦って訳がわからない言動を繰り返す甘夏に急かされ、渋々着替えて事務所の玄関に向かうと、広い玄関は異様な様相を呈していた。

 見知らぬ一人の男に付き従うように兵士が並んでいる。その男に相対するように、母が背筋を伸ばしていた。

「早朝にお邪魔をしてしまい、大変申し訳ありません」

 片腕の隼は通る声で言った。高砂の重厚感のある声とはまた違った、透き通るような青年の声である。

 男は光沢感のある白い絹のローブを纏い、よく磨かれた剣を腰に刺している。垂れた目に、まっすぐな眉。濃く引かれたアイシャドウは屋内の薄暗さでもキラキラと輝いている。

 隼人将軍。世間的には隼玉王の第一子であり、国内に数多ある太陽神殿の総本山、隼日神殿の神官長、そして戦とあれば負け知らずの大将軍。その肩書を一手に背負う男。ここまで優れていてなぜ王ではないのかと疑問に思うかもしれないが、その理由は至極簡単。片腕を欠損した状態で生まれてきたからである。

 他の国は知らないが、照耀国の王権は完全な体を持った王の子供しか与えられない。完全性こそが太陽神の象徴であり、逆に言えばどんなに優秀でも欠けがあれば王としては認められないのだ。つまり、隼人将軍は国のトップになれはしても、王にはなれない。

 昨日の高砂の話が本当であれば、隼人将軍は高砂の血の繋がった実の弟に当たる。

 褐色の肌。白く長い三つ編みの毛先は墨を含んだように黒い。特徴は確かに似ているが、線が太く無骨な印象を与える高砂に対し、隼人将軍はいかにも王子様然とした、細身で柔和な外見だった。雰囲気という点では全く似ていない。背は高砂の方が少し高いか。

 当たり前だが、尻先には骨が通っていない。

「うちの劇場に何か?」

 母は王族を前にしても毅然と応対をする。こういう場面を見ると、貴族出身のやり手の女主人というのを改めて認識させられる。何というか、凄みがある。

「人探しの相手が天狼座でお世話になっていると聞きまして、迎えにあがった次第です」

 あくまで口調は柔らかいが、目が笑っていない。

「それは、どういった?」

「褐色の肌の隼の男です。特徴としては、尾の先まで骨が通っている。ここでの名前は……」

「俺だろう。天狼座に迷惑はかけないでくれ」

 階段から降りてきたのはやはり高砂だった。昨日の今日なのに、涼しげな顔をしている。

 階下に降りると、母を自然に後ろに下げるようにして隼人将軍の前に立つ。

「ああ、当人から出てきてくれると話が早いですね。度々すみません。彼と話すことがございますので部屋を一室お借りしても?」

「それは構いませんが……」

「一つ、条件がある」

 母ではなく、高砂が答えた。

「聞きましょう」

「この娘も同席させろ」

 後ろでぼーっと一部始終を見ていた清那に視線が向けられる。いきなり表舞台に立たされたことにびっくりして声も出なかった。

「こちらのお嬢さんは?」

「天狼座の次期座長だ。場所を借りているのはこちらである以上、権利があると思うが?」

 勿論真っ赤な嘘である。

 何を企んでかはわからないが、照耀王家の問題に清那を積極的に関わらせる心算らしい。推測するに、証人を立てるとか、その類の保険なのだろう。

 隼人将軍は清那をチラリと見た。

 何を思ったのだろうか。少しだけ目を見開いた。そして、高砂に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、

「はは、本当に憎いことをする」

 と確かに言った。

「えっ?」

 聞き間違いかと思った。清那は発言の意図が分からなくて眉根を寄せた。

「いいでしょう」

 隼人将軍は今の言葉などなかったかのように高砂に向かって言う。すでにもう清那など目に入っていない風である。

「将軍!」

 控えていた近衛兵が嗜めるように叫ぶ。

「大丈夫です。踊り子一人どうにでもなりますよ」

 片腕以外完全無欠の王子様は、憂いのない顔で微笑んだ。

 清那はどうにでもなる、という言葉の意図を思い巡らせ、思わず尻尾を下げた。どうしても昨日の司書長の話を思い出してしまう。直接刃を向けられたわけでもないのに、背中に冷たいものが這った感覚になった。


 高砂は将軍を自分が使っている楽屋に案内した。周囲からの気まずい目線を受けながら、清那も緊張を殺し二人の後に続き部屋に入った。

「改めまして。お久しぶりです、隼砂お兄様」

 ささくれた椅子に眉ひとつ動かさず座った将軍は、高砂に手を差し出し、無理やり握ろうとした。

「貴様に兄と言われる筋合いはない」

 高砂は譲らず手を跳ね除けた。昨日寝台になっていたソファに、一人分空けて腰を下ろす。清那も座れということだろう。恐る恐る腰を落ち着ける。

「ははは、手厳しい。僕もまさかあのお兄様が踊り子に落ちぶれているとは思いませんでした」

「それ以上言葉を発すると、その口を縫い付けるぞ」

「怖いなあ。そんなに睨まないでくださいよ」

 今までニコニコしていたのは演技だったのだろう。隼人将軍は、急に冷めたように真面目な顔になる。

 そして、無機質な声で淡々と喋り出した。

「お兄様に神託が降りました。程なく星辰が揃います。お兄様におかれましては、急ぎ王宮にお戻りいただきます。予定では、もう二、三日でお兄様は完全体に変化します」

「……早いな」

 高砂は眉を顰めた。

「神官たちによると、急に星の動きが変わったそうです。もうあまり時間がありません。今のうちに首を落とさねば災害になりかねませんので」

「神託は正確なのか」

「今回の神託は、太陽ではなく星の導きです。あちら側から神託に干渉してくるなら、疑う余地はないでしょう」

「そうか」

 直接の物言いは避けているが、高砂がじき悪神に変化する旨を伝えにきたのだろう。それなら王族自ら説明に来るのも理解できる。もし悪神が完全に顕現してしまったら、最悪この白冠も砂漠になってしまうから。

(つまりもう二、三日で、高砂先生は殺されるということ?)

