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砂の王と千夜の唄  作者: 回向田よぱち
第一夜 地の色は黒
1/22

 女が一人、黄金の砂原を渡っている。

 真昼の日光が地に乱反射する。襤褸(ぼろ)ですっぽり覆った体を駱駝に乗せて、まっさらな砂漠に蹄の跡を残していく。

 砂を含んだ風が、小麦色の前髪を巻き上げる。

 フードから尖った山犬の耳がはみ出した。細く白い腕を伸ばし、慌てて被り直す。一瞬白日の下に晒された顔はいかにも強情そうな、目鼻立ちのはっきりしたもの。きっちり編み込んだ髪をバンダナの中に隠しており、一見すると利発な少年のようだった。

 女は清那(せな)という。この熱砂の国ではあまりにもありふれた名だ。

 清那は天を仰いだ。緑の瞳に映るのは、あっけらかんとした晴天。まるで雲の存在など忘れてしまったかのような、嘘のように鮮やかな青。

 視界に映る範囲には、駱駝と自分しかいない。

 雄大な大自然を前に清那の胸にこみあげてきたのは、からからに乾いた悔しさだった。

 涙をこらえて、皮がむけた唇を噛む。

 駱駝の手綱を握る手が汗で滲む。目に砂礫が入って、針で刺すような痛みを感じる。容赦のない日射はフードを貫通して清那の頭を焼く。

 思い切り叫びたかったが、声を出すだけで体力が失われるのはわかっていたので、今は駱駝に必死にしがみついているしかなかった。手持ちの水だって、もう少ない。目的地である小さなオアシスの村まで、まだ距離があった。

 灼熱の日中に移動するのは砂漠を知らぬ愚者のやることだ。昼は体力の消耗が激しいので、通常は涼しい夕方から夜に移動する。

 しかし、清那はどうしても今日中に目的地につく必要があった。

(また移動されたら、たまったもんじゃない)

 相手の足は速い。砂漠の街から街へ、都市から村へ。それこそ間者なのかと見紛う速度で渡るのだ。駱駝を借りるのだけでも時間と金がかかるのに、その活力はどこから来ているのか。

 しかも相手は戦士でも肉体労働者でもない、ただの学者だ。

 何が悲しくて砂漠の果てまで会ったこともない学者を探しに行くのか。その理由が頭を過り、清那はまた憂鬱な気持ちになった。

 考えたってどうにもならない。今は大地を踏みしめて、着実に歩み続けるしかない。

 清那は覚悟を決めて、唾を飲み込んだ。

 砂丘を削り上げて、一陣の風が吹く。

 蹄の跡が、熱風と共に消え去っていく。

 舞い踊る砂塵は、紺碧の空をも灰色に染める。

 思わず目を細める。

 フードの中に風が入り、大きな耳がぱたぱたと靡いた。

 待ち受けるのは、痛みと苦しみ。

(それでも私は、負けるわけにはいかない)

 こんなところで、研究を止めたくはない。

 私はまだ、故郷のことを何も知らないのだ。



 話は数日前に遡る。

「担当教員の変更?」

 卒業論文の執筆も中盤に差し掛かった頃だった。丁度論旨が迷走して沼にはまっていた清那には、最悪な申し出だった。

 昼下がりの研究室。格子状に彫られたアーチ窓から、きらきらと日光が射し込んでいる。壁面には本棚が張り付いており、数多の研究書が並んでいる。

 ビロードのソファに姿勢正しく座った清那の前で、卒論担当教諭の明星(みょうじょう)は肩を落とした。

「君の研究は僕の分野じゃ補完できない。歴史学ではあるけれど、王統の書記には関係がないだろう。だから、専門の先生に就いたほうがいいんじゃないかと判断してね」

 明星は黒い巻き髪をがしがし掻いた。悩んでいる時の彼の癖だ。彫りが深く整った顔立ちにきちんとした貴公子風なのに、少しずぼらなところが愛嬌になり、数少ない女子生徒から人気がある先生だった。

