20
時間にするとあまり経っていないだろう。清那のめまいが収まっていく。
夜の闇に封じられていた記憶。なんとなくだが、この部屋にいる全員が同じものを見たという認識があった。実際そうなのだろう。
清那は深呼吸をして、高砂に目配せをした。
「先生。やりましょう」
「ああ」
高砂も何をするかはわかっているのだろう。疑問を抱くことはなく頷いた。
差し出された高砂の手を取り、清那は一礼をした。
「覚めよ、覚めよ、竜の子よ」
来楽の唄。
この歌には続きがある。
来楽には成せなかったことが、三百年で刻まれた祈りにより、成せるという確信が清那にはあった。
そのヒントは、諸橋が提示してくれていた。夜の民を眠らせたあの時に。
浮かび上がった歌を、ただ自分の唇に乗せるだけでいい。
「星は瞬き 鳥は飛び立つ
夜は明け 日は昇りゆく
優しき君は 夢の中
我ら忘るる その声を」
一心に舞う。神に捧げる舞を。
しかしもう、それはひとり用の舞ではない。
一回転し、高砂と目線がぶつかる。
金色の瞳は、冷たい砂漠の夜を照らす炎。
緑色の瞳は、暦を示す天狼星。
炎の王の因子を引き継ぐ者と、星の巫を引き継ぐ者。
「覚めよ、覚めよ、竜の子よ」
流れるように踊る二人の周囲で、生ける炎が火の粉を散らし始める。
夜の闇の中、道しるべを作るように。
「覚めよ、覚めよ、炎の王よ」
舞に呼応するように、竜の体が激しく炎が燃え上がった。
そしてそれは、宿主を乗り換えるように高砂の体に吸い込まれていく。
「……ッ」
一瞬、高砂の頭が揺らいだかと思うと、それは火の粉を吹き上げて、やがて消えた。
「大丈夫ですか?」
清那が駆け寄ると、高砂は二、三度頭を振った。
「いや、むしろ気分がいいくらいで……」
高砂の尾に宿る炎が、一層激しく燃え上がった。
その時、一行の背後で、どさり、と何かが崩れる音がした。
清那が振り返ると、王と巫女の亡骸はもうそこにはなかった。
灰の山の中、寝台に一本の偃月刀が刺さっているだけだった。
降り積もる灰は、どこからか流れる夜の風に紛れて吹き飛んでいく。
跡には、なにも残っていない。
赤冠の魔術が解け始める。
砂の天蓋にヒビが入り、滝のような轟音を立てながら崩れていく。
白と青の美しき都は、三百年ぶりに白日の下に晒された。
書架の塔を出た一行を入り口で待ち受けていたのは、意外な人物だった。
「隼人」
照耀国の将軍、その人だった。
珍しく伴はひとりも連れていない。人がいる気配もないので、本当に一人で来たのだろう。
「気負わなくても大丈夫ですよ、お兄様。僕は何もしません」
隼人は両手を、正確には左手を広げて見せる。武器もなにも携帯していなかった。
日中の太陽のもと照らされるその褐色の肌は、太陽光を照り返す白壁の街にあまりにも似つかわしい。
「……貴方は、和隼王、なんですよね」
千夜の記憶に封じ込められたあの少年の顔と隼人の顔は、三百年血を混ぜたにしては全くの同一だった。緋砂と高砂、来楽と清那でさえ似ている程度のものなのに、首筋にある黒子の位置まで同じなのは流石におかしい。
「はい。そうです。体の欠損を代償に、初代照耀王、和隼の記憶を完全なまま引き継いだ人間です。大体、能動的に切り落としでもしなければ、代替わりするたびに欠損児なんて生まれてきませんからね」
自らの運命を嘲るように薄く笑うと、隼人は赤夜に向きなおし、深く頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした」
その姿に、赤夜は宝杖を握りしめて、半歩だけ後ずさった。
「黒狗を焼いたのは、先代照耀国王隼玉王その人の命令です。あのお方は、そんなに砂の王を恐れるなら触媒となる狗族を全員焼けばいいとおっしゃり、それを実行に移したのです。僕は……先代の僕はそれを止めることができませんでした」
隼人の長い三つ編みは、ともすれば地面に擦りそうだった。
