15
頬を一文字に割く日の光で、清那は目を覚ました。
また夢を見た。魔術を使う度、繭がほどけるように自分の中からあの夢が湧き上がってくるのを感じる。不思議な感覚だった。
ガタゴトと体が床に打ち付けられるのを感じる。目蓋を擦りながら周囲を見渡す。どうやら幌の中にいるようだ。頬に当たっていたのは、幌を覆う布の隙間から漏れた光だったらしい。てとは昨日動かなくなった時と同じく、魂が抜かれたように床に転がっている。
「おはようございます」
若い男性の声が降ってきた。
ぼやけた頭で声の主を辿ると、黒い犬面が清那を見下ろしていた。
すぐに頭が冴え渡った。冷や汗をかきながら飛び起きて後ずさる。
「傷つけたりはしませんよ。貴女は大切な巫様ですから」
昨日の少年よりいくらか落ち着いた声だった。物腰は柔らかいが、清那はその声に冷ややかなものを感じた。男は積み荷の上に腰かけ、清那をじっと観察している。
「名乗るくらいしたらどうなんですか」
清那が言うと、男は面を外した。
「これは失礼しました。私は赤夜。千夜国王家の正統な末裔です。時代が時代なら、当代の千夜国の王であったかもしれません。巫様とは二十年ほど前に黒狗でお会いしていますよ」
黒い髪を二つ結びにして前に下げている。黒い大きな犬耳は天に伸びるように真っすぐだった。笑みを浮かべているが、その細めた目蓋の奥に光る灰色の瞳は笑っていない。
王様というよりは、やり手の商人と言った方がしっくりくる。気品はあるが、王威はない。
「貴方なんて知りませんし、私は星の巫ではありません」
「それは残念です」
赤夜はわざとらしく首をすくめた。
「しかし貴女が認識していなくとも、貴女が当代の巫様だというのは避けられようのない事実です。でなければ炎の王の術式をあんなにも無制限に使えるはずがない。炎の王の術式を代償なしで扱えるのは、巫様だけに許された特権なんです」
確かにイシは清那のことを巫だと明言していたがそれがなんだと言うのだ。
「……私をどうするつもりですか」
震える声で清那が問うと、赤夜は間髪入れず流暢に答える。
「まずは黒狗の焼け跡に行ってもらいます。そこで法陣を起動していただく。あそこには先代の巫様……貴女のお母さまですね……が施した強力な罠がありますから、その発動をお願いしたいのです」
「お母さん……⁉」
「ええ。星南様のお母さま、星夏様です」
自分の生みの親の名前は、その通りセイカだった。この男、本当に母のことを知っているのか。
「なぜ」
動揺しているのが悟られないよう、落ち着きを払った声音で言った。
赤夜は清那の態度が気に入ったとでも言いたげに、満足そうに頬を釣り上げた。
「炎の王を捕らえるのです」
「炎の王?」
「貴女と一緒にいた有骨の鳥男ですよ。アレがこの国をこんな形にしてしまった。今度こそ、息の根を止めなければならない」
赤夜の笑顔は張り付いたまま動かない。上機嫌そうに見える顔のまま、残酷な選択を清那に迫っていた。
(高砂先生を、殺す?)
それは自分の役目ではない。血筋で決められていようと、今の自分には関係がない。
高砂を生かすためにここまで来たのだ。今ここで素性を知らない人間に殺せと言われても承諾する理由がない。
それに、清那は昨日あの場から、何の返事もせずに逃げたままだ。
自分の気持ちも定まらないまま。
高砂の、潤んだ瞳から。
「嫌だ、と言ったら」
赤夜はふん、と鼻で笑った。
「そんなこと言ってられませんよ」
幌の隙間から外を見やる。日よけの布は全面に貼られており、よく目を凝らすと何か呪術的な模様がそこかしこに書いてある。それこそ、彼が手に持つ黒い面と同じ系統のものだ。
「これから阿鼻土を通ります。その光景を見てから判断してください」
荷馬車はガタゴトと揺れていた。外の景色は見えないが、駱駝を使っていないあたりもう山岳地帯に入っているのだろう。
「阿鼻土に入るぞ!」
進行方向から叫ぶような声が聞こえた。
途端にぐわん、と頭を直接揺らされたような感覚に陥る。混乱している間に吐き気が胃の底からこみ上げてくる。辺りを漂う腐臭に息をするのがやっとだった。
「意識を強く保て!」
赤夜が声を張り上げた。
「星南様、これを」
差し出されたのは死体屋の黒い面だった。わけもわからないまま清那は受け取り、面をつける。
すう、と意識が軽くなった。
いつの間にか再び面を被った赤夜は、軟膏入れからねとっとした液体をひと匙掬い、面の隙間から清那の口に入れた。
「すみません、事前に伝えておけばよかったですね。これはペルセアの実とデーツ、フェンネルをすりつぶした気付け薬です。阿鼻土の侵食に効きます」
ねっとりした甘味と香辛料のすっとした香りで体に力が戻ってくる。
