16
黒狗の街は街と言うにはあまりに粗末で、だだっ広く建物の枠組みが残っているだけの廃墟だった。
砂漠化が酷い。街のほぼすべてを砂が覆っていた。阿鼻土が発生した地は水が枯れ、植物が育ちにくくなるというのも影響しているのだろうか。
幼少期清那が過ごした土地だというのに、面影など全くなかった。
二十人ほどの夜の民一行は、半日かけて黒狗の街にたどり着いた。
もう夕暮れも落ちかけて、地平線の端が紫に染まっている。
白と濃紺の巫女装束を着せられた清那は、裸足のまま地面に立つ。金の足環がしゃらしゃらと音を立てる。
足の裏から、地面の律動を感じる。
西の空には天狼星が輝いている。
星読みとは文字通り星の位置から暦や方角を読み取る行為であるとともに、天と地を自らの体内と繋げる行為でもあった。体に刻まれた祈りが、清那にそう告げている。
自分が何をすればいいのかわかる。
巫の力が戻ってきているのを感じる。
壊れた家屋の上では、死体屋、もとい夜の民が武器を構えて警戒している。広場には黒が一人で立ち、異邦人の来訪を待っていた。清那は広場を見下ろせる高台で控え、この方陣の全体を俯瞰していた。赤夜は壁の後ろで、方陣に繋げるアイテルを準備している。千夜国が荒地になってから、夜の民は長らく人里離れた渓谷で阿鼻土に対抗しながら生活していた関係で、ここにいる巡回員たちだけでなく部族全員がある程度戦闘能力を備えているというのだから驚きである。
ざっ、と砂の積もった石畳をサンダルが叩く音が聞こえる。
日暮と共に、広場に一人の男が入ってくる。
白い髪に褐色の肌、隼の羽に骨のある尾。
敵に囲まれているというのに堂々とした歩みは、逆に威厳すら醸し出している。
(高砂先生……)
一日離れていただけなのに、清那には目の前の男がなんだか遠い人のように感じられた。
高砂は低く唸るように声を張り上げた。
「清那君を返してくれるんだろうな」
その質問は返ってくることはない。
沈黙だけが彼の言葉に答えていた。
風の音がごうと鳴き、砂が舞い上がる。
「やれ」
黒の一言で、祭祀班の者が一斉に手を振り翳した。罠の一段階目が発動する。
「なっ……」
地面から現れた黒い包帯が、高砂の体に巻き付く。みるみるうちに粗雑な隼のミイラが完成していく。包帯の正体は、柩神の砂で作った呪具だった。黒い布地の上には金色の模様が浮かび上がり、暗がりでぼんやりと微光を放つ。
黒は振り返り、闇の台に立った清那に向かって合図をする。
「さあ、あとは巫様が起動するだけです」
清那は声を発さず、ただ首肯をした。
(やることはわかってる)
先ほどの死者と同じだ。この包帯にはアマニ油がふんだんに塗られており、清那が炎の王の術式を放てば高砂もろとも高く火をあげて焼け焦げる。
(そう、わたしのやることは、ひとつ)
清那は腕を掲げた。
「柩神よ、鋭き砂で楔を断ち切れ!」
清那の手のひらに瞬時に砂が集まる。
そのままブーメランを投げるように、空気を切る動作をした。鋭く磨がれた砂の礫が暴れ回り、黒い包帯をバラバラに断ち切っていく。
一瞬にして頸木を逃れた高砂は、周囲を見渡しながら固まっていた関節を回す。
黒の悲痛な叫びが壁のない広場に響く。
「なんてことをするんだ!」
「私は、殺しません」
はっきりと、清那は口にした。
「甘ったれたことを言うな!」
尻尾の毛を高く逆立てて、黒は清那を睨んだ。
「お前の手に国じゅうの人の命がかかってるんだ! 個人的な理由でその天秤を傾けるなど、愚の骨頂だ!」
「それなら逆に聞きますけど」
清那の緑の目に、炎が宿る。
「そんなに柩神の力を欲していた照耀王家が、悪神をやすやす鳥かごから放ったのはなぜなんですか? 何か可能性を感じたからじゃないんですか?」
「あいつらは黒狗を焼いたんだぞ! 俺たちの希望を……星の民を! そんな考えなしな奴らに、目論見などあると思うか?」
黒が握りしめる槌矛が、持ち主のあまりの怒りでぶるぶると震えている。
今や、夜の民の全員が清那に刃を向けていた。
「少し、耳を貸してくれないか」
殺し合いが始まりそうな空気の中、やけに冷静な低音が場を乱す。
夜の民に、やんわりと動揺が走る。
「君たちは、そこの碑になんて書いてあるかわかるか」
高砂は黒の横の建物に刻まれた千夜文字を指差した。この方陣が作られた頃から刻まれていたものなのだろう。ところどころ掠れている。
壁の後ろから、杖を背負った赤夜が出てきた。
「なぜ、今そんなことを……千夜の神聖文字は、当時から数人にしか……それこそ巫女である星の民にしか引き継がれないものでした。現代人に読めるはずが」
「俺は読める。なんたって知識と再生を司る炎の王だからな」
いつもの不敵な笑みが、褐色の肌に浮かんでいる。
「うん。少なくとも、この罠は俺に使うものじゃない」
「じゃあ、誰に」
「砂の王、と書いてある」
「……聞いたことがありません」
半ば軽蔑するように、赤夜は薄く笑った。
「炎の神の別称かもしれないが、それなら星の民だけで秘匿する必要はない。敢えてこの名で書いたと思うんだが……」
その時だった。一人の駱駝耳を携えた伝使が黒に向かって走ってくる。
「黒夜様! 獣が、こちらに……」
「くそ、こんな時に」
黒は舌打ちをした。その視界の先は極彩色に染まり、暗澹たる雰囲気を醸し出している。
(阿鼻土……ッ!)
