12
頬に当たる日射。焦げるような熱さで清那は目を覚ました。
「今何時ですか!」
叫びながら身を起こす。全身は滝のような汗でびっしょりと濡れており、白い服は肌に貼り付いて気持ちが悪い。
周囲を見回すと、荷物を片付けて出立の準備をしている高砂と、拙くも手伝うてとが視界に入る。
「おはよう。もう昼過ぎだよ」
「はよ! ますたー、おねぼう!」
「うう……おはようございます」
清那はふらつきながら日陰に移動し、近くの岩に腰を下ろした。
大体片付いたのか、高砂も隣に腰を下ろした。清那はなんとなく高砂の体を見回したが、尻尾も肌も黒くなっている兆候はない。とりあえず一安心というところか。
「随分眠っていたな。気持ちよさそうにいびきまでかいて、岩の上で寝ているとは思えない寝つきだったぞ」
「そ、そんなことわざわざ言わないでください!」
高砂はいつもの肩掛け鞄から、包み紙で巻かれたエイシ(平たい堅焼きパン)を取り出して清那に手渡した。あんなに余裕がなかったのに食糧まで鞄から出てくるとなると、常に携帯しているのだろう。
かじりながら、貴重な水で喉を潤す。
砂漠の空の青は、深い。
からりとした風が衣を巻き上げていく。地平線まで続く砂の海にため息をつく。
「変な夢、見ちゃって」
「夢?」
「あれは……千夜の都なのかな。高い塔の書庫で、高砂先生によく似た少年と話してました」
書架の塔、だったか。白い塔の先が半円になっているものだった。屋根は青いタイルで、白冠でもあんなに豪華な装飾で飾り付けられた塔は見たことがない。白冠が金の都だとしたら、あの夢の中の都は銀の都であった。
高砂は顎に手を当てると静かに考え込む。その動作まで、夢の中のあの少年と重なる。それこそあの少年が数年時を重ねたら、高砂になってしまうんじゃなかろうか。
「清那君、昨日アイテルを使ったな」
「ええ、まあ」
「アイテルに接続すると、そこに堆積した記憶がフラッシュバックすることがあると聞いたことがある。その一種だろう」
「そう、なんですかね」
この記憶も太陽の舟に堆積していたものなのだろうか。それにしては自分と直接繋がっているような、奇妙な親しさがある夢だった。どこか郷愁に近いような。細部まで覚えているわけではないが、あたたかな夢ではあった気がする。
(それに、あれは……)
明らかに清那と高砂だった。外見や年齢に違いはあれど、受け答えがあまりにも似過ぎている。
なんといっても、その魂が。
高い塔に千夜国と来れば、魔術発動時に見た高楼も当てはまりそうなものだが、あれとは少し雰囲気が違っていたのも気になる。
「夢は記憶の整理のために見るという説もある。どちらにしろ、今悩むことじゃないよ」
高砂は膝の上に紙を広げて何か書きつけている。
「そうですね……」
清那はエイシの最後のかけらを水で流し込んだ。
「これからどうしましょうか、振り出しに戻るどころか、ここがどこかもわかりませんし……」
空に向かって伸びをする。地面で寝ていたせいかぼきぼきと肩が鳴る。清那はぐるぐると腕を回した。
「太陽の位置から推測するに、白冠から南下しているようだな。視界に何も建物がないとなると、正確な位置はわからないが」
どうやら膝元の紙で現在地を計算していたらしい。清那にはよくわからない数式が書き連ねてあった。
「いずれにせよ、白冠に戻れない以上目的地は決まっているだろう。最優先は黒狗だ」
「それは確かにそうですが」
いくら白冠から南下したとはいえ、南の果ては遠すぎる。私たちの求める真実が黒狗にあるとて、道中で力尽きたらどうしようもないのだ。
「そこでだ。てと、頼み事がある」
