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砂の王と千夜の唄  作者: 回向田よぱち
第六夜 来楽の唄
19/23

19

 髭を蓄えた男が、王宮の中庭を歩いている。

 幾重にも巻いたターバンから、白髪交じりの黒い犬の耳を突き出している。悠々と歩みを進めるその様は、王者の風格を醸し出していた。

 千夜国最後の王、星夜(せいや)王その人だった。この時彼は、自分が千夜国最後の王になるとは露ほども思っていなかった。

 星夜王は噴水に目をやった。

「随分水位が下がっているな」

 彼に付き従う少年が言葉を返す。

「今年は雨が降りませんでしたから、水不足が深刻です。王都はまだ備蓄の地下水で保っていますが、西方の村々では砂漠化が始まっているとの報告が上がっています」

 飢饉の年であった。

 阿鼻土山脈を抜けた先に広がる平原は、例年の今頃なら小麦畑が広がっているが、今年は細い茎がまばらに生えているだけだった。地面の乾燥は砂嵐を巻き起こし、干した布が乾くようにして砂漠が広がる。

和隼(にぎはや)将軍、そなたならどう切り抜ける」

 和隼、と呼ばれた隼の少年は数秒だけ思案した。

「王都の地下水路を拡張し、平原地帯に放射線状に引き、各所に井戸を作るのはどうでしょうか」

 赤冠は元来砦として作られた経緯があり、山岳に囲まれた高地にある都だった。水が流れる道さえ整備すれば、自ずと治水は安定する。

「駄目だ。時間がかかりすぎる」

 王は和隼の回答を一蹴した。

 星夜王は能力で人事を行う王であった。北方の田舎豪族のこの少年は、狗族でもないのに自身の才覚だけで将軍の地位を勝ち取った若者だった。王は利発なこの少年のことを気に入っていたが、若者特有の理想論だけは少し癪に障るところがあった。

「いかがなさるおつもりですか」

 和隼はその心情を知ってか知らずか、王に問う。

「砂の王を、降ろす」

「砂の王?」

 聞きなれないその言葉に、若者は首を傾げた。

「星の宮の巫者たちは、柩神(きゅうしん)の力の一部を降ろしているに過ぎない。砂の王とは、千の顔を持つ柩神の中でも人格を持つ核の部分だ。それを降霊させる。この降霊は、我自身を捧げることになるゆえ、取りたくない手段ではあるのだが、飢饉は止められぬ。仕方があるまい」

「……緋砂(ひさご)様のお知恵を借りないのですか」

 口に出してから和隼は、自分の言った言葉を思い返して顔面を蒼白にした。

 この王が塔に閉じこもっている不死の鳥を快く思っていないのは確かだった。ただでさえ近年はアイテル不足により巫力が落ちてきているのだ。上から者を言う化け物に王権を掠め取られる不安は、歴代千夜の王に必ず付随する問題のひとつであった。

「鳥風情に、人間の何がわかる」

 王は吐き捨てるように言った。

 それは畏れであるとともに、千夜王家に連綿と流れる僻みでもあった。

 永遠を生きる生命の見識に、たかが数十年で死ぬ人間が敵うはずがない。

「失礼いたしました」

 和隼は頭を下げたが、心の内ではこの愚かな王へ疑問を抱いていた。

 高慢と、愚昧。

 しかし取れる手段を試さないで危険を冒すのは、民のためにならないと提言することは、まだ若い彼にはできなかった。



 星辰が揃った。

 暦を天狼星の配置で計算するのと同じように、千夜の巫術は星の運行に支配されている。星夜王と和隼将軍が言葉を交わしてから数週間後、砂の王召喚の夜は来た。

 星の宮に巫者が集結する。

 巫術を扱う者だけではない。政を行う王侯貴族もこの荘厳な神殿で一堂に会していた。

 神殿を埋め尽くす巫者たちは、皆一様に黒い衣に身を包み、壇上に立つ王を見つめる。

 王はその手に王権の杖を持ち、壮健な褐色の肉体に細かい刺繍で呪文を刻んだ黒衣を纏っていた。

 一人の巫女が、声を上げる。


 にゃる・しゅたん!

 にゃる・がしゃんな!

 にゃる・しゅたん!

 にゃる・がしゃんな!


 千夜国の言葉ではない。この世界に属しないその祝詞は、やがて星の宮全体に広がっていく。神殿にこだまする呪文は、禍々しさすら孕んでいた。

「ウッ……」

 星夜王の顔が苦痛で歪み、体を折り曲げた。

 灰色の目は視点が定まらなくなり、白目を剥きながら泡を吹きだした。痙攣して悶える王に、誰も手出しをすることはなく。

 天を掴むように手を突き出したその体勢のまま、王は動きを止めた。

 老いた王の体に、変化が起き始めた。皺だらけの顔は張りのある肌に戻り、曲がった腰は新しい骨が通ったようにピンと伸びる。白髪は一本も見当たらなくなり、豊かで艶のある黒髪に生え変わる。

