最終話 『黛 綾乃』 その6
「……何もやってません」
喉を通って出てきた声は、あまりにも苦かった。
バックミラーに映されている顔も強張っていた。
昨日の撮影会が終わった後、雨の中を大樹の家に赴いた。
久々に会った大樹の両親は顔を引きつらせていたけれど、綾乃を拒むことはなかった。
部屋に入れてもらって――うなされていた大樹に驚き、駆け寄って手を取った。
自分がどれだけ彼を傷つけていたか、ようやく気付くことができた。
綾乃にできたのは、ただ手を握り締めることだけだった。
「ウソ、あの状況で!? あ、ごめん、ひょっとしてフラれた?」
「フラれてませんし! ちゃんと告白されましたし!?」
「告白されたって……まだ付き合ってなかったの、あなたたち」
「それはまぁ、その……色々ありまして」
麻里には恩がある。借りがある。
グラビアアイドルに限らず、芸能人にスキャンダルは禁物。
誰かに吹き込まれたわけではないが、綾乃は自然とそのように考えていた。
しかし……意気消沈して姿を消した大樹が残していったカメラを目にして、あ~だこ~だと言った余計な思考はすべて吹き飛んだ。
恋焦がれる異性とグラビアアイドルとしての仕事を天秤にかけ、綾乃は大樹を取った。
高校受験を終えて、母親と喧嘩して家を出たあの日、生き苦しさに喘いでいた自分に新しい道を示してくれた麻里の前で、すべてを台無しにしようとした。
それは彼女に対する重大な裏切りに他ならなかった。
あまつさえ大樹の家まで送ってもらった。
迷惑をかけっぱなしだったから、何も説明しないわけにもいかなかった。
……予想とは裏腹に、麻里の瞳は好奇心で輝いていたが。
学校で顔を会わせるクラスメートと大差なかった。
(うう……)
まったくもって気は乗らなかったが、ぽつりぽつりと言葉を舌にのせた。
「あれから、私は……」
目を覚ました大樹と話し合い、お互いに恋を確かめ、そして終わりを告げた。
大樹は――綾乃の言葉に頷かなかった。
嬉しかった。別れたいなんて考えたこともなかった。
でも……自分たちが付き合えば、きっと一方的に大樹を傷つけると思った。
断腸の思いで、表情を取り繕うことすらできないままに口にした自分の杞憂を、大樹は笑って吹き飛ばしてはくれなかった。傍から見てもわかるほどに無理をしていた。やせ我慢をしていた。
それでも、彼は自分と別れたくないと言ってくれた。
傷ついてもいいと言ってくれた。
「ま、その辺はわからなくもない。この仕事の難しいところよね」
「……ですよね」
神妙な麻里の反応に、綾乃は大きく頷いた。
写真を撮ってと言ったら、大樹は固まってしまった。
それは昼間の再演。撮影会で笑顔を向けた綾乃の前で、大樹はシャッターを押せなかった。
賭けだった。『一緒に傷つこう』と言われたことは嬉しかったが、実際のところはどうなのか。
大樹は耐えられるのか。
自分は耐えられるのか。
中途半端なことも、無責任なこともできない。
冗談抜きでふたりの人生を大きく左右する岐路に立たされているのだから。
あの日あの時あの状況で自分を撮ることができないのなら、耐えられないと思った。
大樹は自らに打ち勝った。
そんな恋人が誇らしくて、何でもしてあげたい気持ちになって。
昂る思いのままに撮影は続き――口づけを交わした。
キスは綾乃からだった。
大樹は高校に入って一気に身長が伸びたから、立ったままでは届かない。
ベッドに寝そべって、大樹を誘って。首に腕を絡めて。
やっと届いた。
幸福。
何なら永遠にキスしていたかった。
「あの子、手放しちゃダメよ」
「言われなくても手放す気はありませんし」
「……わかってるんだか、ホント」
「私たち、本気です。大樹は、その……一緒に傷つけばいいって」
「50点」
「何でですか!? 大樹よりカッコイイ男の人とかいませんケド!」
