忌み母の聖女
「堕すべきだ。殺すべきだ。下すべきだ!」
怒声が響く。怒号が鳴る。
全ては、聖女の身を案じて。
「やめて下さい! お願いです! この子だけは!」
その叫びは、その場にいる全員の耳に届いた。しかし、届いたのはそこまでだ。あくまで耳まで。決して、心までは届かなかった。
聖女がその大きくなった腹に手を当て、どれほど泣き叫んでも。
魔王を討った勇者一行の要。幾度となく彼らの危機を救い、傷を癒やし、最後には魔王の呪いから身を挺して勇者を守った英雄が、救世の聖女マルティナ・マルタ・アマギエルである。四天王のうち二人を討ち、一人を裏切らせ、一人を禁足の森に追い詰めた大立ち回りも、彼女の尽力があってこその功績だ。しかし、凱旋直後は笑顔で迎えた民衆は、今にも襲い掛かろうとせんばかりの様子でマルティナを取り囲んでいた。
「聖女様は乱心しておられる! 産むべきではない! 呪われた忌み子など!」
「この子は生きております! 小さく儚く、愛されるために生まれてくる子供なのです!」
処女懐胎。
経験のない聖女が、子を成したというのだ。あるいは神の奇跡とも思える怪奇ではあるが、母体である聖女が魔王の呪いを受けた事、そして何よりその身から魔王と同じ魔力が感じられたとあれば、それが魔王に起因する現象である事は明らかだった。
「どのような怪物が産まれるか分かったものではない! 今のうちに始末すべきだ!」
「我が子を殺す母などいましょうか! どうか私に機会をください!」
叫ぶ。泣く。喚く。
しかしその声が、民衆を動かす事は決してない。
「勇者様! 勇者様! 私にご容赦を下さい!」
「…………」
最後の望みを、勇者に託す。かつて世界がそうしたように。共に世界を救った聖女が。
民衆の視線もまた、勇者に向かった。彼の一言であれば、あるいは民衆を沈める事ができるかもしれない。
しかし——
「魔王の血は絶やさねばならない。その根から葉先に至るまで」
「……っ!」
勇者の母は魔族に殺された。勇者の父は魔族との戦いから帰らなかった。
彼にとって魔王とは、何に代えても滅ぼさなくてはならない仇なのだ。
それはすなわち、自らの命ばかりか、大切な仲間の大切なものですら。
「わ、私はあなたに代わって呪いを受けたのですよ……それをこんな仕打ち……」
「それについては感謝している。それでも、世界を危機にさらすわけにはいかないのだ」
マルティナは、決して恩着せがましい性格ではない。奉仕は無償であるべきだと思っているからだ。その崇高な精神にこそ尊さがあり、神もその真なる善意を評価してくれると信じている。
だが、この時ばかりは言わざるを得なかった。どれほど打算的であろうと、神に見放されようと、我が子を思って汚れる覚悟があったからだ。その腹の内に宿る小さな命を、何をしてでも守らなくてはならないと。
そして、その思いは勇者には届かなかった。
「堕胎には危険が伴う。アウレオルスが戻り次第施術を頼もう」
アウレオルス・カーマイン。
彼もまた、勇者と共に魔王を討ち滅ぼした仲間である。勇者が最も信用している魔術師に施術を頼むというのは、彼なりの最大限の優しさだ。しかし、当然それでマルティナが納得するはずもない。終ぞ、彼女の叫びはやむ事がなかった。
今、マルティナの腹を蹴った。内側からでも足と分かるほどに力強く、本当に足なのかと心配になるほどに小さい。
それが、あまりにも愛おしかった。魔王の呪いであろうと、忌み子であろうと、愛する人との間の子ではなかろうと、マルティナには可愛くて仕方がない我が子に思えてならなかったのだ。
殺されてなるものか。殺させてなるものか。
たとえ人類への裏切りと罵られようと、破戒聖女と蔑まれようと、我が子のために生きられるのであれば何もいらないとすら思える。
誰かが、その愛すらも魔王の呪いなのだと言った。母体に子を守らせるために、精神干渉をしているのだと。
誰かが、産まれてくるのは魔王の生まれ変わりだといった。そうして蘇る事で、永遠の時を生きるつもりなのだと。
しかしそれでも、マルティナはこの子を産むつもりだった。