 そして、新生したかのように、王は再び壇上に立った。

「久方ぶりの受肉だ!」

 若い男の声が、王の体から発せられた。

 祝詞を唱える声は止まり、巫女たちはざわつき始める。

 成功したのだ。

「砂の王」

 一人の巫女が新王の前で額を擦らせた。

「なんだい? 今僕は超機嫌がいいから、君みたいな蛆の質問にも答えてあげるよ」

「水が枯れて困っているのです。砂の王のお力を貸してはもらえませんか」

 切実な声。しかし歓喜を隠しきれず震えている。

 その嘆願に対し、黒い闇を凝縮したような姿の王は、穢らわしいものでも見るかのように巫女を睨んだ。

「はあ? バカなの? そんなことやってなにが面白いのさ」

「しかし……」

 巫女が言葉を紡ごうとしたその瞬間、何かがはじけ飛ぶ音がした。

 巫女の跪いていた場所が、一瞬にして血だまりになる。

「ヤだよ。大体、僕の権能は砂と嵐なんだよね。水はあの陽キャ蛸の領分でしょ。あーあ、一気に萎えちゃった。もっと面白いことやらせろよー、もー」

 王は背の高い椅子にどっかりと腰を下ろして、杖をぶんぶん振り回した。

 現場は一気に恐慌状態に陥った。

 叫ぶ者、逃げ出す者、その場にうずくまる者。

 勇敢にも砂の王に刃を向ける者もいたが、その者たちは砂の王の視界に入った瞬間、皆一瞬で血だまりと化した。

 ぱあん、ぱあん。

 不協和音が響き渡る。

 鉄の匂いが充満する。

「うん、やっと興が乗ってきたな」

 砂の王は、若き日の星夜王の顔で、口の端を歪に釣り上げる。

「いっそこの国を、黒く染めてしまおうか!」

 機嫌良く杖を振り上げたその時には、星の宮に生きている者など一人もいなかった。

 砂の王、彼以外は。



 砂の王が召喚される少し前。

 書架の塔、最上階。

 来楽(らいら)は王族ではあるが、緋砂(ひさご)と懇意にしている関係で半ば腫物のような扱いを受けていた。故に今日の儀式にも呼ばれず、本人も大規模な儀式があること自体に興味がなかった。

「緋砂様、これなんですか?」

 来楽は猫の面をつけた人形をつついた。大きさは人の子供ほどもある。

「自動人形だ。試しに作ってみたんだが、技師のようにうまくはできなくてな。でも結構凝ったんだぞ。丈夫で軽くなるようにカーボンナノチューブを使用して、戦闘モジュールも組み込んで、ジェット機能もつけて……」

 意気揚々と説明し始める緋砂に、来楽はため息をつく。

「もう、わからない言葉を羅列しないでください。私が聞いてるのは、人形作る趣味なんてなかったでしょう、ってことです」

 来楽が聞くと、緋砂は少し気まずそうな顔をした。

「その……私たちは、子供が作れないだろう。だからせめて、その代わりになるものが欲しいと思ったんだ」

 緋砂の褐色の頬は淡く紅潮していた。

 確かに緋砂は男性の人体を持ってはいるが、生殖ができなかった。竜族は単一種であり、永遠の命を持つ。そのためか、種を遺す機能が失われていたのだった。来楽が子供好きなことは緋砂も知っているので、気にしていたのだろう。

