10
むき出しの土壁を縫うように、ぬるい風が吹いている。
てっきり地下牢は迷路のようになっていると思っていたが、造り自体は簡単で初めてここに来た人間でもすぐに把握できるような構造をしていた。碁盤の目のような通路に、人間を収容するにはいささか広すぎるがらんとした牢屋が並んでいる。どの部屋も使用されておらず、人気はない。
時々視界を掠める守衛の目を潜り抜け、清那は裸足で駆ける。罪人は通常、貧民街の端にある拘置所に収監される。王宮地下の牢にはそもそも人がいないので、見張りも必要がないのだろう。
奥にひとつだけ、松明の照らす牢があった。
清那は柱の影から、目を細めて牢を見据える。
格子の奥に、半分黒い化け物と化した男が身を横たえている。四肢は壁から伸びる鎖にだらりと釣られており、白髪はカラカラに乾いて垂れていた。
背中からは、ところどころ鱗の混じった赤い鳥の翼が生えている。
(先生!)
幸い見張りは留守のようだ。周囲を見回しながら、恐る恐る格子に近づいた。
一番大きなカギを錠前に差す。震える手で開錠する。
カチャンという小さな金属音で扉が開いた。
「……清那君?」
気づいたのか、高砂は力なく目線だけよこした。
「迎えに来ました」
音が立たないよう細心の注意で牢の扉を閉め、高砂に駆け寄った。小さい方の鍵を使い、四肢の錠も開けていく。
一心不乱に手を動かす清那に、高砂は戸惑いながら言う。
「なぜ、そんなことを……俺には、清那君に助けてもらうような、価値は……」
切れた唇から、呻くように言葉が漏れる。
「馬鹿! あほ! 先生のあんぽんたん!」
清那が小声で叫ぶと、高砂は珍しくしばし呆けた顔をした。
手枷が地面に落ちる。
「先生には価値があります! モノの価値は自分で付けろって教えてくれたのは先生じゃないですか。私は、先生のことを、命を賭けるに値する存在だと思っています。それを貶す者が先生自身だとしても、その価値を信じ抜きます」
清那は肩を掴んだ。高砂の四肢にはもう、つなぎとめるものはなくなっていた。
「だから、先生も、自分に価値をつけてあげてください。高砂という人間は、肩書や生い立ち以前に、それだけで唯一無二の存在だと」
高砂はしばしぽかんと口を開けていたが、やがてこらえきれないというように口元を歪ませた。
「……はは」
その能面が、くしゃくしゃに崩れる。
「やっぱり、教職なんて受けなきゃよかったな」
「またそれですか。いい加減怒りますよ」
「ふん。どうせここで抗っても、ひとりで逝かせてくれないんだろう」
「当たり前です」
「……そうか、そうだな」
高砂は額に手を当てて天を仰いだ。
清那には見えた。その頬を涙が伝い、鱗に覆われた肌に落ちていくのを。
「ありがとう」
「どういたしまして」
肩を掴んでいた手を離し、褐色の頬に親指を滑らせて涙を拭った。
その時だった。
清那の大きな犬耳が、敏感に音を拾った。
ザッ、ザッと足音が近づいてくる。
明らかに一つではない。規律正しい足音はよく訓練された軍隊のそれ。
清那は急いで振り向き、格子の外を睨んだ。
「感動の再会のところ、お邪魔してすみません」
想定した通りの人物が、そこにいた。
「隼人将軍……」
穢れのない白い外套を纏った、隼が牢の前に立っている。その後ろには甲冑姿の兵が控え槌矛を構えていた。連れているのは三人だけだが、一糸乱れぬその姿はこの国の精鋭を終結させたと一般人でもわかるほど。
精緻に整った微笑が、松明の炎に照らされる。
「ふふ。あなたたちが価値のないものに価値を見出すのと同じように、僕は価値のあるものを否定しましょう。だってそれが、自分自身で価値を決めるということでしょう?」
隼人は、武器でも取り出すのだろう、左手を懐に入れた。
清那は高砂を庇うように前に立つと、手を掲げる。
「先生、伏せていてください。炎の王の名のもとに……」
瞳を閉じ、詠唱を始めたその時だった。
「おっと、ここは火気厳禁ですよ。これがなんだかわかりますか?」
隼人は外套の下から何かを取り出した。その片腕に、筒状の物体が握られている。パピルスで丁寧に巻かれた筒の先からは、縄が飛び出ている。縄は隼人の手を離れ、廊下の先に伸びているようだ。
高砂は目を見張った。
「清那君、やめろ! あれはダイナマイトだ!」
「だいな……?」
聞きなれない単語に戸惑っていると、隼人はふふふ、と薄く笑った。
