三途の橋のタクシードライバー
タクシーの外でスマートフォンの画面を見ながら、私は乗客を待っていた。すでに辺りの景色は暗闇に飲み込まれていたが、近くを流れる三途の川は、心地よいせせらぎを響かせている。
すると、段々と足音が近づいてきた。私が姿勢を正して待っていると、足音の主が暗闇の中から少しずつ浮かび上がってくる。
中年の男性。着崩したビジネススタイルに、白髪の混じった頭。顔には疲労の色がはっきりと浮かび上がっており、まるでのっぺらぼうに絵を描き足したかのように生気がない。
この方に間違いないだろう。
「お待ちしておりました、雪野泰治様」
私が名前を呼ぶと、半分閉じていた目がはっきりと開かれた。と同時に、川の辺にいる私とタクシーの存在にようやく気がついたようだ。彼は確認を取るように、自分の顔を指さす。
「どうぞ、こちらへ」
私は後部座席のドアを開け、彼を招いた。彼はふらふらとした足取りで、タクシーへと近づいていく。私は一足先に運転席へと座り、彼が乗車するのを待った。
彼は無言のまま乗り込むと、自分自身が荷物であるかのように、後部座席にどさっと音を立てて座った。
「では、出発しますね」
今日は、三途の橋は空いているようだ。ハンドルに白い手袋を着けた手を置きながら、橋の上を一直線に走り続ける。
「あのう、運転手さん」
後部座席の彼が、不意に口を開いた。ドアに寄りかかり、定まらない視線で窓の外をじっと見つめている。
「俺、行き先を告げてましたっけ」
「それなら大丈夫ですよ。このタクシーの行き先は最初から決まってますから」
「そうなんですか」
彼には不審に思う様子がなかった。まだ夢うつつのような状態なのだろう。彼の資料を見る限りでは、それも無理もないことかもしれない。
「ここは、どのあたりなんですか」
もう一度、彼が尋ねた。
「すいません、あたりが真っ暗で。それに橋の下に水、ですか。何かが流れているのしか見えなくて。大きな橋の上だってことはわかるんですが。ちょっと不安になって」
「いえ、かまいませんよ。ここはですね、極楽と地獄の中間に位置する所なんです」
後部座席の空気が、少し張り詰めてきたのを感じる。
「極楽」
「あ、天国と地獄、と言ったほうがわかりやすかったですね。これから霊魂審査官長様に会うために、この三途の橋を通らなくちゃならないんですよ。しばらくの間、同じ景色が続きますがご了承ください」
「霊魂。三途の、橋?」
「開通するのに100年近くかかりましたがね、今はもう快適そのものですよ。船に乗って三途の川で流れを見極めながら、一生懸命漕いでいたのはもう遠い昔の話で――」
「ふざけんなよ、おい」
尖った声が私の耳を通り抜けていく。
「何が三途の川だよ、馬鹿げた冗談はやめろ! もういい、ここから出せ。車止めろ!」
彼は車内で暴れ狂った。窓を殴り、ドアに体当たりをし、運転席とを隔てるパーティションを壊そうしたりと必死だ。だが、肉体が無くなり、生前の記憶だけで形作られた霊魂である彼に、このタクシーから脱出できるだけの力があるはずもない。
「コラァ、運転手ぅ! ……あ」
運転席を蹴ろうとして足を振り上げた彼は、そのまま固まってしまった。おそらく、気付いてしまったのだろう。自分の膝から足先までが、薄く半透明になってしまっていることに。
彼はがっくりと肩を落とし、頭を抱え込んでしまった。
「死んでるのか、俺は」
うってかわって、悲しげな声が運転席に届く。
「ええ、残念ですが」
「覚えてない、なんで死んだのか。なあ、あんた――いや、運転手さんは、なにか知ってるんですか、俺が死んでしまった理由を」
私は軽く咳払いをした。乗客に対してこちらが知っている情報を提供するのは、別にルール違反じゃない。が、少し気は引ける。
「こちらにニュースの映像がありますが、ご覧になりますか? ……雪野様の心を掻きむしるような内容かもしれませんが」
「大丈夫です」
私はハンドルにあるスイッチを押した。備え付けられたカーナビからテレビの録画映像が流れだす。
『えー、たった今入ってきたニュースです。東京都杉並区の交差点で自動車二台が爆発炎上する事故が発生しました。警察の調べによりますと、交差点を通過していた乗用車に信号無視したスポーツカーが衝突したとのことです』
彼は神妙な面持ちで、後部座席の真ん中から映像を見ている。画面の中央では二台の車がバツの字に折り重なっており、黒い煙とともに大きな赤い炎が踊っていた。
『乗用車を運転していたのは、都内に本社のある工場に勤務していた雪野泰治さん四十一歳、火が消し止められた後、病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。スポーツカーから救助された二人は意識不明の重体で――』
「もう、いいですよ」
彼はそう言いつつ、後部座席にもたれかかって、天を仰いだ。