「彼の王は内戦の折、最愛の妃である砂織妃を阿鼻土の侵食によって亡くされました。自らの行いを強く嘆かれ、晩年には千夜の祭祀、星渡祭を自身の葬祭殿にて行うまでに傷心しておりました。照耀では彼は国を安定させた英雄ですが、本当の彼はその限りではなかった。だからといって許せとは言いません。ただ、事実をお伝えしようと足を運んだ所存です」
血が滲みそうなほどの後悔が見え隠れする声音は、いつもの冷たすぎるほどのほほえみとは真逆の熱を持っていた。
隼人の必死の懇願に眉ひとつ動かさない赤夜は、細めた目のまま柔らかく返す。
「顔をお上げください」
隼人が頭を上げたその瞬間。
「……ッ!」
ぱん! と強い音が響いた。
清那は一瞬何が起こったのかわからず、両者を交互に観察した。
隼人は頬を左手で覆いながら、その美しい貌を伏せている。
赤夜は体を震わせて、深く息を吸って吐きながら露呈した怒りをなんとか鎮めようとしていた。
隼人の頬を、赤夜がはたいたのだ。
赤夜は唾を飲み込んだ。それは清那には、千夜国の意志を代弁した赤夜が、全ての感情を飲み込んだように見えた。
「これにて、千夜王家と照耀王家の間に恨みはなしです。貴方だって、ただ謝りに来たんじゃないでしょう」
照耀国の意志たる隼の将軍は、頬をさすりながら居住まいを正し、背筋を伸ばした。
「はい。もうお分かりかとは思いますが、炎の王とは別に、千夜国を阿鼻土にした砂の王がいるんです」
存在を完全に抹消された、本当の悪神。
柩神の一部にして、この世界に属さない支配者。
「葬祭殿の……千夜式の星占が出ました。星辰は揃います。砂の王は、千夜王家の血を引き継ぐ者いずれかの玉体に降臨します」
ざわざわと、生け垣の椰子が凪いでいた。
「今夜、砂の王は復活します」
不穏を内包するような、砂交じりの風だった。
夜の民は全員黒狗の、罠が仕掛けられている広場に集められた。昨日高砂が括りつけられていたものだ。
空が橙色に染まり、紫色に変わり、やがて宵闇が降りてくる。
しかし夜半になって天の川が覆う時刻になっても、その兆候すら見えることはなく。
「来る気配ないですね」
ぼやいた清那に、高砂は欠伸をしながら返す。
「来なかったら来なかったでいいんじゃないか」
寝ているとはいえ、数日めまぐるしく行動したのだ。流石に疲れが溜まっていて、清那の方も気を抜くと落ちてしまいそうだった。
「隼人将軍! 伝令です!」
沈黙を割くような声に、意識が叩き起こされる。
隼人が連れてきた部下だった。確か井威だったか。普段は隼日神殿の護衛をしているらしい彼は、白冠と魔術で連絡を取る係だった。
「なんですか」
隼人が冷静に返すと井威は落ち着きを払って、しかし恐れを隠し切れず声を張り上げる。
「白冠に阿鼻土が現れました!」
その一言に、その場にいた一同が騒然とする。
千夜の血族は来楽の計らいに、そして来楽が意志を伝えた星の巫女の生き残り、星の民たちによって阿鼻土に隔離されたはずである。
しかし、それも、漏れがあったのか。
「発生源は」
「あの……」
井威は少しだけ口ごもると、はっきりと口に出した。
「隼玉王の葬祭殿です」
「触媒は葬祭殿神官か。確かに星の民と交流がありますね」
ふむ、と隼人は驚くことなく顎に手を当てた。この動作だけ見ると、高砂と血のつながった兄弟なのだな、という実感が湧く。
「いえ……そうではなく」
井威はまたも口ごもった。
「触媒は、朱鷺書院の、明星という学者です」
「明星?」
「明星先生⁉」
清那と高砂は同時に声を上げた。
脳裏にあの朗らかな顔が浮かぶ。彼は紛れもなく隼の照耀人で、砂の王を召喚するような性格ではないというのに。
(いや、心当たりはある)
清那の頭には、一人の吟遊詩人が浮かんでいた。
□
「これで、いいんでしょう」
黒い瞳に昏い光を宿しながら、青年は言った。
「うん、最高だ! 君ほんと才能あるな!」
黒く染まった隼に付き従う影が言う。
「クトゥグアが竜とかいう手札を出してくるんだったらナイアーラトテップも竜を使わないとフェアじゃないよな」
影は影なれど、それが下卑た笑いをそこに浮かべたのは誰にでもわかっただろう。
「ねえ、明けの明星くん?」
呼ばれた彼の視界には、狂気に堕ちる白冠の都が広がっていた。