交わしたキスを、ふたりの決意を50点呼ばわりされてキレた。
信号を待つ運転席の麻里は、あくまで冷静なままで。
それどころか咎めるような視線を鏡越しに突き刺してくる。
「彼氏君はいいけど、問題はアンタ。一緒に傷つけばいいって言われて『はい、わかりました』って頷いてちゃダメだから」
「ダメって……そんなこと言われても」
「あなたをこの業界に引き入れた私としては、あなたがグラビアアイドルとして積極的に頑張ってくれるのは嬉しい。でも……彼氏君には辛い目に会わせることになる。それはわかるわね」
「……はい」
今回の件で骨身にしみた。
わかっていたなら教えてくれても……と恨み言のひとつもぶつけたくはなったが、たぶん意味はなかった。
誰かにアドバイスされても実感が湧かない。
自分と大樹がダメになるなんて思ってもみなかった。
危機を体験して、大樹とともに乗り越えた今の自分でなければ、どれだけ親身な言葉でも自らのものとして受け入れることはできなかっただろう。
固唾を飲んで、麻里の口から語られる言葉を待った。
「だから……これからもあなたがこの仕事を続けてくれるのなら、ちゃんと彼氏を甘やかしてあげなさい。愛してあげなさい。あなたが付けた傷を、あなたが埋めてあげなさい。それが誠意ってものじゃないかしら」
「私が付けた傷を……私が癒す」
マッチポンプじみた響きに嫌悪を覚えた。
傷をつけるのも癒すのも自分だけと聞かされて陶酔を覚えた。
浅ましく汚らわしくて、身も蓋もないほど切実で。それでいて堪らない。
身体の奥から熱い熱を感じた。
「そ。なのに、あなたときたらヤってないとか……心配になってくるわ」
「……なんでそうなるんですか。大樹は私のことを大切にしてくれるんです!」
あの日のふたりはキスどまりだった。
麻里に指摘されるまでもなく、綾乃的にはちょっと不満だった。
洗面所でメイクを直す際に『今日これから大人の階段を上るかも……』なんてドキドキしていただけに、落胆を隠すのに苦労した。
でも、ギュッと自分を抱きしめてくれた大樹は言った。
『ゆっくりやっていこう。俺、お前のこと大好きだから。大事にしたいから。その、こういう勢い任せじゃなくって、ちゃんと考えるから』
無念だったのは嘘ではないが、ホッとした自分がいたのも確かだった。
後ろから自分を抱きしめてくれる腕は、あの冬の日に命を救われた腕だった。
当時の大樹は性的な視線や話題を自分から遠ざけようとしていたし、手を繋ぐ以上の身体接触を避けていたようだったから、あの腕はひと際強く綾乃の脳裏に焼き付いていた。
その腕が、さらに逞しくなっていた。
背中越しに感じる大樹の身体も記憶よりずっと大きくて、安心感があった。
包み込まれるように抱きしめられながら、綾乃は何度も頷いた。
頷いているうちに泣いていた。
「アンタが甘えてどうするのよ。そこはさっきみたいな顔で誘いなさいよ」
さっき。
カメラマンに見せてもらった写真を見て驚いた。
写真の中の自分は、信じられないほどに大人の顔をしていた。
大樹との一夜を思い出しながら作った表情だったから……きっと、あの夜はあんな顔を大樹に見せていたのだろう。
恥ずかしいどころの騒ぎではなかった。
歴戦のカメラマンすら茫然自失させるほどの誘惑を、大樹は耐えていた。
大樹は己を卑下しがちだが、彼の精神力というか自制心は尋常ではないと思った。
ため息のひとつもつきたくなると言うものだ。本人が自分のことを一番理解していない。
「でも……前から疑問だったんですけど、私たちって勝手に恋愛とかしていいんですか?」
「うちは恋愛禁止じゃないしねぇ」
ごまかすために切り返しはしたものの、あっさり出だしを潰された。
麻里の言葉に嘘はない。それは綾乃もちゃんと理解している。