 来楽はなんだが微笑ましくなって、くすくすと笑った。

「ふふ、養子でもなんでももらって来ればいいのに」

「それもそうだが……」

 口には出さないが、来楽の子供が欲しいのは彼の方なのだろうな、と来楽は思った。

「で、この子自動人形でしょう? 動くんですよね」

「ああ、背中の突起を押下するとアイテル電源が入る」

 緋砂が黒いケープの中に手を突っ込むと、ピ、と音が鳴った。

 ブゥン、と唸りながら、猫の体にアイテルが通っていく。

 猫の目が、金色に光った。

「ますたー!」

「うわっ!」

 おぼつかない足取りでこちらに向かってきたと思ったら、来楽の胸元に飛び込んでくる。自動人形は目を輝かせて、来楽と緋砂を交互に見た。

「ますたー! あるじ! あえた! うれし!」

 来楽に面を擦り付ける。面は柔らかい素材でできているわけではないので、少し痛いが愛らしい。

「かわいい~! この子、私が名前つけていいですか?」

「ああ、もちろん」

 来楽は人形の脇を持ち上げて、まっすぐ猫の面を見た。

「じゃあ、あなたの名前は、てと」

「てと! てと、てと……てと!」

 甲高い子供の声で、自分に覚えさせるように自動人形は復唱した。

「てと?」

 緋砂は首を傾げる。

「てとてと歩くから、てとです」

「そのままだな」

「ええ。でもかわいいでしょう?」

 緑色の目をくりくりさせながら自信満々に答える来楽に、緋砂からも思わず笑みが溢れる。

「ああ、そうだな」

「緋砂様、ありがとうございます」

「うん」

 緋砂は満足げに頷いた。

 その時だった。螺旋階段を駆け上がる靴音が響き渡った。

「緋砂様!」

 息も絶え絶えに兵士が登ってきた。そのまま床に倒れ込む。

「なにが起こった?」

「星の宮で、召喚が失敗、いや、成功はしたんですが……」

 よく見ると、兵士の服はびっしょりと血で濡れて、玉のような汗が額を伝っている。

「おい、一体何を召喚したんだ」

「それは、私の口から……」

 緋砂は意識が飛びそうになっている兵士の肩を掴み、ガクガクと振った。

「もう一度言う、何を召喚した?」

 兵士の目には、恐怖が浮かんでいる。

 口に出すのすら、恐ろしいと。

「砂の王……ナイアーラトテップ様です」

「クソッ!」

 緋砂は髪の毛を振り乱して吠えた。

「なぜ行動に移す前に私に言わない!」

「炎の王に、王権を渡すわけにはいかないと……」

「戯言を! そんなもの要らんと何度言ったらわかるんだ!」

 荒くなった息を何度か深く吸い、兵士を床に横たえらせる。

 兵士から目を離さずに、緋砂は言う。

「来楽君」

「はい」

「塔に結界を張る。来楽君はこの塔から一歩も動くな。てと、君は来楽君をしっかり守ってくれ」

「ん! ますたー、まもる!」

 てとは同意を示すようにぴょんと跳ねた。

 立ち上がり、階下に向かおうとする背中に、来楽は言葉を投げかける。

「緋砂様は、どうするんですか」

「私は、取らねばならない責任がある」

 落ち着きを払ったその声は、来楽を突き放すかのように冷たかった。

 広い背中が寝室から消える。

 ポツンと残された来楽は、不安な気持ちを紛らわすように、てとをぎゅっと抱きしめた。



 アラベスクのドームを抱えた星の宮。

 普段なら瑠璃(るり)色の絨毯が敷かれているそこは、血が染み込み黒く染まった絨毯が敷き詰められていた。

 緋砂は金靴でその血溜まりを踏んだ。

「砂の王、そこまでにしろ」

 星の形に透かし彫りが施された大窓の前、天井まで届きそうなくらい高い背板を持つ椅子に、それは座っていた。

 無貎(むげい)の獣を二体、脇に携えて。

「お前、誰? いや、聞いたことがある。竜族だ」

 眩暈がするほどの血の香りも気にせず、黒を湛えたその男は言う。

「物語を喰らう種族、竜だっけ? ははあ、エジプト神話の竜アペプを基礎に、炎の王クトゥグア、不死鳥、果ては認識の鳥まで、悪食にも程があるんじゃない? 全然気持ち悪いよ」

 男はからからと笑う。

 そして、急に氷のような目をして。

「死ね」

 何かがぱんと弾けた。

 しかしそれは音だけで、水蒸気が立った跡だけ残る。

 何事もなかったかのように、二者は相対している。

 砂の王の惨殺方法は、瞬間的に気流を弄り空間を圧縮するというからくりだった。嵐の神たる所以はここにある。

 炎の王クトゥグアの権能を持つ緋砂は、瞬間的にそれを見抜き、炎で空気内に温度差を作ることにより気流を起こし、その攻撃を相殺したのだった。

 闇を煮詰めたように黒い男は、爪を噛みながら緋砂を睨んだ。

「あー、あのファッキンファイヤー食ってるんだもんな。やっぱ砂じゃ無理っぽいか? だったら呼んじゃおう、呼んじゃおう。神々の戦いだ。派手にやった方がいいね」

 砂の王は、杖を持ち立ち上がった。

 ありし日にはウアス杖と呼ばれていたそれは、王の権力を表すとともに、嵐と砂漠を支配する者に授けられる神の杖であった。そしてそのどれもが、柩神(セト)、そして砂の王ナイアーラトテップのことを端的に表していた。

 千夜人の罪。

 初代王星渡は、宇宙と繋がってしまった。

 外つ者を降ろしてしまった。

 人の分際で、世界の理をねじ曲げる力を得てしまったのだ。結果文明は起こり都市は発展し豊かさは人々を甘美な夢に落とした。

 それはあるいは、時を止める砂。

 それはあるいは、暴虐を尽くす嵐。

 それはあるいは、未来を予知する星。

 超えてはならない線引きを、悠々と超えてしまった。

 そして炎の王、クトゥグアを喰らった歴代の竜は、柩神の力が暴走しないようにそっと見守っていたのだ。

 しかしそれも今日、絶対に超えてはならない線を超えてしまった。

 砂の王は杖の先を緋砂の首に向ける。

「クトゥグアがいくら強かろうと、ノーデンス爺さんに括りつけられてる時点で負けだよ。好きにやらせてもらう」

 あはは、と乾いた笑いが漏れる。

「這い寄れ、混沌。産まれろ、産まれろ、無貎の獣」

 空間が、歪む。

 頭を直接殴られたような、猛烈な吐き気が緋砂を襲う。

 空間が、暗転する。

「やめろ!」

 極彩色に染まった視界に、顔のない獣たちが次々と生まれ出ずる。それらは一斉に、緋砂を取り囲んでくる。

「我こそは太陽を喰らい、王を再生に導く者。永遠とは即ち生死の流転。大魚の口、南の星にて!」

 緋砂の尾の炎が、油をかけられたように激しく燃え上がる。炎は彼の体を包み込み、星の宮の神殿は燃え移った炎で、パチパチと崩れていく。

 炎が、小さくなっていく。

 火が解けると共にその姿を現したのは、黒い鱗と相反する赤い翼を持つ異形の怪物だった。

「竜」は、星空に向かって高く吼えた。



 千夜の都に、日が昇る。

 兵士を安全な場所に避難させ、来楽は寝台の上でてとを抱きしめていた。心の中で色々な感情が渦巻いて、一睡もできなかった。結界が張ってあるためか、外の喧騒は何も聞こえてはこない。その炎の王の慈悲さえも、来楽には世界から取り残されているように感じた。