「流石お兄様。まだ生み出されたばかり道具の正体を知っているとは。まるで人類史を一通り見てきたかのようですね。これはアイテルを使うものなので、従来品とは原理が違いますが効能は同じです。ならばわかりますよね、これからどうなるか」
その繊細な指が、筒を撫でる。
「どうもこの道具が生み出された国では、竜を殺すために使われているらしいですね。この間の軍事演習でも使用したんですが、一瞬で建物が破壊できました。これを人間に使ったらどうなるでしょうね」
「やめろ!」
高砂が吠えると、背中の羽が一層大きくなった。その反動で肌にヒビが走る。
「うっ……」
額から汗が噴き出している。無理に体を動かしたのがよくなかったのだろう。立ち上がろうとしたその体勢のまま、地面に倒れた。
なにが面白いのか、隼人は声を上げて笑った。
「ははは! 哀れですね。せっかくその踊り子が価値を付けてくれた命を投げ出すだなんて。まあ、それがこの国を間接的に守ることに繋がるんだから、そういう価値があるということでしょう」
白い隼は、ひとつ、深呼吸をした。
「太陽神の名の下に宣う。我は偉大なる王の僕。隼の目を持ち、日ごとに昇る天恵を司る者。神殿より黄金の葦原に接続。顕現せよ、ヘル・セマァウ!」
隼人の漆黒の両目が、金と銀に染まる。空気中を霧散する金色の光が、隼人に集まってくる。
手が震える。
清那にはなにもできなかった。星読みの力は使えるが、それを行使するための知識が圧倒的に足りていなかった。追い詰められたこの状況で、どの術式を用いれば隼人を止められるのか、見当がつかなかった。
(ここまでだと、いうの……)
ふと、視界の隅を、影が走る。
「えっ?」
鼠かと思った瞬間、それは天井から隼人に向けて小柄な身を落とした。
「やめーーーーーッ!」
隼人の手に電撃が迸る。
稲妻が、部屋中に華を咲かせた。
隼人は思わず手を振り払った。筒はその片手を離れ、清那たちと反対方向に転がる。
「何⁉」
隼人は悲痛ささえ滲む叫びを上げた。痛むだろう左手を庇う右手もないので、腹をおさえつけるように左拳を握っている。
「めっ!」
清那たちを護るように立ちはだかったのは、猫の面をつけた小さな子供だった。
真っ黒な外套は薄汚れていまにもボロボロに崩れ落ちそうだった。その傷だらけの素足には奴隷についているような鎖の伸びる足枷が嵌っている。
(もしかして、この子が、明星先生が言っていた謎の墓泥棒⁉︎)
王子様の美しい顔が、醜悪に歪む。
「小賢しい。こんなモノまで出張ってくるとは! 井威! スペアを!」
「はっ!」
井威と呼ばれた兵は、身を翻して廊下の奥に消えていく。
猫面の子供は、くぐもった声で、されど高らかに言葉を発する。
「ますたー! あるじ! てを、つかんで!」
「ますたー? 私⁉」
「そ!」
「なぜ……」
高砂は玉のような汗が伝う顔で、縋るように猫の面を見た。
「てと、ますたーまもる! あるじのおーだー! したがう!」
猫面の表情はわからない。しかしその声は嬉しさで震えているようだと清那は思った。使命を遂行するのが、喜びとでもいうような。
清那と高砂は、泥で汚れた赤子のようなその手を握りしめた。骨ばっているのにぐにゅぐにゅとしていて不思議な感触だった。なぜか冷たくて、本来あるはずの温もりもない。
「あるじ、ますたー、飛ぶよ!」
飛ぶって何? と疑問に思う間もなかった。
ブウン、と蠅が舞うような音が聞こえる。
頭上が崩れ落ちたかと思うと、次の瞬間には視界が白転した。
「へ?」
体に重力がかかった束の間、瞳に映ったのは抜けるような青い空。
つなぎとめるのは細い腕一本。足はぷらぷらと浮いている。
清那は唾を飲み込んだ。
信じられない気持ちで、下を見る。
赤い砂漠を切り裂く、蛇行する黒い大河。
河に寄り添うように点在する農地と、城壁で仕切られた円形の街。
一寸も乱れがない、正四角錐の墓たち。
「はあ⁉」
いつの間にか三人は、遥か空中から白冠を見下ろしていた。
何度か逡巡して、自分の今いる場所をやっと実感する。
「い、いやああああ! 落ちる落ちる落ちるぅ!」
急に悪寒が走る。高いところが苦手なわけではないが、流石に地面から離れていると思うと臀部の辺りがスースーする。なんとかバランスを取ろうと、ぶんぶんと尻尾を振った。
「おちない! あんてい、てとのいいとこ! げんごもじゅよわめ、でも、じょうぶ!」
猫面は自信満々に答えた。
高砂はじっと、猫面を見つめる。
「お前、千夜の機械人形か?」