 彼の耳の後ろからは白黒まだらの隼の羽が生えている。耳と尾の羽は鳥族の特徴だ。この国の貴族は鳥族が大半を占めていて、明星もそれに漏れない。

 確かに清那の研究は行き詰まっているが、それが急に担当が変わる理由たり得るのか。それに、明星の挙動は明らかに不審で、後ろめたさを感じる。

「理由、それだけじゃないんでしょう?」

 鎌をかけると、明星はあからさまに苦虫を噛み潰したような顔をした。眉間を二つ指で揉み、ため息をつく。

「流石察しが良いね。王族の縁者が飛び入りで入ってくると聞いて断れなかったんだよ。教室の定員は決まっているし、王に盾突けないだろう。それに」

 一拍置いた後、確かな口調で言う。

「清那さんは女の子だ。僕みたいな書記官養成教師の下に就かなくてもいいだろう」

「そう、ですね……」

 今の発言に悪意がないのはわかっている。

 しかし、学問は男のするものだ。

 建国以来初の女王隼南(じゅんな)王の戴冠に際し、照耀(しょうよう)国の最高学府であるこの朱鷺(とき)書院では、試験的に女学生の募集を開始した。

 当初こそ革新的な試みとして評価されていた制度だったが、実際に入り込めば知識階級特有の女性軽視が蔓延り、論文ひとつまともにとりあってもらえない。女性は結婚して男性を支えるもの、という価値観は岩石のように固く、一朝一夕で砕けるものではなかった。

 しかも、清那が専攻する歴史学は、基本的には王の功績を記す歴史書記官を育てるためのものだ。歴史書記官は神殿に所属して働く神聖な職業であるため、女がなることは許されない。つまりコネを張り巡らせて教職を勝ち取らない限り、卒業と同時に歴史と関わることすら許されなくなるのである。

 学者と見做されず、生涯をかけて学ぶことすら許されず、果てはたらい回しにされ。

 それでも清那は、歴史を学びたかった。

 夜の闇に溶けたあの国のことを知りたかった。

 明星は申し訳なさそうに眉を寄せながら、卓に書類を拡げていく。

「まあ僕から離れたとて、歴史学から離れるわけじゃない。そんなに気落ちしなくても大丈夫だよ。はい、これ委任状。新しい先生は捕まりにくい人だから直接渡してもらえると助かる」

 面白みのない封筒が清那に突き付けられる。軽く見分し、おずおずと受け取る。

「教師間での引き継ぎはないんですか?」

「それは無理だなあ。担当生徒がいないことをいいことに、研究という名目で国中を歩き回っているんだよね。なんというか、自由なんだよ高砂(たかさご)先生は」

「たかさご先生……?」

 聞いたことのない名前だった。明星は察したのか、すぐ答えを返してくる。

「今年教授職に就任した、新米の先生だよ。気難しい人だが、研究の腕は確かだ。なにせ飛び級して一年で卒業して、さっさと教授になった鬼才だからね。まあ……あの性格な上あまりにも突飛な論文を書くんで、古い学者陣からは白い目で見られているけれど」

 明星は髭のない顎を擦った。

 いくら鬼才とはいえ、気難しくて自分勝手だなんて先が思いやられる。明星は特に気さくな方だったので女だからと論文が突っ返されることはなかったが、今度こそは覚悟しておいた方がいいかもしれない。

「わかりました。善処します」

 思わず硬い口調になったのが伝わったのか、明星は柔らかく破顔した。

「そう気負わないで。個人的な話をするとね。僕は高砂先生のことを気に入っているんだ。直接の後輩で可愛がっていたのもあるけど、それ以上にさ」

 ふと顔を上げ、籠に囚われた鳥が外の世界に焦がれるように、窓の外に視線をずらした。

「研究者として美しいんだ。その意味では、清那さんと似ているかもしれないな」

 彼の視線の先には王都白冠の街が広がっており、街を抜けた先には収穫済みの麦畑を横切るように威照河が悠々と流れている。もうすぐ増水期だ。みるみるうちに水位が上がるだろう。