「緋砂様……」

 こんな時でも何もできない自分が悔しかった。巫女としての才能がないことをこんなに嘆いたことはない。

「来楽姫! ご無事ですか⁉︎」

 螺旋階段から見知った鳥族の少年が顔を出した。褐色の肌には汗が浮かんでいる。穂先が墨に濡れたように黒い銀色の髪は、砂埃で灰色がかっていた。

和隼(にぎはや)将軍?」

 この少年は来楽と同じく、珍しく緋砂を邪険に扱わない人間の一人であった。

「伝達が遅くなり申し訳ありません」

「どうなっているのですか」

「星夜王は、決して降ろしてはいけない神、砂の王を降ろしてしまいました。その結果、星の宮に集まっていた巫女、神官たちはほぼ全滅。王族もろとも血の海に沈んでしまいました。私は儀式から除外され難を逃れましたが、殆どの人間の安否は確認できません」

 淡々とした口調で少年は告げた。

「うそ、嘘ですよね……」

「全て事実です」

 ばくばくと、壊れた振子のように心臓の音が響く。

「あの、緋砂様は、どこに……」

「砂の王と戦っております」

「なぜ、あの人が」

「それこそが炎の王の役目ですから」

 来楽だって知らないわけではなかった。

 初代王星渡と緋砂が交わした契約。それは千夜王が暴走した時に、炎の王が止めるという契約だった。

 涙を堪えて、来楽が唇を噛んだその時だった。

 書架の塔の寝室が、天蓋から崩れた。

「ひゃっ」

 屋根瓦の瓦礫とともに、何か大きくて黒いものが寝室に突っ込んで来た。土埃を上げたそれは、鱗が覆う巨躯を来楽の前で広げていた。

 来楽にはわかった。この蛇のような怪物は、緋砂その人であると。

「緋砂、様?」

 唇を震わせながら声を発すると、怪物はのそりと長い首を持ち上げた。

「すまない、この姿になるとしばらく戻れないんだ」

 こんな大きな怪物からいつもの優しい声音が聞こえたので、来楽は尻尾を高く上げて目を瞬かせた。

 すかさず和隼が飛び出して聞く。

「状況は」

「とりあえず砂の王の眷属たちは焼き払ったが、なんといっても受肉をしている。また星辰が揃えば襲いに来るだろう」

「竜」は夕日のような金色の目を、小麦色の髪の山犬に向けた。

「正統な王族はもう、来楽君と、熱を出して儀式に参加されなかった白夜王子しか残っていない。白夜王子はまだ幼いと考えると、指揮を取れる巫女は来楽君だけだ」

「私……が?」

 優しき竜は長い首をくねらせて首肯した。

「来楽君。急で大変申し訳ないが、星の巫を任されてくれないか」



 次の星辰が揃うまで、二週間ほどの期間があった。

 都を砦として増強する。特に書架の塔の改修は急ピッチで進められた。破壊された星の宮の代わりに、書架の塔を神殿兼アイテル槽として機能するように改造を行った。増築された書架の塔は当初の壮麗さとはかけ離れたものとなったが、司令塔としての役割は十二分に果たせるようになった。

 来楽自身も、自らの研鑽を怠らなかった。巫として十分な力を発揮できるよう鍛錬を積み、ある程度までなら柩神の権能を扱えるようになった。元来のアイテル耐性が強い体質もあるのだろう。努力とは結局、対象にいかに真摯になれるかどうかが重要なのだと来楽は感じた。

 悲しんでいる暇など、一時もない。

 星辰交差まで、十日。

 書架の塔の中層階。臨時作戦司令部となった小広間。

 円卓に、生き残った面々が並ぶ。

「民を、二つに分けようと思います」

 来楽の通る声が、分厚い沈黙を破った。

「判断基準は王族の血が混じっているかどうかです。実際のところ砂の王を召喚できたのは星渡の血の影響が大きい。つまり、王家に近しいほど砂の王の媒介になる可能性が高いということ。もし触媒にされたとして、赤冠ならかろうじて砂の王を封じる戦力がありますが、他の地域で顕現されたらどうなるかわかりません。

 なので、王家の血を引く者はこの阿鼻土峡谷に留まり、砂の王の迎撃に参加してもらいます。

 逆に王に縁のない者達は、砂漠化の進んでいない沼地、威照河流域まで退避してください。そしてこの都を捨て、新しい街を作るのです。

 迎撃組の指揮を私が、そして退避組の指揮を、和隼将軍に任せたいと思います」

「僕に?」

 自分が大役を任されると思っていなかったのだろう。和隼将軍は珍しく間の抜けた顔をした。

「ええ。指揮能力があってかつ全く王家と関わりのない人間。一番適任です」

「でも、僕にはアイテルの才能も、神を降ろす力も無いんですよ」

「そんなものは要りませんよ。一番大切なのは決断する力です」

 そう言う来楽も、この若き将軍がそこまでの人望を集められるかは不安だった。星占いと神がかりが支配するこの国で、巫術を使えないただの人間に注目が集まることは少ない。

「しかし……」

 口ごもる和隼に対し、牛族の女性が横から口を出す。

「私に考えがある」

衣梓(いし)様?」

 衣梓は大きく頷いた。宮廷魔術師を務める女性だ。彼女は巫女でこそないが、神を降ろすとは別の方法でアイテルを利用する天才だった。その原理は彼女しか理解できないので、周囲から魔女と呼ばれることさえあった。