子供を愛する事に、理由など必要だろうか。産みたいと感じる事が、そんなにおかしいだろうか。
マルティナはただ愛し、ただ当然の事をしているだけなのだ。
少なくとも、本人はそう思っている。疑う余地のない事であると。
そして、周りの人間はマルティナの意志を軽んじた。
嫌がりながらも、大した抵抗などするはずもないと。
「アウレオルス、よく来てくれたな」
「他でもない君の頼みで、他でもないマルティナのためなのだろう? この世の果てからでも馳せ参じるとも」
「……四天王の生き残りはまだ見つからないか?」
「流石にな。禁足の森はあまり深入りする事ができないし」
魔術師アウレオルスの帰還は、人々の歓声をもって迎えられた。本来であれば四天王最後の一人、死体遊びアリアナ・ドードナックの討伐に向かっていたところだが、それ以上の事態とあれば無視するわけにもいかない。
「早速診察を頼む。あいつは錯乱しているから、落ち着いて接してやってくれ」
「当然だ、仲間だからな。……そんなに酷いのかい?」
勇者は首を振る。
「もはや正気ではない。仮に魔王を産んだとしてもその子供を育てるだろう」
「そうか……。君も君で、例え普通の子を産むとしても引くつもりはないんだろう?」
「ああ。一見普通に見えても、それが魔族に与する可能性があるのなら摘むべきだ。俺は、父と母にそう誓った」
「……分かった」
勇者の意思は固い。それでも、マルティナ諸共殺してしまわないのは、彼が少なからず彼女を大切に思っているからだ。
説得する余地などないと確認したアウレオルスは、わずかに微笑み目を伏せた。かつて彼の覚悟を信じたからこそ、魔王討伐の旅に同行したのだ。
「それで、彼女は今どこに?」
「教会の私室だ。初めは随分と暴れていたが、何日か前から大人しくてしている」
「そうか。では早速向かおう。……彼女の重荷を取ってやらなくては」
道中、ほとんど会話はなかった。世間話という雰囲気ではないし、勇者が静かに荒れていたからだ。
殺意。まだ会った事もない、産まれてすらいない赤ん坊に対して、魔王本人に対するほどの恨みを持っている。
だから、アウレオルスは声を掛けられなかった。その様子は、魔王の城を前にした時とほとんど同じだったからだ。
「なんだ、騒がしいな」
「何かあったんだろうか?」
教会の前まで来ると、その場所からでもわかるほどの喧騒が聞こえた。誰かの叫び声、怒鳴り声。救世主に仕えた高弟を模る彫像の前にあって、およそ相応しくない騒ぎである。
「おい、何があったんだ」
勇者が教会に駆け込み、一番近くの修道女を捕まえた。
「せ、聖女マルティナ様がいなくなったのです!」
「なんだと!?」
アウレオルスは、すぐさま外に向かって駆け出した。
勇者もそれに続く。
「どこへ行く! 心当たりがあるのか!?」
「ない。ないけれど、マルティナはこの街……この国全体を敵にしている状況だ。すぐ近くに隠れるとは思えない。つまりどこに行くつもりであっても、まずは……」
「馬車だな!」
それだけ聞くと、勇者は風の如くその場から消える。魔王を討ち滅ぼしたその力をただ走る事にのみ使ったなら、文字通り“目にも止まらぬ”速度となってしまうのだ。
アウレオルスは、勇者を見送る。
立ち止まり、見えなくなるまで。
「……無事でいてくれ、マルティナ」
その小さな声は、きっと誰にも届かなかった。
ここが例え、教会の前であっても。
勇者の全力をもってすれば、街を縦断する程度にはものの十分もかからない。恐ろしい轟音と突風を伴って現れた勇者に、馬車停勤めの御者たちは腰を抜かす。
「聖女が来たか!」
勇者がそう叫ぶと、御者たちは顔を見合わせる。
「聖女様は教会にいらっしゃる筈では……?」
「いないから問うている!!」
御者の中で一番の古株だろう年寄りの男が答える。その言葉は、勇者の望んだものではなかった。
「お前たち、この街から出る術に心当たりはないか!」
「え、馬車以外でですか? えっと……」
「ないのならよい!」
頭ごなしに怒鳴る。普段の勇者からは考えられない態度だ。それだけ、事態を重く見ている証左である。