 その遥か彼方。うっすら見えるのは、金色の砂漠。

「仰っている意味がわからないんですが……」

「権力にも因習にも囚われず、存在しないものの歴史を真実にする、そんな芸当は彼しかできない」

 明星は人懐こい目を細めた。

「清那さんは、彼を気にいると思うな」



 明星によると、高砂は西方砂漠に行くとだけ伝えて大学を去っていったらしい。

 清那は高砂の特徴を聞き出し、伝手を頼りに都じゅうの隊商を回った。王都である白冠は内戦後の復興に乗じて貿易が盛んになっており、彼が城壁を出た手段を探すだけでも一苦労である。

 一日走り回って、やっとのことで彼が駱駝を借りた隊商を見つけた。この時ばかりは、実家が砂漠を中心とした隊商宿なのが幸いした。娘を目に入れても痛くないと豪語する父親を利用するのは気が引けたのだがしょうがない。

 それからは隊商から隊商へ、彼が乗り継いだ順路を辿った。どうやら彼の目的地は都市ですらないようで、馬宿の主の口から出た名は聞いたこともない砂漠の村の名だった。

 王都を出てから、五日ほど経った。

 目的の村から半刻ほど歩いた荒地に、清那は立っている。

 西日の注ぐ砂丘に、石塔が林立している。

 石塔は四角柱の先が錐になっていて、古い言葉でオベリスクとも言われるものだ。柱の側面には絵や文字が彫ってあるが、なにせ三百年以上前に滅びた王国の遺産である。読める学者はそういないし、そもそも彼の国はよっぽど出世に興味がない研究者でない限り研究対象にされない。同じような石塔は王都の神殿にもあるが、あれは照耀国の神聖文字で刻まれている。

 清那は二列に整列された石塔を見上げた。上まで見上げたら後ろにひっくり返ってしまいそうなほど高い。

 夕焼けで橙色に染まる地面に、石塔が黒く長い影を残している。

 改めて遠くへ来たことを実感する。清那は幼いころに王都に移住して以来、大河を擁する都から遠く離れたことはなかった。

 石塔の文字を指でなぞる。何の皮肉か、この文字を刻んだ国は、清那の研究対象だった。

 村の住人によると、石塔群に高砂はいるとのことだった。しかし、よく目を凝らしても、見渡せる場所には人っ子ひとりいない。また高速移動でもしたのだろうか。

 ため息をついた、その時だった。

 ずぼ、という音を立てて、隣の石塔の麓に砂塵が巻き上がった。

 ちょうど人が落ちた時のような。

「ひっ」

 清那は驚き、毛を逆立てて尻尾を高く上げた。煙たさに咳をしながら恐る恐る近づく。

 霧散した砂塵の中には、男が一人仰向けで倒れていた。齢二十一の清那より数歳年上だろうか。ボロボロの外套から突き出した筋肉質な腕には傷が走っている。落ちた衝撃で負ったらしい。

「大丈夫ですか!?」

 清那は半ば叫びながら駆け寄った。

 男はなんとでもないというように、背中から勢いよく身を起こす。

「……ああ、なるほど。やはり黒はただ単に死というわけではなく……」

 ところどころ滲んだ血もお構いなしに、何やらぶつぶつとつぶやいている。どうやら至近距離で屈む清那に気づいていないらしい。

「あの……」

「これは発見だ。俺の理論は間違っていなかった」

 男は飛ぶように立ち上がると、宙に向かって言った。まるで自分自身に語り掛けているようだった。一言、一言感触を確かめるように発し、喋るというよりかは語りという感がある。身軽な肩掛け鞄から紙の束、携帯用の墨と羽を取り出して、なにやら書きつけ始める。間違いなく男の世界に清那はいない。