異世界の色彩から夜の獣たちが産まれ出てくる。闇の色の犬が群れを成して、夜の民を喰らわんと四つ脚で地面を蹴る。
近づいてくる。狂気の空間が。
清那が事前に渡されていた仮面を腰布から取り出そうとした、その時だった。
「星南様!」
誰かの声で振り向くと、地面からにゅるりと黒い物体が現れた。
「えっ……!」
夜空色の触手のようなものが、清那に襲いかかってくる。
黒くぬらぬらと光る触手が清那の頬を掠める。
清那は思わずギュッと目を閉じた。
「嫌!」
瞬間、とん、と軽い音が聞こえたかと思うと、清那の体が何かに支えられた。
目の前を柔らかく炎が包み込んだ。
(暖かい)
人肌のような炎。何度も何度も助けられた炎。
「清那君、大丈夫か」
恐る恐る声のした方を向くと、高砂の顔があった。
「先、生?」
いつのまにか清那は、高砂の腕の中にいた。
腕は黒く鱗が浮き、その背には赤い羽根が生える。
尾にもはや羽は生えておらず、黒い蛇の尻尾が揺れていた。
その尾先には、柔らかな炎が灯っている。
異形の鳥は、清那が無事なのを目線で確認すると、安心したように一息ついて、頷いた。
金色の隼の瞳を、夜の闇を閉じ込めた獣に向ける。
「あれだな」
清那を後方にそっと追いやると、頭上に手を掲げた。
「我は炎の王。砂を継ぐ者。破壊と再生を司る者。竜の機構を回す者。今ここに千夜一夜の契約を発動する」
周囲の酸素を全て巻き上げて、手のひらの先に炎の嵐を呼び起こす。竜巻のようにうねる炎が、高砂を包み込んでいく。
金色の瞳が耀く。
それはまるで夜の闇を照らすように。
「赤し卦、夜鳴け。緋色の鳥よ。草食み嶺食み、紀を延ばせ。星核接続、大魚の口、南の星にて!」
生きているような炎は高砂の手を離れ、黒狗の街を飲み干す勢いで大きくなっていく。
やがてその炎は大きな鳥の形になる。
鳥は空中で一回転すると、その姿を弾け散らした。
群れとなって襲いかかってくる獣たちに、火花は次々着火する。獣たちはみるみるうちに炎に包まれ、悶えるように吠えながら跡形もなく消えていく。
その様子は、さながら、星が降ってきたような。
「嘘、だろ……」
黒は目を見開いて絶句した。
「炎の王の火は、俺たちがずっと守り続けてきた聖火だったのか」
黒の灰色の瞳には、高砂に付き従うように舞い踊る生ける炎が映っていた。
炎の王の圧倒的な力により、黒狗に現界した阿鼻土は跡形もなく消え去った。
儀式どころではなくなり、清那たちは阿鼻土の峡谷にある夜の民の集落、夜峨に向かうこととなった。数時間かけて荷馬車で山を越え、集落に着いたのは日付の変わる頃だった。
夜の民の集落は思ったより大きく発展していた。山にへばりつくように日干し煉瓦造りの四角い建物が連なっている。建物は竪穴と一体になっており、この集落じゅうにトンネルが張り巡らされている。建物には精巧な細工が彫刻してあり、赤や黒で色付けされていた。聞くと阿鼻土を退けるための魔除けらしい。トンネルも阿鼻土が来た時に逃げられるようにするためのものなので、一見長閑な集落は、実際のところ砦のような役割を果たしているのだ。
清那と高砂は夜峨で一番大きな建物に案内された。首長の家、つまり赤夜の家だ。
赤夜の家族に軽く挨拶をして、用意された客用の寝室に向かう。赤夜は王家の血筋だと言っていたが、奥方も子供も気取ったところは全くなく、いたって普通の家族だった。
高砂と二人きり、見知らぬ寝室に取り残される。
昨日の出来事まで普通に会話していたのに、気まずくてしょうがなかった。
清那はいてもたってもいられなくなってバルコニーに出た。
夜風が肌を通り抜けていく。山脈の家々には魔除けの灯が掲げられ、煌々と輝いていた。そのすべてが聖火だった。
外と中を隔てる薄手のカーテンに腕押しして高砂もバルコニーに出てくる。腕にストールを抱えている。