「和隼将軍を新王国の王に仕立て上げるのは、どう? 悪い神様と契約した千夜王家を倒し、新たな国を作った王としての神話を作るの」

 来楽は感心すると同時に、背中に冷たいものが走るのを感じた。

 それはつまり、和隼の信望を集めるために、千夜国の価値を落とすということだった。

「でも、僕は千夜国に恩があります。民を騙して千夜の名を潰すような行為は」

「人を生かすためだ」

 会議が始まってからじっと黙って聞いていた緋砂が口を開いた。

「国がなくなっても、人さえ残っていれば国は花開く。それは以前とは全く違うものになるかもしれないが、人が生き残らなければ国すら失われる」

 切れ長の金色の視線が、突き刺すように若き隼を射る。隼はごくりと唾を飲んだ。

「大丈夫」

 衣梓が黒髪をふわりと靡かせて、和隼の肩を抱く。

「任せて。魔女が責任をもって貴方を王に仕立ててあげる。糸を紡ぐのは、私の得意とするところだわ。安心して身を委ねてちょうだい」

 魔女は大きい黒目を細めた。長いまつ毛が、石灰石のような白い肌に影を落とす。

 和隼は覚悟を決めたのだろう。息を吸って、吐いた。

「わかりました。僕が新たな国を作りましょう」



 星辰交差まで、七日。

 赤冠近郊。第二工廠。

「すごい……」

 来楽は後ろにひっくり返りそうなほど首を曲げ、建造物の全貌を仰ぎ見ようとした。

 神殿一つ分は飲み込みそうなほど大きなそれは、巨大な鋼の船だった。

 背後から緑色の髪の男がやってくる。褐色のごつごつした手には設計図が握られている。

「太陽の舟。地下から流出したアイテルを積み上げた、緋砂様の権能を十分に発揮する戦艦だ。聖火を噴き上げて、空を飛ぶ」

「空を飛ぶんですか!?」

「ああ、そうだ」

 来楽の目が、餌を出された時の犬のようにキラキラと輝いた。すごい速度で尻尾を振る。

「確かに、燃料としてアイテルを使えば砂の王の狂気も相殺できて一石二鳥だな」

 緋砂は男の横から設計図を覗き込んだ。顔には出さないが、緋砂の尻尾も控えめに揺れている。

忍野(おしの)さん、趣味が趣味の域じゃないですね」

 忍野と呼ばれた鳥族の男は、緑髪をガシガシと掻いた。恥ずかしいのか、強面の顔を崩し緩くはにかむ。

「裁判長の仕事も嫌いなわけじゃあないんだが、設計図引くのも興味があってな。財が使えるとなりゃあ男のロマンはやりたいだろ」

 普段は法の番人をしている彼だが、興味本位で現場に出入りしていたのが見つかり、試しに図面を引かせたところその才を存分に発揮してしまったらしい、というのは忍野の妻である衣梓の談だった。

 衣梓本人は忍野の趣味に呆れているようで、

「男って、馬鹿ばっかり。あんな重装甲絶対要らないでしょう」

 と重いため息を吐いた。

「ああん? 文句があるなら法廷で言え」

 裁判長らしからぬ返しに来楽は微笑ましくなる。軽く口げんかはしているが、仲のいい夫婦なのは伝わってくる。なにより、衣梓の腹は大きく膨らんでおり、そこには新たな生命が宿っている。

(繋げていかなきゃいけないんだ)

 神の采配で、おもちゃのように命が奪われることなどあってはならない。

 無慈悲な神が惨劇を起こしても、生きて抗おうとしている人間がいて、産まれようとしている命があるのだ。

(私は星の巫。星を読んで未来を掴む)

 来楽は胸に手を当てて、自分の役割を再認識した。



 星辰交差まで、三日。

 阿鼻土(あびど)山麓、黒狗(くろいぬ)平野。

 精緻に描かれた法陣の中心に太陽の舟が鎮座し、出航の時を待ちわびている。

「和隼将軍。ご武運をお祈りいたします」

 一週間前よりもいくらか精悍な顔つきになった少年に、来楽は手を差し出した。彼の背後では鳥族を中心に、様々な種族の民たちが搭乗口に並んでいた。

「ええ。命の炎を絶やさぬよう、尽力いたします」

 和隼は来楽の手を握り返した。

 来楽よりも年下だというのに、その手は豆で潰れ堅かった。毎日剣を振った証だった。

 和隼は金と青銀の瞳を来楽に向ける。

 元来彼の瞳は黒い。左右で色の違う瞳は、彼の英雄としての伝説に信ぴょう性を持たせるために衣梓が施した魔法のひとつだった。太陽と月の瞳。圧倒的な闇に打ち勝つ神の戦士としてこれから彼は新しい国を背負うことになる。