此度の行動は魔王に対する恨みによるものではあるものの、マルティナの身を案じていたのも事実なのだ。
魔王の呪いがどのような結果を生むか分からない以上、迅速で的確な対応が求められる。そのためのアウレオルスであり、そのための勇者だ。それがままならないという事はつまり、マルティナの安全が保障できないという事であり、仲間に危機が迫っているという事だ。勇者が冷静さを欠くには充分な事態である。
ぐずぐずしている暇などない。
街の中だろうか。外に逃げたと見せかけて、中に隠れるというのは充分に考えられる。
それとも、門以外の場所から逃げたのだろうか。例えば上下水道。身重では厳しい気もするが、だからといってしなかっただろうと考えるのは楽観的すぎるだろうか。
「アウレオルスはどこだ! まだ来ないのか!」
仲間に意見を聞こうと周りを見るも、いつの間にやらはぐれている。せっかく禁足の森から早馬車を手配して呼び戻したというのに、このままでは全くの無駄足になってしまう。
「……?」
無駄足……? いや、もう少し前。
勇者は、自らの思考の中に気付きを覚える。
「アウレオルスは、早馬車で来た……!」
つまり、あるのだ。馬車停の御者が把握していない馬車が。たった一つ。
「アウレオルス! どこだ!」
仲間を呼ぶ。仲間を叫ぶ。今すぐにでも確認しなくてはならない。確認しないままには収められない。
矢のように賭けてきた時と同じように、勇者は矢のように駆けて行った。
完全に、見失った。
かつての仲間を。大切な親友を。
この広い世界のどこへ行ったというのか。その身に抱えたものが何なのかも分からないまま。
「い、急ぎなさい……っ!」
「へい! ……しかし聖女様、お身体が」
「いいから早くなさい!」
マルティナは焦っていた。
馬車を一つ奪い、御者を一つ脅して街を出た。慣れない脅迫は、今のところ上手くいっているらしい。
しかし、痛くて痛くて仕方がないのだ。腹が、背が、身体が、内側から万力のようにひしゃげさせられるかのように。
意識を失えば、身を守る術がなくなる。勇者に捕まれば、もう二度と逃げ出す事などできないだろう。
なにせ、彼は世界を救った英雄だ。聖女一人を救う程度、訳もなくこなしてしまう。
例え望まれていなかろうと。
「ぅ……!!」
「聖女様! やっぱり身体に障りますぜ!」
「速度を緩めないで! 全速力で!」
苦しい。苦しい。しかし、まだ耐えられる。
耐えられるうちは、逃げなくてはならない。
輝いていた。
あの時は、あの瞬間は。世界を救ったのだという実感が確かにあった。
呪いに身を晒してなお、その勝利が誇らしく爛々と輝いて見えたのだ。
自分を心配する仲間と、その中の勇者。心配そうに差し伸べられたその手は、マルティナの腹を引き裂いて——
「っ!?」
「聖女様! ああ、よかった。起きなさった!」
何とも酷い夢から覚めたマルティナが最初に見たものは、自分の顔を覗き込む御者の顔だった。
額にのる濡れた布と、体にかけられる毛布。明らかに、看病された後である。
「……馬車を止めないでください。早く行かなくてはッ」
「いや、聖女様、しかし……」
「いいから早く! 私の身体なんてどうでも……」
「でも、もう着きましたよ」
「え……?」
這うように外へ出る。お腹を庇いながら、出せるだけの全力で。その動きがあまりにものろのろとしていたものだから、御者が見かねて肩をかしてきた。
外に出ると、眼前には広大な森が広がっていた。そして、背後には切り揃えられたかのように整った草原。まるで景色を切り取って、そこから別の景色を貼りつけたかのようだ。
目で見ても分からないが、マルティナの聖女としての力がそこに魔法的な隔たりを感じ取った。何も準備のないままにその境界を越えると、気が付かないうちに元の場所へと戻ってしまうのだ。
魔王亡き今、この世で唯一の禁足地。一般に禁足の森と呼ばれる場所である。
その中へ、深くへ。
我が子のみを引き連れて。
「聖女様! 危ないですぜ! お戻りなすって!」
「…………」
振り返らない。二度と。