「ずっと外にいると冷えるぞ」
清那は頷き、ストールを受け取って羽織った。
高砂の頸に目をやる。
金属製の首輪が嵌っている。先ほど赤夜につけられたものだ。万が一のことがあったときに魔力暴走を抑えるための呪具である。
「それ、重くないですか」
「隼人に縛られていた時よりは随分とマシだよ」
高砂は見事な金の彫刻が施されたそれを撫でた。
沈黙が嫌で、清那は無理やり話を続ける。
「すごいですね、先生は。千夜の文字も読めちゃうなんて。それこそ論文で発表したらいいのに」
「ああ、誰に教えられるでもなく昔から読めたんだ。だが文法もわからないのに読めるだなんて、誰も信用しないだろう。論文には書けないよ」
「そうか、そうですよね」
会話が止まってしまう。
何を話せばいいのかわからなくなった。つぐんだ唇は、言葉を乗せずただ真っすぐ結ばれる。
緩やかな沈黙が夜の闇に溶けていく。
(逃げていても、なにも始まらないな)
清那は口を開いた。
「すいませんでした」
「何を謝ることがある」
「先生から、逃げて……」
「別に俺がそういう対象じゃないのならしょうがない。大体、年が離れていないとはいえ教師と生徒の仲だ。避けて当然だろう。俺の方こそすまなかった」
高砂は深く頭を下げた。
清那は戸惑った。そんなことをしてほしいわけじゃないのだ。
「あ、頭を上げてください」
それでも頑なに礼を続ける高砂に、清那は覚悟を決めるように唾を飲んだ。
清那は反芻する。
(私が、高砂先生に向けている感情は)
例えば、高砂と初めて夜空を見上げた時。
冷徹な人間だという第一印象は全くの見当違いで、心の中に優しい炎を持った人間だと感じた。
例えば、舞台上で初めて踊った時。
その実直な態度から、嘘をつかない人間だと思った。研究対象に対して、絶対にブレない信念を持っていると。触れる手の温かさは、そのまま信頼へと繋がった。
例えば、悪神の秘密を打ち明けられた時。
孤独な人生であると共に、絶対に希望を捨てない人間だと思った。その世界に対する真剣さは、この人の力になりたいと強く思うきっかけになった。
例えば、砂漠を渡りながら踊り子として旅をしていた時。
旅は平坦な者ではなかったが、高砂やてとと工夫しながら見聞を集めるのは純粋に楽しかった。ずっとこうして旅芸人として過ごしていたいとさえ思ったのは、紛れもない事実だった。
そして、先ほど阿鼻土に襲われた時。
危機が迫っていたとはいえ、偶然にも高砂の腕の中に納まった時に思ったこと。
一人で夜の民の中に放り出されて、勝手に使命を背負わされて。心細くて、本当は大声で泣いて逃げ出したくて。
そんな中で、貴方が来てくれた。
(嬉しかった、それ以上に)
心臓に、血が廻った音が聞こえたのだ。
「高砂先生、いや……高砂さん」
白髪の隼は、うかがうように面を上げた。
清那は、聖火に照らされた顔に、柔らかな笑みを浮かべた。
「大好きです」
信じられない、とでも言いたげに、黒い目が見開かれる。
「それは、恋愛対象ということか?」
「今それを聞くのは野暮ですよ」
一歩、清那は高砂の前に踏み出して、少し高い位置にある顔を仰いだ。
端正なかんばせには、火照りと共にほんの少しだけ緊張が透けている。
褐色の指先が、想いを確かめるように白い顎筋に触れる。
清那はその手のひらに埋めるように頬を擦り付けて、瞳を閉じた。
もう、言葉など要らなかった。
銀色の長い髪が滑り落ちてきて、細い鎖骨をくすぐった。
聖火に照らされた集落の影。
誰も知らない、その夜の一角。
酷く、静かに。
しかし、どの砂漠よりも熱く、唇が重なった。
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