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第四章:聖典の悪魔③

 施療院に着き、馬を繋ぐと、セイランは茶色の扉を叩き、訪いを告げた。すぐに白衣に身を包んだ煉瓦色の髪の若い男が顔を出した。

「スフェル殿下、セイラン様。どうぞ、こちらへ」

 若い医師は、二人を建物の中へ招き入れる。

「イスタ殿、あの少女の具合はどうだ?」

「それがその……」

 スフェルが問うと、イスタの銀縁の眼鏡の奥にある飴色の瞳に困惑の色がありありと浮かぶ。

「……どうやら、あの娘は記憶をすべて失っているようなのです」

 躊躇いがちにイスタが口にした言葉に、スフェルとセイランは一瞬、言葉を失った。少女の容態に関する事実を受け止めることに瞬き一回分の時間を費やした後、「……そうか」小さく呟き、スフェルは黙り込む。

「記憶が戻る可能性はないのでしょうか? それに、すべてというのはどのくらい……」

 主の様子を気にしながら、セイランは疑問を口にする。イスタは首を横に振り、

「現時点では一時的なものなのかどうかも判断できかねますが……殿下が保護されたあの娘はよほど酷い目にあったのでしょう。思い出すことがあの娘にとってよいことなのかどうか、私にはわかりません。あの娘は……自分の名前すら忘れてしまっているのですから」

「……そうですか」

 セイランとイスタの会話を聞きながら、やはりあの少女は昨夜のフィエロの事件に関わっている可能性は高いとスフェルは思った。なればこそ、尚更、あの少女の身柄が大司祭たちの手に渡ることは防がねばならない。記憶を失った哀れな少女を下手に刺激させたくはなかった。スフェルはヘーゼルの瞳でイスタを真摯に見据えると、口を開く。

「無理を承知でお願いする。あの少女に会わせてくれないか」

「殿下の頼みであったとしても、医療従事者として許可できません。お言葉ですが、あの娘に今は負担をかけるべきではありません」

「わかっている。ただ、様子を見て、話をするだけだ。無理に何かを聞き出すつもりもなければ、長居をするつもりもない。イスタ殿も立ち会ってくれて構わない。だから、頼む」

「……五分。五分だけです。それ以上は許可できません」

 イスタは根負けして、渋々ながらも条件付きでスフェルたちへ面会の許可を出す。彼は、二人を伴って、廊下を進む。

「入りますよ」

 イスタは突き当りの部屋の扉を叩く。扉を開けると、消毒液の匂いがする部屋の中、白い清潔なシーツに覆われたベッドの上で真新しい包帯を巻かれた右肩を庇うようにして、灰色の髪の少女が体を起こしていた。

 スフェルたちが病室に入ると、彼女の苔色の双眸に警戒するような色が浮かんだ。誰、と小さな声で彼女は誰何を問う。

「こちらは王弟殿下とその従者の方です」

 イスタが困ったように、少女へと二人が何者なのかを説明する。少女は怪訝そうに眉根を寄せた。その瞳はスフェルが携えた剣をちらちらと見ていて、警戒の色が消えない。

「王族の方……?」

 剣が怖いのかと思い、スフェルは自衛のために持っていた剣を鞘ごと外して、セイランに渡す。膝を折ってかがみ込み、少女と目線を合わせる。セイランの藍色の視線が咎めるような視線が彼の側頭部に刺さる。

「私はスフェルという。先程、イスタ殿が言っていたように、一応王族ではあるんだが、そう畏まらないでくれ。今朝、城を抜け出したときに、西の街道で君を見つけて保護したのは私だ。記憶のことはイスタ殿から聞いてはいるが、ともかく体の方は大事なかったようでよかった。……そうだ、忘れないうちにこれを」

 スフェルは黄色いシンビジュームの花束を少女へと差し出す。

「お花……」

「ああ、今の時期に咲く花なんだけれどね。城の庭に咲いていたのを使って、あそこにいる私の従者……セイランに花束にさせたんだが、まあまあ悪くないだろう?」

 少女の苔色の目が、スフェルの傍に控えるセイランを見る。少女は手の中の花束とセイランを見比べると、くすりと小さく声を立てて破顔した。

 セイランはなんだかなあと思いながらも、スフェルが少女の笑顔を引き出すことに成功したのでまあよしとする。スフェルが少女の見舞いに何を持っていくべきか城を出てくる前に悩んでいたのをセイランは知っているし、セイラン自身、どうにか見栄えのするようにまとめようと悪戦苦闘させられた。

「……エミル」

 スフェルの唇が聖典に載っている神の使徒の一人の名前を紡ぐ。記憶を失って間もないというのに、こうして笑うだけの力があるだけの彼女ならば、きっと自分の足で立って生きられるとスフェルは思った。だからこそ、そんな彼女に与えるなら、この名前がいいと思った。少女はきょとんとして首を傾げる。

「呼び名がないというのも不便だろう? エミル――君の仮初の名前だ。気に入らなかったり、元の名前を思い出したときは変えてくれて構わない。ただ、今はそう呼ばせてもらっていいか?」

 少女はこくりと頷いた。

「エミル、覚えておいてくれ。君は命以外のものをすべて失ってしまったかもしれないけれど、君は決して一人ではないということを。何かあれば、いつでも私を頼ってくれて構わない」

 スフェルが少女――エミルにそう言ったとき、廊下にどたどたと荒い何者かの足音が響いた。間髪開けずに、乱暴にドアが開かれ、ごてごてとした装飾の施された法衣に身を包んだ小太りの初老の男が病室へと飛び込んできた。セイランは闖入者へと厳しい視線を向け、腰に携えていた自分のロングソードの柄へと手をかける。