「ん!」
視界の隅でしんと座り込んでいたてとが跳ねた。もっともその体は金色の刺繍が入った黒い布で覆われているため、座り込んでいたという表現が正しいかはわからないのだが。唯一見えている足も包帯でぐるぐる巻きになっている。
「黒狗の街の跡まで飛べないか」
その言葉に、猫の仮面がわなわなと震え出した。まるで考え込んでいるように傾く。
「いな……いな、いな」
表情がないのに、顔を曇らせているのがわかる声音だった。
「てと、ばってりない、とぶ、じゅでんつかう、ねこづかない、じゅでん、できない……」
てとは肩を落とし面を伏せた。
この仮面、どこかで見たことがあると思っていたが、バザールの猫塚の像ではないか。買い出しの時に出会った壊れかけた像の顔にそっくりなのだ。割れた破片を乗せたあの猫が恩返しに来たなんて、それこそおとぎ話のような話だが。
「どういうこと?」
清那は屈んで、てとに目線を合わせる。
てとがどう答えるか悩むようにまごついていると、高砂が代わりに言葉を飛ばしてくる。
「要するに体力が残っていないんだな。猫塚で休めば回復するがそれもどこにあるかわからないと」
「ん! そゆこと!」
てとはぶんぶんと首を縦に振った。
「なんでわかるんですか」
「なんとなく」
なんでもない風に答える。
この男、必要がないから言ってないだけで実は千夜の文字を読めたりするんじゃないだろうか。
「じゃあ、プランBだな。歩いて黒狗に行こう」
「お金もない状態でどうやって行くんですか」
「日銭を稼ぐ方法なら考えてある」
「え?」
いくら高砂の用意が良いとて、今の清那たちは間違いなく身一つである。砂漠探索に自分たちの学術知識が役に立つとは到底思えない。
「あるだろう? 俺たちの体さえあればできる商売が」
高砂は青空を背にして不敵にほほ笑んだ。
卓を寄せて広間を作っただけの簡易的な舞台に、かかとを打ち付ける。
松明の光が汗ばむ肌に反射する。鼓動を刻むように正確に打たれる太鼓の音に体を預ける。
音楽はない。衣装だって数日前に丁度会ったキャラバンから分けてもらったありあわせのものだった。しかし、それで十分。今の清那たちにそれ以上のものは要らない。
清那と高砂が踊れば、粗末な舞台は炎の王の居城になる。
安い衣は豪奢な絹織物になる。
やがて、てとの叩く太鼓の音が止む。
動から静へ。自分の体の支配方法を転換していく。
指先に力を入れる。完全な静止とは、やはり力を入れることでしかなされない。
息を、止める。
ひとつ、ふたつ。暗がりから拍手の音が響き、それは威照河の流れのようにこの小さな酒場全体を包み込んでいく。
張り詰めた糸を緩ませるように、その支配を完全に解いた。
「ありがとうございました!」
お辞儀をすると、拍手の音は一層大きくなった。
ちらりと横を見る。
高砂も、上がった息を整えながら礼をしていた。
舞台だった床にはテーブルと椅子が戻され、砂漠の真ん中の酒場は日常を取り戻した。あの熱狂はどこへやら、客たちは各々の卓で賑わい始めた。
旅装に戻った清那と高砂は、柄も装飾もない素焼きの土器で出されたビールを一気に飲み干した。やはり踊るとそれだけ水分が失われる。
「まさか自分が流浪の芸人になるだなんて、思っていませんでした」
空になった杯を覗き込みながら清那は言った。
一生白冠から出ることはないと思い込んでいた。それこそ、踊り子たちの裏方で一生を終えるのが妥当だと。
「夢だったんですよね、砂漠を旅しながら踊るの」