 早すぎる。清那にとっては昨日今日の話である。協力するとは言ったが、研究も何も手をつけていないではないか。

「他に方法は」

「現状、ありません」

 あくまでも伝達するだけといった態度をとる将軍に対し、高砂は膝の上で拳を握りしめていた。

 ここまで人生を賭して研究し、運命に抗おうとしたのにそれも無に帰すのだ。その眉間には、並大抵ではない悔しさが滲んでいた。

 千夜国の過去こと。

 照耀国の未来のこと。

 ここまで全てをかなぐり捨てて来た高砂のことだ。誰かが苦しむことになるのだったら、自分を犠牲にする道を選ぶ。

(でも、そんなのは、寂しすぎる)

 やがて、全てを飲み込んだのだろう、やけにあっさりと言葉を発する。

「わかった。すぐ支度する」

 脇にあるいつもの肩掛け鞄を取り、なんでもないように立ち上がる。

 少し外に出かけてくるような、そんな塩梅で。

「先生⁉︎ あっ……」

 清那は慌てて口を覆った。

 高砂が咄嗟に作った設定では次期座長だということを忘れて口を挟んでしまった。

 高砂は口端だけで少し笑った。

 どうせ全てバレている、とでも言いたげに。

 高砂は大きな背を折って、清那に向かい合うようにしゃがんだ。子供に言い聞かせる大人のように。

「清那君すまない、約束は守れそうにない。卒業論文は明星に見てもらってくれ。あいつは軽く見られがちだが、生まれや育ちで論文を無下に扱うようなことは絶対にしない。それは保証する」

「嫌です! 高砂先生じゃなきゃ……」

 昨日、一緒に千夜の秘密を暴くと言ったのに。

 高砂がいなければ始まらないのだ。千夜国への直接な伝手も、話者から情報を聞き出す話術や研究方法も、ちゃんと教えられていない状態で生徒を放り投げると言うのか。

 無責任だ、あまりにも。

 膝の上で組んだ、氷のように冷たくなった手に、高砂は右手の手のひらを置いた。

 昨日とは違い、それはまるで炎のように温かく。

 硬い手は、まっすぐな優しさを持っていた。

「清那君」

 諭すように、異形の隼は言う。

「……はい」

「大丈夫。君は賢くて強い女性だ。俺がいなくてもやっていけるよ」

「……」

 清那はどうしてもその顔を見ることができなかった。

 まるで永遠の別れかのように言うから。

「ありがとう。俺の話を聞いてくれて、嬉しかった」

 そのかすれる声は、今まで聞いた言葉の中で、一番感情がこもっていた。

 太陽祭もクライマックスに差し掛かり、喧騒も最高潮になっている。そこの二階のバルコニーから見下ろせば、楽しげな人々が路地を駆けるのが見えるだろう。

 清那は覚悟を決めた。

 顔を上げて、目の前の隼を見る。

 笑い慣れていないのだろう。その不器用な笑顔には寂しさが滲んでいる。

(こんな顔が見たかったんじゃ、ない)

「お兄様。そろそろ船神輿も神殿に着きます。太陽神事の最終盤には私も参加しなければならないので、急いで支度してください」

 少しだけ焦った声音で、隼人将軍は急かす。

「わかっている」

 高砂は立ち上がり、楽屋を出ていく隼人将軍の背中を追う。

 そして扉の前で一言、

「清那君、あとはよろしく頼む」

 それだけ言い残して、砂塵のように去っていった。

 

 やがて楽屋から人の気配が消える。

 取り残された清那は、今まで押し殺していた感情を、大粒の涙と共に、一滴一滴膝に落とした。

「ふざけないでよ……」

 腹の底から震える声が出る。

「呪いも千夜国も文字なき人の歴史も、私に押し付けるだけ押し付けて、ありがとうだなんて、何が先生だ。何が、何が!」

 怒りと悔しさと、色々なものが綯い交ぜになったものが渦巻く。濁流を形成したそれは、嗚咽となって体の中から放出される。

 涙の河は床に小さなオアシスを作る。

 泣いて泣いて、涸れ川となるまで泣いた。

 清那だってわかっていた。高砂がいなくなったところで、元の研究環境に戻るだけである。千夜の研究は今までのようにいかないかもしれないが、ああ言い残した以上明星も悪くは扱わないだろう。

 しかし、論理では片づけられないものが、清那の中に確かにあった。それは涙の河底に、体積して輝いていた。

 そして涸れ川に、最後に残ったもの。

 それは研究のことを話すときの少し上気した頬であり、控え目に揺れる、鳥ではない骨がある尾であり、永遠に続く砂漠を思わせる、カサカサした掌の感触であり。

 夜空のように澄んだ、黒い瞳であった。

 確かにそこには、満天の星が輝いていたのだ。

(そうか。私は、高砂先生と一緒に、研究がしたかったんだ)

 手の甲で、涙を拭う。

「高砂先生の、馬鹿」

 最後に小さく漏らした言葉は、誰の耳にも入ることはなく空気中に溶けていった。

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