なけなしの集中力を動員して、森の境界にほんの僅かな穴を開けた。自分一人が通れるだけの、すぐ埋まってしまう程度の裂け目だ。仮にも魔王を滅ぼした勇者一行の一人である。その程度ならばわけはない。
マルティナを追う御者は、この裂け目を通る事ができなかった。追いつく前に裂け目が閉じ、裂け目の結界に身を晒したのだ。
今は、マルティナのすぐ直後にいる。しかし間もなく足取りがおぼつかなくなり、明後日の方向へと歩き出した。彼にはマルティナが見えていないのだ。自分の手先が見えないほどの霧に包まれたかのような幻覚を見て、やがて馬車の前へと戻ってしまう。
これで、マルティナは一人になった。我が子を除いて、この世でたった一人に。
身重で森の中。苦しく死の最中。せめて我が子を無事に産むために、聖女の地位すら捨てて苦しんでいる。
しかし、マルティナは、何も後悔がなかった。自らの苦しみの分、我が子の将来から苦しみがなくなるのだと信じているからだ。
だからだ。だから。
禁足の森。こんな場所にすら、足を運ぶ。かつて、魔王城の次に危険な場所であると伝えられたこの場所に。
「あ……」
光が、見えた。
暖かな、健やかな、穏やかな、伸びやかな、煌びやかな、厳かな光が。誘われたいとすら思う、優しい光だ。しかし、それが決して生き物に利する事がないのは、この世にいる全ての人間が知っている。
幻覚である。
この森全体にかかる、獲物を逃さないための仕掛け。とある植物が虫を喰らうために歪な形状をしているように、この森は生き物を食らうために特殊な術を使う。
ステルブドラシル。
この世でたった一つの、魔術を使う植物である。
年々大きく広く強く成長し、今ではその根を一つの森として形成するまで至った。いつか世界を飲み込むと目されており、常に世界有数の魔術師が結界を張る事によってようやく封じている。
光に誘われれば森の中心へと抜け、そこで何らかの消化器官によって命を落とす事になるだろう。そこまで至って生きて帰った者がいないために何が起こるのかは誰も知らないが、安らかな死を望むのは贅沢だろう。
マルティナは必死で目を逸らした。逸らした先に、また同じ光が見える。
逃げて、逃げて、逃げ果てる事も叶わず、彼女はひたすらに苦しく逃げて逃げて逃げて逃げた。
木の根に足をつまづいて冷や汗をかいた。頭よりも先にお腹に腕を当て、踏ん張りの効かない足でどうにか座り込む形で地面に尻餅をつく。
子供に怪我はないかと泣きそうになり、内側から打ち付けられる握り拳に僅かな安堵を覚えた。
そして、光。また光。
万一に備えて子供に魔術を使い、ほんの少しの不都合もないように回復を図る。どうにも姿が見えないので、本当に治癒が必要だったのか、必要だったなら治癒できているのか、できているとしても充分に作用しているのかが分からず歯痒い思いをする。
「——ぁっ!?」
叫ぼうとした。
何を言うでもなく、ただ声を上げたかった。身体の内側に重くへばりついた何かを、振り払うように。
しかし、声など出ない。息の仕方すらも忘れてしまった。今息を吐いているのか、吸っているのかすら自分ではよく分からないのだ。
さらに、光。
マルティナは倒れた。お腹を庇い、仰向けで。
身体が内側からひしゃげるような、あるいはひび割れて砕けるような、驚異的な苦痛が彼女を襲う。気が付かなかったが、股ぐらは粘性のある液体で濡れている。
破水だ。そう思った時には、もう光など見えなくなっていた。自分が目を開いているのか閉じているのか、区別もできなかったからだ。
覚悟はしていた。一人で産むという事は、このような事態に陥るという事だ。しかし、これほどの苦痛とは。
指先の感覚がない。臭いもしない、何も聞こえない。そんな感覚は、この苦しさに紛れてしまっている。
自分の歯が折れるほどに食いしばり、手のひらから血が出るほどに握りしめ、それでも力が入っているのかどうかすら判断がつかなかった。
死ぬと思った。
自分も、子供も。
それは、マルティナが最も恐れた事である。
しかし、彼女の力では避けられない。
「おや、珍しいお客様だのう」
「——っ!?」
不意に、声が聞こえた。聞こえるはずのない耳に。