 もうひとつ、魔女が彼に与えた祝福があった。

 それは炎の王の火種だった。万が一のことがあった際、炎の王が復活できるように、和隼の血に炎の王の因子を混ぜ、召喚元を作っておいたのだ。初めての試みなので体にどういう影響が出るかはわからないが、希望の光になってくれることを願うばかりである。

 和隼との挨拶を済ますと、相変わらずおぼつかない足取りでてとがこちらに走ってきた。

「ますたー!」

 撫でてくださいとばかりに額を向けてきたので、つるつるとしたその面に手を滑らせる。

 てとはアイテルを補充して動く装置である。ただでさえ地下から噴出するアイテルが枯渇している今、戦闘機能が付いているとはいえ愛玩用の自動人形に積む燃料はないとのことで、一旦太陽の舟で輸送することになったのだ。

「てと、いい子にしてるんだよ」

 てとはしばらくじっと撫でられていたが、ぶるぶると身を震わせるとがっくりと面を伏せた。

「ますたー……」

「大丈夫。全部終わったら、ちゃんと迎えにいくから」

「そしたら、つぎ、てと、ますたー、まもる、まもるよ!」

 てとは鼻息を荒くして一回跳ねた。

「うん。お願いするね」

 ぶんぶんと仮面が振られる。

「じゃ、ますたー、さらば!」

 相変わらずおぼつかない足取りでてとてとと歩く人形に、来楽は少しだけ胸が苦しくなった。



 太陽の舟が黒狗平原を出発し、数時間ほど経った頃だった。

 砂漠化で人のいなくなったどこかの山。

 黒い男が唇を開いた。

「どーん」

 そう、空中に言っただけ。

 それだけだった。

 そのつぶやきは雄大な砂漠の他、誰の耳に入ることもなかった。

 しかしそれだけで、十分だった。


 突如、船体ががくんと揺れた。

 見回りで甲板に立っていた忍野は体勢を崩し転がりそうになり、すんでのところで落下防止柵を掴む。

 視界の端、船尾にサソリの形をした夜色の獣が出現していた。

「ふッざけんな……ッ!」

 驚くのもつかの間、忍野はこれほどかと眉を怒らせ顔のない獣に吼えた。

 体勢を立て直し、二本の足でしっかりと甲板に立つ。

「総員、船内へ移動しろ! 俺が殿を務める!」

 混乱する船員たちが階段を降り始める中、人々を押しのけて、危険を察知した和隼が甲板に這いあがってきた。

「忍野さん!」

「来るな!」

 無貌の獣から片時も目を離さず、忍野はぴしゃりと叱った。

「殿は俺だ。夜の獣は俺がここで全部食い止める」

 二本の宝杖を空中から取り出した忍野は、腕の前でそれを交差するように組むと、地面が光り出し即席の法陣が描かれる。

「舟が駄目になったら、俺の体を使ってくれ。舟の権限は俺に設定してあるからちゃんと動くはずだ。アイテル槽に括りつけてくれりゃあ、責任もって将軍の故郷まで送る」

「しかし、それでは忍野さんが……」

「お前さんは王になるんだろう。使い時に駒を使えるようにならなきゃ、善い王には一生なれないぞ」

 向かい風に白衣とダチョウの尾を靡かせながら、忍野は言った。

「かしこまりました」

 和隼は沢山の言葉を飲み込んで、それだけ口に出す。一回だけ深く頷いて、船内へ通じる階段を降りていった。

「ふ、」

 甲板と船内を隔てる扉が閉まった音を確認してから、忍野は自嘲するように鼻で笑った。

「かみさんにまた叱られるな」

 忍野は宝杖に強く力を籠める。

「豊穣神の名のもとに宣う。我は裁定者。死者を裁き、生者の道へ送る者。方舟より黄金の葦原(アアル)に接続。顕現せよ、白冠の苗床(ウェンネフェル)

 忍野を中心に、鋼の甲板から植物が一斉に萌芽した。

 それは、砂漠に雨が降ったあとの、一瞬の花畑のように。

 植物たちは緑髪の裁定者に従い、夜色のサソリに向かって茎を、葉を延ばす。

 生命を賛美するかのようなその攻撃は、真昼の太陽のもと夜の闇を砕き、散った。



 太陽の舟出航から数日後。

 砦となった書架の塔、最上階。

 太陽の舟不時着の報せはすぐ来楽たちのもとへと入った。幸い高度も低く黒狗からもそこまで離れていなかったため、舟に乗っていた者たちは無事に生還した。

 無貌の獣に独りで立ち向かった忍野を除いては。

 忍野は書架の塔に運ばれたが、瘴気にことごとく侵食され、全身緑の痣まみれのまま息は既に絶えていた。本人の申し出通り死体は巫の砂で時を止め、防腐処理をされたまま太陽の舟に繋ぎ留められた。舟は修理されもう二、三日でまた阿鼻土を発つだろう。

 忍野の訃報に対し衣梓は気丈にふるまっていたが、相当堪えるものがあったのだろう。死体にアイテル処理をかける前夜は二人きりにさせてくれと申し出があった。来楽に断る理由はなかった。

 今回の不時着事件で一気に俎上に上った問題。

 それは、星辰が揃おうと揃わざろうと、砂の王は気分次第で反撃に出られるという事実だった。砂の王の性質に詳しい緋砂によると、余力があるのに今まで攻撃してこなかったのは、単に躍らせて楽しんでいただけなのだ、とのことだった。