「ありがとうございます。だいぶ楽になりました」
「それは良かった。結界も軽く張り直しておきましたから、少し外を覗いてみましょうか」
赤夜は幌のカーテンを持ち上げて、ぐったりした清那に外を見せた。
見たこともない景色が、そこには広がっていた。
台地を割く渓谷は紫色に変色し、空は油と水をかき混ぜたような虹色に光っていた。
そしてなによりも驚くべきは、視界を囲む山よりも大きいかというような巨人が徘徊していたのだ。
巨人は半透明の黒い体に、赤夜と同じような大きな耳を持っていた。体は銀砂がきらめいており、夜空を切り取って集めたような印象を抱いた。
一番特徴的なのは、巨人には首がない。
巨人は何をするでもなく、ただ渓谷を渡っている。
「あれは」
赤夜はふるふると首を振った。
「私たちにもわかりません。ただ無貌の獣と呼んでいます。あの個体は比較的おとなしいですから、先ほど渡した面を付けていれば大丈夫です」
見るだけで嫌悪感を催す景色。
吐き気を誘う空気。
(これが、阿鼻土)
「兄貴、アイテルを!」
昨日の少年の声が聞こえた。
赤夜は幌のカーテンを全開にすると傍らの杖を持って身を乗り出した。清那もつられて外を見る。
幌馬車の後ろを護衛しているのだろう。昨日の少年が走る馬に跨っている。少年は後方から目を逸らさず背中の弓を手に取り、靫から抜いた矢を番えた。
その切っ先の向く方向。
夜の色をした顔のない野犬が、幌馬車を追ってきている。徘徊している巨人と同じものだ、と清那は直感的に感じ取った。
「承知しました」
赤夜は立ち上がり、杖を馬車の床にとんと叩きつけた。
馬車に施された模様に血がめぐるように、黄金に発光し始める。
「方陣接続。我こそは王、我こそは祭祀。臣下に恵みをもたらす者なり」
赤夜は目を閉じて呪文を唱えた。
「我は恵みを享受せし者。柩神よ、九の弓に砂を集め、嵐を起こせ」
少年が呼応するように唱えたその時、一陣の風が巻き起こり、番えた矢に旋風と砂が巻き付いた。
矢を引き絞り、狙いを定める。
わずかに空気を割く音がして、矢は野犬に突き刺さった。
野犬はとさり、と地面に倒れる。
少年は何も喋らず、弓を下ろし再び帯に差した。
「流石ですねえ黒! よっ、天下の王子様!」
「うるさい」
こちらを見るそぶりもない少年に対し、素直じゃないんですから、と赤夜は苦笑した。
そして少年と反対側にいる御者に向かって、指示を出す。
「人がいます。ここで止めてください」
その一声で、音も立てず馬車は止まった。
清那たちが馬車を降りると、草一本生えない道の端に人が転がっていた。
仰向けで倒れた人間の口からは吐しゃ物が吐きだされ、広がる血だまりは緑色に変色していた。
清那はその光景に思わず面の上から口を抑える。
(この緑色、オシさんの傷と同じ……)
「綺麗に死んでますね。さしずめ、宝石目当てで阿鼻土に入り込んだ商人といったところでしょうか」
顔色一つ変えず赤夜は言う。
「体が侵食されてる。荼毘に付そう。俺がやる」
同じく馬から降りてきた黒と呼ばれた少年が言う。
黒は腰に提げた油瓶を手に取り、死体全体に行き渡るように油をかけていく。
馬に縛り付けてある手斧を掲げる。彩色が細かく施された手斧の先端で、死体の口、目、耳、と触れ、呪文を唱える。
「御身の腑は夜の民によって洗われた。天空の扉は御身のために開かれている。星を散りばめた天空の扉は御身のために開かれている」
赤夜が黒に炎が宿ったランプと松明を渡す。炎は生きているかのようにうねり、赤と金に輝いていた。見ているだけで心が落ち着いていくような光だ。
黒は松明に火を移すと、死体に添えるように松明を置いた。
死体全体に火が拡がり、めらめらと燃え上がる。
「や……」
「驚いたでしょう。これは私たちなりの弔いなのですよ。アマニ油をかけ、聖火で死体を焼き清めるのです」
炎から目を逸らさず、赤夜は言う。
死体屋が死体を焼く理由は死者への侮辱などではないと、燃え盛る死体は告げていた。
「対策もせず阿鼻土に入ると、阿鼻土に侵食されます。侵食された体は苗床となりまた新たな阿鼻土を生む。聖火は侵食を清めてくれますから、弔いと実益を兼ね備えた葬送儀礼なのですよ」
赤夜は懐からまた黒い面を出した。
「その面……」
「魔除けの面です。顔のない化け物たちに対して顔をつけてあげる、という意味が込められております。こちらの九つの弓は阿鼻土を祓う魔具。阿鼻土で死ぬということは碌な最期ではありませんからね。せめてもの慰みです。しっかり焼けたらこれを被せて冥福を祈ります」
赤夜の声には確かに憐れみが滲んでいた。
「貴方たちは、照耀人が憎くて殺しているわけではないんですか」