「セイラン、やめろ。彼女をあまり刺激するな」

 スフェルはセイランを制止すると、闖入者の男へと向き直る。教会の古狸がやはり嗅ぎつけてきたか、とスフェルは内心で舌打ちをする。

「ヴェルマ大司祭。ここは施療院だ。騒がしくしないでいただきたい。私に何か用があるのであれば、城で伺おう」

 スフェルが言外に帰れと告げると、大司祭は鼻息荒く言い返す。

「スフェル殿下。私めは殿下ではなく、そこの娘に用があるのです」

「今は話ができる状態ではないのが、見てわからないのか。生憎だが、出直していただきたい。急ぎの用であれば、私が代わりに伺おう」

「いえ、殿下の手をわずらわせるほどのことではございません。ただ、私めは、そこの娘にフィエロの事件について聞きたいだけなのですがね」

 スフェルとエミルへと舐めるように視線を這わせながら、大司祭は嫌な笑みを浮かべてそう言った。

「何か誤解があるようだが、その娘はフィエロの事件には関係ない。お引取りいただこうか」

 スフェルは動じることなく、そう宣った。しかし、ヴェルマも引き下がることなく、

「しかし、今朝、殿下が街道で少女を一人保護したなどという話を耳にしておりますが、それがその娘ではないのですかな?」

「人違いだ。私は今朝は城にいたし、その娘はそこにいる私の従者の縁者だ」

 スフェルの言い放った言葉に、勝手に親戚を増やされたセイランは内心で頭を抱える。エミルの困惑した苔色の瞳がセイランを見る。

「大丈夫です。きっと、殿下ならあなたにとって悪いようにはしませんから」

 セイランはエミルを安心させようとそう言葉をかけた。わかりました、と彼女は頷く。セイランは、ヴェルマのほうへと向き直ると、

「ええ、その娘は私の従妹のエミル・ゼーヴェです。三日前、階段を踏み外して頭を強く打ち、こちらに入院していたのですが、意識が戻ったとの連絡を受け、面会にきていました」

 スフェルの嘘の上に即席の設定を重ね、セイランは主君へと同意を求めるべく、視線を送る。視線が交錯すると、スフェルはわかったとでもいうように軽く頷いて、

「ああ、セイランがやたらと気を揉んでいたから、私も気にかかっていてな。無理を言って見舞わせてもらった次第だ」

 臣下の身内は私の身内も同然だからな、とさり気なさを装って言い添えたスフェルを無言でヴェルマは睨め上げる。王家を敵に回したくなければ手を出すなと暗に言われた大司祭は引き下がるほかなかった。

「……どうやら、私めの勘違いだったようですね。私めはこれで失礼しましょう」

 怒気を孕んだ口調でヴェルマはそう言うと、入ってきたときよりも荒々しく病室を出ていった。スフェルは肩をすくめてその背中を見送った。神経質そうな若い医師は、帰るときですら騒がしい招かれざる客に青筋を立てていた。

「あの……今の人は? フィエロの事件って何ですか?」

 エミルは問うた。スフェルを見上げる苔色の瞳には意志の光が宿り始めていて、芯の強さを感じさせた。どこまで話したものかとスフェルは思案しながら、

「今のはヴェルマ・イェール大司祭だ。今の人は昨夜近くのフィエロという村であった事件と今朝、西の街道で倒れていた君に何らかの関係があるんじゃないかと思って話を聞きに来た。だけど、今の状態の君に無理をさせたくなかったから、少し強引だがお帰りいただいた。……あの人たちは都合のいい証言を君から引き出すためなら、どんな手段だってとるだろうからな」

「ええと……じゃあ、私がセイラン様の従妹というのは……?」

「申し訳ありません。あの場を収めるために殿下の嘘に乗らせていただいただけです。あなたがどこの誰なのかというのは、わかっていないのが現状です」

 嘆息しながら、セイランはエミルへと頭を下げた。教会の強硬派の追及からこの少女を守るには、実際に『エミル・ゼーヴェ』という人物の戸籍を捏造してしまったほうがいいかもしれないという思考がふっと彼の脳内を過ぎった。無理にでも、彼女にある程度の立場や肩書を持たせてしまったほうがスフェルにとってはこの娘を守りやすい。セイランは帰城後に取るべき手続きの算段をし始めた。

「……スフェル殿下、セイラン様」

 苛立った青年の声が二人の背に投げかけられる。細い銀縁の眼鏡の奥から向けられた視線は氷のように冷たい。

「お約束のお時間はとうに過ぎておりますが」

「大変申し訳ありません。……殿下、そろそろ帰りましょう。エミルの身体に障ります」

 イスタの言葉の内から、とっとと帰れという意思を感じ取り、セイランは詫びの言葉を告げると、主君へと退室を促す。

「失礼した。エミル、また来る。思うことはいろいろあるかもしれないが、今はとにかく心と体をゆっくり休めてくれ」

 スフェルはそう言うと、セイランを伴って病室を出ていった。見送りのために、イスタも彼らを追って部屋を出ていく。

 部屋の中が静まり返り、エミルはあかぎれのある自分の両手に視線を落とす。

 自分は誰なのだろうと思う。自分の手を見る限り、きっと記憶を失う前の自分は王家や教会の上層部などまったく関係ない生き方をしていたはずなのに、自分を巡った鞘当が起きているのは一体何故なのだろう。

 けれど、あのスフェルという王弟は、自分を守ろうとしてくれた。突然、病室に入ってきた大司祭だという人物に比べ、誠実そうだと思った。身を案じてくれた言葉からは嘘は感じなかった。

 自分の本当の名前や年齢すらも思い出せないし、一体今何の渦中にいるのかも全くわからないけれど、スフェルのことは信じてもいいのかもしれないとエミルは思った。


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