「来楽君は、認識の鳥を知っているか」

 光る石板を指で撫でながら、緋砂は問う。

「いいえ」

「認識の鳥とは、私に刻まれた物語のひとつだ」

 彼曰く、竜族とほかの種族を決定的に分かつものは、この世界に存在しない生物の特徴を持っているか否からしい。

 かつてこの土地を支配した種族が想像した物語の集合体、それが竜だという。

「認識の鳥は人に知られ人を喰らい成長する鳥の話だ。つまり、人に知られれば知られるほど私の力は強くなる。逆に知られなければ、力は弱まる。私がこの塔に閉じ込められていたのもそういう理由だ。そこでだ」

 緋砂の指が止まる。

「私が砂の王を食べて、その存在自体を私で上書きする。私がやったことにしてしまえば、砂の王のことは皆次第に忘れ去る。そうすれば私の認識の鳥の権能で、砂の王の力を最小限に封印することができる。不死鳥の権能は残るので死と再生は繰り返すだろうが、砂漠に行き化け物として扱われることにより、人的被害を最小限にできる」

「それって、緋砂様のことを、皆が悪者にしちゃうってことですよね」

「そうだ。間接的に和隼の支援にもなる。いい案だと思うが」

 緋砂はまんざらでもない風に言った。

 石板の光が消える。緋砂は清潔な寝台に腰を下ろし、石板を枕元に放った。

 傍らに座る来楽が、口を開く。

「……誰も言えないだろうから言いますけど」

「ん?」

「緋砂様って、本当にバカですね」

「バッ……」

 賢者やら知識の王やらと崇め奉られて、散々頭脳労働をさせられてきた自分が言われると思っていなかったのだろう。口の端が少しだけ引き攣った。

 たじろぐ他称賢者をいいことに、来楽はぐいと身を乗り出した。

「力を持つ者の責任? そんなの一人で背負ってかっこいいとでも思っているんですか? やれ自分が悪い、自分で解決しなきゃ。結局空気を読みすぎて他人に仕事振るのが下手だから孤立するんでしょう。ダサいにも程があります」

「いや、責務は責務で……」

「だからそれがいけないって言ってるんです。誰よりも人間が好きなくせに、自分は人間から阻害されて当然だと思っている。その時点で間違っています」

 来楽は、歯を食いしばった。

「緋砂様は、一人じゃないんです」

 強い、言葉だった。

 もうそこには、自分に自信がなく俯いていた半人前の巫女はいない。

 歴代の誰よりも強い心を持った星の巫が、そこにはいた。

「しかし……」

 いくら考えても緋砂が犠牲になるのが最善策だというのに、どうしても言い返すことができなかった。

 その瞳が、二つの緑の星が、強く瞬いていたから。

「緋砂様がどうしても身を投げうちたいなら、私にも考えがあります」

「来楽君に?」

「はい」

 来楽は乗り出した体を引っ込めて、寝台の上で居住まいを正した。

「緋砂様は、最期まで私と一緒に踊っていただきますよ」

 当代の、そして最高の星の巫女は、くしゃりと顔を崩して笑った。



 緋砂の予感は的中した。

 星辰が揃うと言われていた数日前にそれはやってきた。空間が割け、無貌の獣の軍団が阿鼻土峡谷になだれ込んできたのだ。

 一瞬にして、世界は色彩を変えた。

 砂の王はその権能を存分に使役し、大型の砂嵐を平地全体に巻き起こした。数年前には豊かな穀倉地帯だったそこは、ついに荒れ果て死の砂漠と化した。

 強力な結界を張っていた赤冠の都は、険しい山々に囲まれているのもありかろうじて戦火を免れたが、補給が途絶えている籠城戦が長く続くわけはない。

 唯一幸いだったのは、太陽の舟が無事に砂嵐を抜け、北方の沼地に錨を降ろしたことだけだった。

 砂の王はこれからも、じっくり人間の苦難を舌で味わうように、殺戮していくだろう。

 未来はもう見えている。飢え、乾き、熱病。

 沢山人が、死ぬ。

(この輪廻を、断ち切らなければ)

 三日月が、柔らかく書架の塔を照らしている。

 来楽は衣梓の召使である亀族の少年から、流麗に反った刀を受け取った。祭儀用の凝ったものであるが、その刃は冷ややかなほどに鋭い。

「本当に、緋砂様を封印するのね」

 目の前の椅子には、身重の衣梓が座っている。部屋の奥の寝台で気持ちよさそうに寝息を立てているのは白夜王子だった。今年で七つ歳を数えたその頬は、まだ柔らかな肌に血管が透けている。これから行う儀式の前に、この二人もじき城から出ていくだろう。