釣られているにも関わらず、涼しい顔で高砂は質問する。背中の赤い羽根が強風に揺れている。
「あるじ、そのいいかた、いや! てとはてと! それが、なまえ!」
「否定しないということはそうなんだな……動いてるの初めて見たな……」
そう言いながらいつものように顎に手を当てて思考の海に沈もうとしたので、清那は信じられなくて腹の底から声を出した。
「なんで冷静なんですかああああ!」
清那の叫びは、風に乗り蒼穹に消えていった。
□
静まり返った空の牢の前で、隼が立ち尽くしている。
「将軍、みすみす逃してよかったんですか」
脇にいた兵のひとりが問うた。投げかけた兵も愚問だとはわかっていたが、問わずにはいられなかった。彼のよく知る隼人という男は、誰よりも執念深く誰よりも完璧主義だったから、今回のような事態に陥ったときに行動を取らないなんて信じられなかったのだ。
「は、ははは!」
将軍は突然、腹を抱えて笑い出した。
がらんとした石室に、笑い声が反響する。
流石の奇行に、控えていた兵全員がぎょっとして隼人を見る。本人は構わず笑い続けている。その姿は狂気じみてすらいた。
兵たちの存在など忘れてしまったのだろう。取りつかれたように空中に向かって喋りだす。
「やはりそういう星の導きなのでしょうね。貴女には全部見えていたのですか? かの王の復活も、蒔いた種が実を結ぶのも」
そして隼人は急に真面目な顔になると、民謡にしか名の残っていない、亡国の姫の名を確かに唇に乗せた。
「そうなんでしょう、来楽姫」
その金と銀の瞳は、はるか空の上の、見えない星を見据えていた。
□
白冠から遠く離れた岩山の影に、清那たちは不時着した。猫面の機械人形、てとはぴょんぴょんと飛び回り岩山を一周すると、清那たちのところに戻ってきて、やはり自信満々に告げる。
「しゅういにてきなし! やすんで! てと、みはってる!」
「ありがとう!」
「ん!」
お礼を告げるとちぎれんばかりに首を振り、贈り物をもらった子供のように飛び跳ねながらまた岩山の上に登って行った。
いつの間にか、夕暮れになっていた。砂漠を焼く陽光は、橙から紫への美しいグラデーションを形成し、太陽の船を夜へと進めている。視界に街はなく、当然人も動物もいなかった。
やはり無理をしていたのだろう。糸が切れたようにぐったりとした高砂を、岩にもたれさせるように座らせる。
清那は鞄を探って、緑色の液体を取り出した。
薄汚れた着物の襟を落とす。とろりとした液体を手のひらに広げ、鱗の生えた患部に薬を塗り込んでいく。夕闇に発光する緑色は溶けるように体に染み込む。
みるみるうちに鱗はなりを潜め、背中に生えた両翼も小さくなっていった。
苦しそうに吐いていた息が、整う。
数刻も経たずに、いつもの高砂の姿に戻った。半分化け物になっていたのが嘘だったかのように。
いてもたってもいられなかった。清那は高砂の胸に飛び込んだ。
(高砂先生が、生きてる。生きて、ここにいる)
目蓋に熱いものがこみあげてくる。ずっと緊張していた心がほどけて、自然と口が緩む。
その広い胸に、顔を押し付けた。
「清那君?」
頭上から戸惑う高砂の声が降ってくる。
「先生が生きてて、よかったあ……」
高砂は呆れるようにため息をひとつ吐くと、清那を抱きしめ返した。
「……清那君が生きていて、よかった」
まさか同じ言葉が返ってくるとは思わなくて、ふと高砂の顔を覗き込む。
その口の端は、柔らかく上がっている。
「ここまで大変だっただろう」
「えへへ、高砂先生が生きているのなら、大した障害じゃないです」
清那はへにゃりと笑った。
高砂もつられて、ふ、と笑う。
「ほだされている、か」
大きな手が、再び清那を包み込んだ。
胸に押し付けた耳に、乾いた鼓動の音が入り込んでくる。確かに生きているという、循環と濁流の音。
首元に添えられた手のひらは、不器用に硬くて、温かくて。
(ああ、これか)
すとんと腑に落ちた。炎の王の、あの火に触れた時の温度。あの時はなんだかわからなかったが、今となっては簡単なことだ。高砂の体温と同じなのだ。それがなぜかはわからない。わからないが、なぜか清那には一番しっくりくる回答だった。
ひどく優しい炎だ、と清那は思った。
それはキャラバンを照らす焚火の炎に似ていた。人のぬくもり、人の匂い。その中心にあるもの。
高砂は、ささやくように呟いた。
「存外、悪くないものだな」
暮れなずむ空に、一番星が瞬いていた。