契約書に判を押す際に文面を一言一句漏らさず確かめた。
その手の文言はまったく存在しなかった。確認した。
しかし……特殊すぎる業界、特殊すぎる業種である。
不文律的な縛りがあるのではないかと、疑いが捨てられない。
疑念が顔に出ていたのだろう、麻里は綾乃を横目で見てから言葉を続ける。
「好きとか嫌いとか、恋とか愛とか。そういうのって理屈とかルールで縛ってどうにかなるものじゃないでしょ?」
「……それはまぁ、私もそう思いますけど」
わかる。
大樹に『終わりにしよう』と言ったのは決して冗談などではなかった。
でも……身体も心も言うことを聞かなかった。
あの涙は勝手に流れた。
双方の事情を鑑みて理性的な提案をしたつもりだったけれど、本意ではなかったのだ。
つくづくわからされた。人の心はままならない。
「契約だのなんだので無理に抑えつけたら、モチベーションが下がって仕事のクオリティも落ちる。メンタルへのダメージもバカにならない。そもそも無暗に禁止すると、この手の感情は余計に燃える。隠れて付き合って暴露された方が大問題よ。事前に話を通してくれた方が対応しやすい。だから……まぁ、管理するって言い方は悪いけど……協力してくれるなら、うちでは禁止しない。もちろん窮屈だと思うし、普通の恋愛はできないと思ってほしい。くれぐれも報連相は忘れずにね」
「はぁ」
「それに……これから女優としても活動していくのなら、恋愛だけじゃなく、あらゆる経験があなたを育ててくれる。綾乃、人生を愉しみなさい。それが回り回ってあなたの未来を切り拓く力になる。私たちが全力でサポートするから……ってね。あなたたちを支えるのも仕事のうちなわけ」
「……麻里さんは、楽しんでるんですか?」
「もちろん。後輩が育っていく姿を傍で見るのは最高よ」
「麻里さん、グラビアアイドルが好きなんですね」
「ええ。好きじゃなかったら、あなたをスカウトしてないから」
「……すぐそういうこと言う」
揶揄われているわけではない。
麻里は心の底から言っている。
それがわかるから、綾乃は照れる。
照れて視線を外した。
麻里の反対側、窓の外へ。
「大樹……」
ガラス越しに青空を見やる。
はるか遠く、きっと彼も同じ空を見ている。
そんな気がした。
「じゃ、事務所に帰ったらスケジュールの確認して、あとレッスンと出版社廻りと……」
「……私、夏休みってあります?」
「それはあなた次第」
17歳のJKグラビアアイドルとしては毎日が夏休みでは困る。
だからと言って……彼氏との甘いひと時すら我慢しろと言われると、それはそれで深い悲しみに包まれてしまう。
高校二年生の夏。
17歳の夏。
特別な響きを感じた。
一日ぐらいはどうにかしたいところだけれど……スマートフォンに登録されているスケジュールは、なかなかに残酷だった。
「ブラックですよね、この業界」
「今さら過ぎるわね」
恋に仕事に勉強に、毎日がとにかく忙しい。
すれ違いは日常茶飯事で、彼氏を傷つけ苦しめなければ一緒に歩むこともできなくて。
生き馬の目を抜く業界の慌ただしすぎる日々は、しかし綾乃を飽きさせることはない。
死にたいとまで考えたことはなかったが、生きる意味を見出せなかった過去の自分とは大違いで、そんな自分を支えてくれる人が大勢いて、何より自分に恋して愛してくれる人がいる。
「私……今、幸せです。この道を選んでよかった」
身勝手だろうと、自分勝手だろうと。
心の底から、そう思う。
これにて『あの子が水着に着替えたら』完結となります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本年2作目の完結作品です。
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