「はい」

 来楽は意志の滲む目を魔女に向けて、言った。

 魔女は愛おしそうに微笑む。

「この状況で、背負うなというのは酷だけれど。来世があるとしたら、貴女は誰より幸せになるべきよ。もちろん、緋砂様も」

 姫巫女の頬に、陶器のような指先を滑らせる。

「誰も彼も、苦しいほどに優しいわ」

 そしてその指先は、来楽の唇に触れると、そっと肌を離れた。

「おまじない」

 衣梓は俯いて来楽の手の甲に再び指を重ねた。

 伏せたまつ毛が、月明かりで影を作る。

 黒髪が肩口から滑り落ちて、母となる女の細い首を浮かび上がらせる。

「貴女の道行に、再び炎が灯りますように」

 その声色には、確かに慈悲が込められていた。

 来楽の冷えた手が、じんわりと温かくなる。

 もう自分を捨てた母のことなど覚えてはいないが、こういう人が母親だったらいいのにな、と来楽は思った。

「ありがとうございます」

 来楽の言葉を、衣梓は目を細めて返す。

 魔女の工房を駆けて出ていくその山犬の背中を目で追いながら、魔女は傍らの白夜王子に語りかける。

 まるで、子守歌を歌うように。

「さて、また物語を紡ぎましょうか。そうね、人間嫌いの王と、その心を溶かす踊り子の話とかいいかしらね。何も残らないだなんて、悲しすぎるもの」



 星が強く瞬いている。

 天狼星(てんろうせい)。この星が空に浮かぶとじきに雨が降る。雨は山地を潤し、洪水を引き起こす。水が引いて残る泥土は麦畑になり、この国に豊かな実りをもたらす。星の宮の者たちはこの星で暦を読む。ゆえに星の宮の巫女たちは、ひいてはこの国の人間は、皆信仰する星だった。

 星の巫は、天狼星の現人神(あらひとがみ)だ。

 大祭祀に使用する白と紺の巫女装束を着た星の巫が、炎の王の寝室に入ってくる。白は死と再生を表し、紺は夜空と河の恵みを表す。手には宝石が嵌った偃月刀(えんげつとう)を握りしめていた。

 巫女の姿を視界に入れた竜は、鱗が覆う体を客人に向けようとしたが、うまく力が入らないのかそのまま寝台に寝そべった。

「すまないな、この体で失礼する」

「大丈夫ですよ。楽にしていてください」

 巫女は竜の傍らに腰を下ろした。

 傷だらけの黒い鱗を、優しく撫でると、竜は小さくうめき声を上げた。緑色に変色した血が、どくどくと傷口から流れ出ている。

 竜は、その胃袋に、砂の王を納めていた。

 戦いは一千夜にも及んだだろうか、それとも、ものの数秒だっただろうか。幻のような極彩色の空の下では、時間感覚などあってないようなものだった。

 そもそも、日も星も月も見えぬ空には、時間など測る術もなく。

 事実として残ったのは、砂の王が汚染しつくした平原と、夜の獣たちだけだった。

 生き残った千夜の民たちは、変色した大地を聖火で焼き尽くし、砂で覆った。

 結果としてそれは砂漠を拡げたが、狂気の土地よりは幾分かましだ。

 戦いの末、砂の王を飲み込んだ竜は、砂の王がいたという認識ごとこの世界から切り取った。

 そして自らを、悪神と称した。

 眠たそうに目蓋を閉じようとする竜に、巫は語りかける。

「緋砂様」

「なんだ」

「緋砂様は、生まれ変わったらどうしたいですか」

 竜は、そうだな、とかすれた声を出した。

「ただの人間に生まれて、君のしたように、人間の研究をしてみたい。砂漠をかけて話を聞き集めるのはなんだかおもしろそうだ。そういう来楽君はどうなんだ」

 巫女は、そうですねえ、とやや間の抜けた声をだした。

「私は、流浪の踊り子になりたいです。使命も重責もなく、ただ踊って日々を暮らすんです。それでいつか、旅をする緋砂様と出会って、恋に落ちるんです」

「君は懲りないな。また私に引っ付いてくるのか」

「もちろん」

 巫女は、愛おしげに微笑んだ。

「来楽君」

「はい」

「愛している」

「はい」

 返す声は、小刻みに震えていた。

「さあ、ひと思いにやってくれ」

 竜はその身を差し出すように、金色の瞳を静かに閉じた。

 巫女は緑色の血に塗れた頬に流れる涙を拭い、かすれる声で唇を動かした。

 旋律を、舌に乗せる。

 剣を振りかざし、星の運行をなぞるように、舞う。

「眠れ、眠れ、竜の子よ」

 それは、巫女が自ら作った呪文。

「星は落ち、砂に埋もれど」

 狂気を鎮め、都の時を止める魔法。

「夜は明け、鳥が鳴けども」

 ひとりの偽王を真実とし、世代を繋ぐ祈りの言葉。

「優しき君の、ともし火は」

 竜の命の火を吹き消し、眠りにいざなう子守歌。

「永久に砂漠を、照らしうる」

 何度も死と再生を繰り返し、孤独の中苦しみ喘ぐことのないように。

「眠れ、眠れ、竜の子よ」

 巫女の力はしかし弱く、この竜の苦悩を完全に浄化することは敵わなかった。

 だからせめて、あなたの時間を、砂で止めて。

 私も一緒に眠ります。

「眠れ、眠れ、炎の王よ」

 名の残らぬ夜の姫は、黒き竜の体にその刃を突き刺した。

 それは、永遠に、死んだ状態を保つために。

 狂気を世界に拡げないために。

 赤冠の空を砂が覆い、偽りの天球が帳を下ろす。

 この世界から惜別するように、黒い鱗に口づける。

 永遠の夜の中、炎の王と星読みの巫女は、優しい眠りに落ちて行った。

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