「失敗した、のか」
私はカーナビの画面を切り替えながら、同情の言葉を絞り出す。
「あまりに突然のことで、何が起きたのかすらわからなかったでしょうね。まだ働き盛りなのに」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
しばらくの間、沈黙が続いた。タクシーのライトは、相変わらず平坦な橋の上を照らし続けている。
「運転手さん」
彼がふたたび話し始めた。先ほどと比べると幾分落ち着いた様子だ。
「俺はこれからどこへ行くんですか。地獄行きですか」
「地獄? いえ、まだそれは決まっていませんよ。これから行くのは霊魂裁判所です。霊魂審査官長様が、天国に行くか地獄へ行くかを判決なされますので」
「えっと、その霊魂審査官長というのは、もしや閻魔様で?」
「あ、ご存知でしたか。今ではそういうふうに呼ばれているんですよ。現世との文明の調和を取らなくちゃいけなくて、どうしても。私どもとしても、閻魔様のほうが馴染みがあるんですけどねぇ」
「じゃあ、ウソもごまかしも通用しないってわけだ。地獄へ行く覚悟を決めといたほうがいいな」
私は前方に先行車がいないことを確認してから、一瞬彼の方を向いた。
「先ほども言われてましたね、地獄って」
「仕方ないでしょ。俺は罪を償わなくちゃならないんだから」
「……私の個人的な意見ですが、手元にある資料を見る限り、雪野様は天国行きの可能性が高いと思いますよ」
そう言いながら視線を前方に戻したのと、ほぼ同時に、彼が笑い出した。
「天国、俺が天国だって。はは、ありえねえよ、運転手さん。俺が乗っていた車が、なぜあんなに燃え上がっていたのかわかるかい。普通、横からぶつけられたぐらいじゃ、こんな大惨事になるわけがねえ」
「はて、私もそれは気になりましたが、何か理由でも」
「トランクや後部座席に、爆薬をたくさん積み込んでいたのさ」
彼はバックミラー越しに私の目を見ながら、大きく息を吐く。
「正確には勤め先の工場から持ってきた爆発性危険物の類でね、俺はこいつで本社のオフィスに、車ごと突っ込むつもりだったんだよ」
「それはまた、どうして」
「復讐だよ。俺の人生を虚仮にした復讐。俺は大学出てからずっと同じ会社で働いていたんだが、この会社は異常なまでの同族経営体質だったんだ。外様の俺は40を超えても、ずっと地方の工場長どまり。先日まで副工場長に社長の従兄弟がいたんだがね、奴は20の若造にも関わらず、俺を差し置いて本社の重役に異動になっちまった。それで、我慢の限界がきたというワケだ」
早口で捲し立てたあと、彼は乱暴に自分の体を後部座席に押し付けた。
「だけど、結局失敗しちまったようだ。とことんツイてねえ奴だな、俺は。よりにもよって信号無視したバカにぶっつけられるなんて」
フロントガラスに届きそうな、深く長い溜息を吐きながら、彼は言葉を続ける。
「さあ運転手さん、これでも、俺は天国に行けるような人間だと思うかい?」
「雪野様の仰っていることが確かでも、やはり天国行きの可能性が高いと思います」
「どうして。俺はオフィスにいる罪のない連中まで、丸ごと巻き添えにしようとしてたんだぜ?」
「でも、その凶行は未遂に終わった」
薄笑いを浮かべていた彼の顔が、少し引き締まった。
「あくまで客観的に見れば、雪野様は亡くなられるまでに何の罪も犯していないのです。むしろ、相手側の信号無視により事故死した哀れな被害者だ、そうでしょう?」
「それは……」
「それに、雪野様が会社のため熱心に働き続けていたのは資料が示しています。社内で不当人事が行われていたことも、霊魂審査官長様は加味していただけると思いますよ」
彼は顔をうつむかせた。バックミラーに白髪混じりの頭頂部がぎりぎり写っている。
外の景色もだんだん明るく色付いてきた。三途の橋も終点が近い。
「本当に、天国でいいのか」
彼がぽつりと呟く。
「ええ、堂々としていただいてかまいませんよ。私もこうやって三途の橋のタクシードライバーを勤める身ですから、今までいろんな方を乗せてきました。何人も人を殺したのに、天国に行きたいとわめく方もいらっしゃいましたよ。それに比べたら、雪野様には十分に天国行きの資格があります」
「俺が、天国……」
彼はまだぶつぶつと呟き続けていた。そうしているうちに、目的地の霊魂裁判所へと到着した。天国から届く光を反射して、裁判所の外壁は白く輝いていた。
「さあ、裁判所に着きましたよ」
「こ、これが閻魔様のいる裁判所? 白っぽくて、シンプルで、普通の裁判所みたいだ。俺はてっきり、もっとおどろおどろしい建物かと思いましたよ」
「でしょう。今は海外の方もこちらの裁判所に来られることが多いですからね。面倒事にならないよう、外も内もなるべくシンプルなデザインにしているんです」