 しびれを切らして、男に向かって声を荒らげる。

「あの!」

 やっと視界に入ったのだろう。男は少し眉間を寄せて清那を睨んだ。

「なんだ君は。静かにしてもらえないか。考えていたことを忘れる」

「心配して話しかけたんですが」

「それはすまなかった。別に心配には及ばないよ」

 そう言って、そそくさと荷物を片付けようとする。

「血が出てますよ」

「舐めときゃ治る」

「駄目です! 半端に治療すると化膿します。大体、石塔に登るだなんて、何を考えているんですか」

「黒は死の色かと思っていたんだ」

 男は、目の色を変えずに言う。

「……は?」

 どう考えても今の会話に出てくる単語ではない。清那が混乱していると、男は筆記具を鞄にしまい、居住まいを正した。

「すまない。俺は高砂。朱鷺書院の学者だ。あの石塔上部の色の確認が、研究に必要でな」

 まさかとは、思っていたが。

「え……」

 男を舐めまわすように見る。鳥族、隼の羽、白くまっすぐな長髪で毛先は墨を含んだ筆のように黒く、褐色の肌に切れ長の黒い瞳。

 尾は鳥族にしては珍しく、骨が通っている。

 明星に聞いていた特徴そのままの男。

「ん?」

 高砂はそれこそ鳥のように首をかしげる。

 あまりの衝撃に挙動不審に陥りながら、清那は唇を震わせた。

「わ、私、清那って言います。朱鷺書院の四回生です。明星教室で研究していたんですが、学部内で人事異動がありまして、高砂先生が新しい担当になったんです。なので、追いかけてここに来ました」

「聞いていないが」

 清那は背負っていた鞄をひっくり返して、底で平たくなっていた封筒を取り出す。

「これ、委任状です」

 高砂は受け取り、帯にぶら下げた小物入れから小刀を取り出し丁寧に開けた。

 一通り流し読みすると、舌打ちをして、また面倒を、とこぼす。

「残念だが、弟子を取る余裕はない。俺の論はまだ教鞭を執るには不完全だ」

 冷たい声音だった。清那に対する鋭い目つきはずっと変わらない。

 最悪だ、と思った。

 この男と自分が似ていると言った明星の品性まで疑い始めている。研究第一なのは伝わったが、教職でありながら生徒を放置するのは職務放棄だ。そもそも、六日かけて追いかけてきた生徒の前で面倒とはなんだ。

「でも、大学側の人事は撤回できません。論文だけでも見ていただかないと、卒業ができなくなってしまいます」

 黒い目が清那をじっと見つめる。底なしの夜の闇のようだ。

「……仕方がない」

 高砂は委任状をきっちり封筒に戻すと、旅用にしてはやけに小さい肩掛け鞄の中にしまった。几帳面なたちらしい。

「俺も暇ではない。しばらく助手として扱うことになるが、いいな?」

 無表情のまま言う。出会ってからここまで表情筋を動かした形跡がない。静かな顔だった。なにを考えているかわからない。何から何まで明星とは正反対だ。

 生徒を助手扱いするような、こんな教師の下で動きたくはない、が。

「いいです。提出物さえ見てもらえるのなら」

 せっかく乗り掛かった舟だ。使えるものはなんでも使ってやる。

それに、砂漠の果てまで来るような変人研究者の彼なら。

千夜(せんや)国への、足掛かりになるかもしれない)

 清那は緑色の瞳で、真っすぐに高砂を見つめた。

「わかった。ついて来い」

 高砂は半ばあきらめたように、日干し煉瓦の村の方向へと足を向けた。

 いつの間にか西日は傾き、黄昏が道行く二人を包み込んでいた。

 紫色に滲む星明りの下、清那は先導する広い背中を追った。

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