天狼座の公演の中には、国の王子が旅暮らしの踊り子と恋に落ち、冒険の旅に出るなんてものもある。鳥かごの中から出るというのはありふれた題材だった。清那も幼いころは憧れたものである。いつの日かそんな夢は遠い存在だと気づいたが。
「君の実家は隊商宿だろう? 行こうと思えば行けたんじゃないのか」
軽々しく言う高砂に、清那は眉を下げて首を横に振る。
「あの過保護な親父がそれを許してくれると思います?」
高砂はああ……、と納得したように声を漏らした。暑苦しい父がいるのは高砂も知るところだった。
「ほいよ、コシャリお待ち」
卓の中央に大皿が舞い降りてきた。
コシャリとは米とショートパスタを炊き込んだものにトマトで煮込んだ川魚のソースをかけた料理だ。少しの量でかなりの満腹感があるので、ガッツリ食べたいときに重宝する。
「ありがとうございます!」
トマトソースの酸っぱい香りと、穀物の柔らかな香ばしさが清那の鼻腔を満たす。赤い山から小皿に移し替え、意気揚々と匙を突き刺し口の中に放り込んだ。
「ん~! おいしい!」
口内に魚の旨味と強い香辛料の香りが充満する。ここの酒場は言っても内陸なため、味には期待していなかったのだが、いい店を引き当てたようだ。
「嬢ちゃんたち、この先はどこに行くんだい?」
旅芸人は珍しいのだろう。恰幅の良い店主は、清那たちにしきりに話しかけてきた。高砂は好機とばかりに目を輝かせ、公演の交渉するときなどは、普段よりも三倍くらい良く回る口を動かしながら手許の紙束にメモを取っていた。研究手法としてまずは料理屋の店主と仲良くなって話者を拡げていくのが王道だ、とかなんとか言っていたが、本当に懲りない男である。
「南方砂漠へ。生まれは白冠なんですが、私の親戚が南の方で」
「南方って言うと、阿鼻土の方かい?」
「あびど?」
知らない単語だった。どう反応したものか目を泳がせていると、黙々と匙を進めていた高砂が口を開いた。
「南方砂漠の渓谷のことだ。威照河の水源で、千夜国の都、赤冠があったと言われているな。正確な場所はわからないが」
そういえば南方砂漠について何も知らないな、と思った。主要な貿易路でもない限り、そもそも知識として入って来ないのだ。白冠にいるとその街の中で一生が終えられるような構造になっているのだと改めて感じる。
「気をつけな。阿鼻土にゃ死体屋が出るぜ」
店主はつるりとした頭を撫でて言う。カバの耳があるあたりだけ毛が生えているのがなんだかキャラクターじみていて逆に愛想がある。
「死体屋?」
「なんだい知らねえのか。死体屋ってのは暗殺者集団だよ。暗がりで照耀の人間を襲うんだ。噂じゃ照耀王家に恨みを持つ千夜国の生き残りだって話だぜ」
「千夜国の、生き残り……」
もしその噂が本当だとしたら、黒狗の戦いの謎に直接関わっている可能性がある人間たちではないか。清那はいきなり提示された手掛かりに、自ずと目を輝かせてしまった。
「興味あんのかい」
店主は眉をひそめた。
「あ、えっと。踊りの題材になるかなって思って」
自分でも苦しい言い訳だった。幸いなことに、店主は細かいことは気にせず、慌てて制止してくる。
「ダメダメ! 題材だかなんだかわかんねえけどさ、殺されたら踊れなくなっちゃうぜ」
「そうですよね」
思わず清那は苦笑いになってしまった。これでは高砂の無鉄砲を咎める権利がないではないか。
「まあ、嬢ちゃんなら平気だと思うがな。危ないのは兄ちゃんの方だ」
その言葉の裏を読んだのだろう。高砂は謎かけのように答えた。
「やはり鳥は嫌われていますか」
「察しがいいね。そうだ、死体屋は鳥族を狙う。人種なんて、殺しの大義名分にゃならねえのにな」
そう零す店主の声は、少しだけ震えていた。