私は駐車場にタクシーを移動させ、停めた。ここは天国にも地獄にも近い場所。上からは清廉な淡い光が差し込んでいるが、下からはむせるような熱気が立ち上り、地面が黒ずんでいる。
他のタクシーも何台か止まっていて、霊魂達はふわふわと漂いながら裁判所へと向かっている。
私は後部座席のドアを開けた。
「雪野様、お疲れ様でした。このまま裁判所の入口へ進んでいただければ、あとは係の方がご案内しますよ」
「そうですか、わかりました」
「確認なんですが、六文銭はお持ちで?」
「え、ろくもん?」
「あ、いや、大丈夫ですよ。今は知らない人のほうが多いですから」
十中八九持ってないとしても形式上、六文銭を持っているなら回収しないといけないのだ。少々面倒ではあるが、セクハラなどが理由で廃業になってしまった奪衣婆さんの例もあるので、致し方ない。
彼はゆらりと車外に出て、ゆっくり前へと進む。私も運転席から降りて彼をお見送りしていると、彼が振り返ってお辞儀をした。
「運転手さん。その、車内で暴れて申し訳なかったです。ここまで、ありがとうございました」
「いえいえ、お気になさらずに。雪野様のご冥福をお祈りしていますよ」
彼は力なく笑みを浮かべると、光に誘われた羽虫のように、裁判所の入口に進んでいった。
その姿は気のせいか、最初に三途の川の辺で出会ったときよりも、弱々しく感じた。
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居酒屋の扉を開けると、連絡をとっていた同僚がすでにカウンター席へと座っていた。
「よお、お疲れさん。悪いな、先に飲ってるよ」
「お疲れ。今日は君のほうが早かったな。女将さん、ハイボールひとつお願いします」
私は厨房にいる女将さんに軽く会釈をしながら、お通しが置かれている彼の隣の席に座った。
「お前のほうが遅くなるなんて、珍しいな。最後の客がハデに暴れたり、脱走したりでもしたのかい」
「いや、そうじゃないけど……大変なのは君の担当地区のほうだったろう。老人介護施設で大規模なパンデミックが起きたって?」
「大変なんてもんじゃなかったさ。亡くなった人の数もさることながら、きちんとした葬式もあげられずこっちにくる霊魂の多いこと。俺が説明をするのにもえらい時間がかかっちまって、まるで介護タクシーの運転手みたいになっちまったよ」
そう言うと彼は一息おいて、燗をした酒を啜った。
「そりゃ災難だったなぁ。最近は三途の川が何なのか知らない世代も増えてきたし」
「それはそうと、お前さんは何をしてたんだい。まさか普通に仕事してて、今日の俺より遅くなるってことはないだろう」
「実は、今日乗せた客の中に気になる人がいてね、その人の裁判を傍聴しに行ったんだ。持っている資料では、天国行きのはずだったんだけどね」
「その口ぶりじゃ目論見が外れたってわけか、お前さんにしては珍しいじゃないか。ちょっと詳しく聞かせてくれよ」
私はまずその人――雪野泰治様が現世で命を落とした経緯について話した。それから、彼を取り巻いていた状況についても。
「ところが裁判中に、新しい情報が入ってきたんだ」
「新しい情報が?」
「ああ、交通事故を起こしたのは信号無視のスポーツカーだったんだが、この車を運転していたのは、偶然にも彼が勤めていた会社の社長令息だったんだ。救助はされたが、一日経って死亡が確認された。助手席には婚約者もいたみたいで、その婚約者もほぼ同時刻に亡くなったそうだ」
私は渇きを覚えて、いつの間にか置かれていたハイボールで喉を潤した。
「その影響で、社長は体調を崩し、精神にも異常をきたしたらしい。社内は大混乱で、早くも株式売却の流れが始まっているってさ」
「へええ、じゃあその雪野って人は、自分の意図していない形で復讐ができたってわけか」
「そうさ、でも問題はそこからだった。あの人は、その話を聞いた途端に、大声で笑いだしちゃったんだよ。法廷内の隅々まで響くほどにね。霊魂審査官長は何度も笑うのを止めるよう注意したが、あの人は聞かなかった。そのせいで、地獄行きが決定した。始めてみたよ、法廷の真ん中に大きな穴が空いて、そこへ霊魂がスーッと吸い込まれていくんだ」
少しの間、沈黙が漂った。同僚が酒を飲み終わってから、ため息交じりで言葉を吐き出した。
「もったいないことしたなぁ。せめて裁判が終わるまで笑うのを我慢していれば、天国へ行けただろうに」
私は薄まったハイボールを飲みながら、あの時のことを思い出す。彼が地獄に堕ちていく瞬間、偶然に目が合った。彼はまだ笑っていた。私もその時、微笑みを返していたと思う。
ハイボールを飲み干し、私は静かに呟いた。
「でも、いい顔で堕ちていったよ、あの人は。地獄行きに相応しい、とてもいい笑顔だった」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。