目の前に、誰かが立っているのが見えた。何も見えないはずの目で。
死体のように白い肌。異様に細長い指。やたらと華奢な肢体。年齢に対して小さすぎる背丈。しかし、彼女はある種の美しさを孕んでいた。
顔を伏せて倒れていたら子供の死体と区別がつかないだろうに、立っていたらまるで人形のようだ。
そのチグハグな格好を包む装束は、華やかなフリルがふんだんにあしらわれたゴシックロリータ服を、これでもかというほどに使い潰してその面影をわずかに残すのみとなった残骸である。
アリアナ・ドードナック。
かつて死体遊びと呼ばれた、魔王の最高幹部たる四天王唯一の生き残りである。
「気になり来てみれば懐かしい。ヌシは聖女ではないか。何じゃその有様は、魔王様にやられたのか?」
「——っ」
「ほほう、なるほど」
通じた。叫ぶ事もままならない喉で。
「詰まるところヌシは、それを産むつもりだと?」
「…………」
「おっと、悪かったの。それ、ではなくその子を、と言い換えよう。そして、なんと驚くべき事に私を頼りにしたと?」
四天王。
かつて魔王に最も近かった存在であり、現在においては魔王軍唯一の残党だ。魔王の呪いについての知識を求めるのなら、マルティナが会うべきは彼女をおいて他にない。
「自分で言うのも何じゃが、私なんぞに助けを求めるとは正気か? 人類の裏切り者じゃぞ」
「————」
「ほうほう、そうか。そうなのか」
不思議だ。苦しくて、苦しくて、仕方がないというのに、アリアナとの会話だけは問題なくできる。
かつては死にかけの人間に契約を迫った死体遊びの、あるいは能力の一端なのかもしれない。
そして、ここからがその本領。
救いながらに貶める、人類が最も恐れた四天王の真髄である。
「一人だ。たった一人」
人類はこの恐怖を忘れる事ができず、いまだに彼女の討伐に人員を割いているのだ。
「一人にだけ、手を貸してやろう」
つまりは一人は見捨てると。彼女はそう言っている。
「人類に追い立てられているせいで、正直今の私は貧乏でな。差し伸べやれる手は、残念ながら左右の片方しかない」
そう言って、アリアナは右手をマルティナの頭に、左手を腹に添えた。
「その上、私が手を差し伸べたとしても、二人とも一度は死ぬ。何せ私は死体遊び。生きている者を救うのは不得手での」
アリアナの細い指は、きっとマルティナの腹を裂く。母子共に殺したのち、片方のみを救うというのだ。
そして、答えは初めから決まっている。
「————」
「なるほど」
答えを聴き、アリアナはマルティナの腹を裂いた。
◆
「夢を見ました」
「ほう、いったいどんな」
「愚かな女の、惨めな末路です」
少女は、つい今まで見ていた夢を思い出そうとする。あまりに馬鹿馬鹿しい内容で、見ながらに呆れてしまった夢だが、はたして細かいところはどうだったか。師の問いかけに漠然とした答えを返したが、それは少女が覚えている限り精一杯の感想だった。
少女の名前は、ディアナ・アマギエル・ドードナック。褐色の肌と、ひび割れた左目。純白の髪が腰まで伸びた、目が覚めるような美少女である。
そして、なにより、その左側頭から伸びる一本角。この世に望まれないまま産まれてきた、存在の許されない忌み子の証である。
ディアナは、物心ついた時から師と共にあった。魔術の才を見出された拾い子であると聞かされていたが、実際にどのような経緯で出逢ったのかは分からない。
ただ唯一、血が繋がっていない事だけは確かだ。なにせ、ディアナの血液は黒く濁っている。
「その夢、ヌシには不快だったか?」
「……いいえ」
「ふふ、そうか」
師が笑う。ディアナにはその笑顔の意味が分からなかったが、しかし悪い気はしない。
ここは、禁足の森。
近づく事すらはばかられる、この世で最も恐れられている場所だ。
そんな場所でただ二人、驚くべき事に暮らしている者がいる。
一般には都市伝説の類だろうと思われているその二人組は、今日も牙をむく伝説の植物相手に魔術の練習をしていた。
彼女らは人知れず、ただそこにあるだけの存在。あるいは、もう二度と世間にその身を晒す事はないのかもしれない。