儀式を終えたのだろう。白いローブを脱ぎながら黒が答える。
「二十年前に戦があったのは事実だ。そういう思想を持つ人間もざらにいる。だが今はただでさえ阿鼻土の侵食が早まっているんだ。人間同士で争っている場合じゃない。少なくとも俺は埋葬で忙しいからな」
死体屋は、巷で言うような暗殺者集団ばかりではない。
どちらかというと、死者に寄り添う送り人なのだ。清那が予想していた直感は当たっていたらしい。
「星南様は、炎の王とは何か知っていますか?」
「詳しくは知りません」
赤夜は面の奥でほほ笑み頷いた。
「あれは柩神です。柩神は砂漠に明かりをもたらしますが、一方で嵐と戦争を司る神なんです。炎の王……竜とは、柩神が悪に染まった時の呼び名。三百年前、国家転覆をはかった和隼が暴走させ、国土の南を砂塗れにし、阿鼻土を作り上げてしまいました」
赤夜の口が紡ぐのは、千夜国の人間から見たこの大地の歴史だった。
清那は身震いした。照耀国とは全く違う視点。違う事実。
ふと、体が軽くなるのを感じた。
地面に影が差したかと思うと、今までの奇怪な彩色は嘘だったかのように、晴れ渡った青い空と赤い山が視界に広がった。
「柩神の力の源は人の声です。人に認知され、語り継がれるほど強くなる。だから私たちは、竜の名が語り継がれぬよう、三百年間存在を抹消し続けた。時には非道なこともして」
竜という固有名詞が、誰の口にも上がらなかった理由。その歴史から人為的に消されていたのだ。
「でも、柩神って犬の頭をした墓守の神ですよね? 私が知っているものと随分違うような」
「柩神は千の顔を持つと言われています。色々な形でこの世界に現れるのです。その一つが、貴女のお連れ様ですよ。アレは照耀に盗まれた柩神の竜たる部分です。あらかた、照耀王家が竜の力を使おうとでもしたんでしょうね」
赤夜が面を外す。
日の下に晒された赤夜の顔は、葬送人に相応しい穏やかなものだった。
「古い伝説にはこうあります。
柩神は狂気の中に身を埋め、羽の生えた歪な竜の姿となり、国土を闇で包み込んだ。小麦色の髪を持つ星の巫がその命を剣舞にて眠らせ、永遠の夜に封じ、大地に平和が戻った。しかし三百年の後、再び星辰は重なり、封印は解かれるだろう。炎の王は復活し、竜は舞い戻り、小麦色の髪を持つ星の巫の力で再び闇は祓われる。
千夜国の王族の末裔には二つの民がいます。政治と軍事を司る夜の民、暦と祭祀を司る星の民。星の民は予言通り竜の秘密を守り、対抗できる巫を三百年かけて作り上げてきたのです。一代ごとに呪を重ねて刻印し、体自体がアイテルの起動装置になるよう仕込んできました」
赤夜が触れると、清那の腕がぽう、と光った。
青緑色の文字が体中に浮かび上がる。
アイテルの色。生命の色だ。
「王族の末裔は基本的に黒い髪の狗族しかいません。小麦色の髪の星南様がお生まれになったとき、予言は本当だと皆確信したんです。星南様の名前は、伝説に出てくる巫、秋星様の名前から取っています。秋星というのは南の魚の口の星、という意味ですからね」
こっくりとした青空を、白雲が流れていく。
雲があるということは、水があるということ。そういえば阿鼻土は威照川水源だったか。
清那は旅装束の胸元を掴んだ。
「私は、望まれて、生まれてきたんですか」
「当たり前です」
「戦や政治の道具としてではなく?」
その質問に、赤夜は眉を八の字にした。ぽりぽりと犬耳の後ろを掻く。
「……そういう面があったのは確かですが、少なくとも星夏様が貴女様を愛していたのは確かですよ。物心つくまで巫女としての修行はさせず、普通の女の子として育てる、といつも言っていましたから。星の民の長老たちからは渋い顔をされることすらありました」
「そう、なんですね」
(愛されてたんだ)
自分の生みの親を知っていて、話してくれる人がいた。砂漠を超えた先に、やっと掴むものがあった。
胸の奥がじんとして、目頭が熱くなる。
「黒狗の戦いは我ら千夜が起こしたものではありません。照耀王が自ら起こした内乱です。黒狗を拠点にしていた星の民は、あの戦いで皆殺しにされてしまいました。狂ったとしか言えないような蛮行の中、星南様が生き残ってくれたことはつまり予言の巫が生き残ってくれていたということ。炎の王……邪神を倒し、阿鼻土を食い止められるかもしれないということなんです」
赤夜の目にも、薄く涙が滲んでいた。
「星南様は、私たちの、希望なんです」
横でじっと聴いていた黒も無言で頷く。
目の前で死体が煌々と燃えている。
昼空の下のそれは、夜の明かりよりもずっと、あっけらかんと虚しく思えた。
C105でこの小説の製本版を頒布いたします。詳しくは作者のSNSをご確認ください。




