第19話 『楠 大樹』
見上げた空は晴れ渡り過ぎて、爽やか過ぎた。
ふわふわ浮いている白い雲が形を変えるさまを、ぼんやりと眺めていた。
グラウンドに湧きおこる歓声を、どこか遠くから聞いている気がした。
口中のチョココロネは、甘くて苦い。なかなかに大樹好みだった。
ペットボトルの麦茶を喉に流し込んで、ほうっとため息ひとつ。
「何なんだろうなぁ、結局」
誰もいない昼休みの屋上で独り言ちた。
日曜日の夜、『黛 あやの水着撮影会』に参加した後で雨に降られ、家に帰ってきた大樹は眠るように意識を失い、目が覚めたら部屋に綾乃がいた。
お互いの心を交わし合い、想いを告げ合い、綾乃の写真を撮った。
綾乃から『写真を撮られると興奮する』的なことを聞かされた時は、ひょっとしておかしなものに目覚めたのだろうかと訝しんだものだったが、いざ実際に自分が綾乃を撮っていると無性に興奮した。綾乃も興奮していた。
勢いのままに唇を交わし――
「えらく調子よさそうじゃないか。何かいいことあったのかい?」
唇を指でなぞっていると、聞き覚えのある声が耳朶を震わせた。
指を唇から離しつつ声のした方に目を向けると、そこには見覚えのある顔があった。
「……なんだ、池上か」
「『なんだ』とは、ずいぶんなご挨拶だ。これでも心配してあげたのにさ」
苦笑を返してきたのは『池上 秀一』という名の男子で、つい先日『綾乃に告白する』と大樹に宣言して実行に移し、物の見事にフラれた。
フラれてなお諦めることなく『お友だちから』綾乃と関わり続けている。
整った顔には心底残念そうな表情が浮かんでいたが、声の方はさほど沈んだものではなかった。
「心配って……ああ」
『お前に心配されるいわれはない』と言いかけて、やめた。
雨の中を彷徨っていた大樹を家まで車に載せて行ってくれたのは、この男の姉である『池上 秀美』だった。
秀美と秀一は決して仲が悪いわけではない。
姉が知った情報は、速やかに弟と共有されているだろう。
明らかに異常だった大樹の様子を聞かされて、秀一はワザワザ顔を見に来たらしい。
ハイスペックなイケメンで、綾乃に纏わりつく点は気に食わないが……根本的に善良な男だ。
大樹は彼の美点を素直に認めている。
同じ女性を争うライバルだったら、きっと気が気でなかっただろう。
ふたりの関係はまさしくライバルに見えて、実際は違うのだ。
だから、もう大樹は秀一に妬心を燃やす必要はなかった。
『認めている』ではなく『認めることができるようになった』が正しい。
「秀美さんには世話になったな。感謝してたって言っておいてくれ」
「自分で言った方がいいと思うよ。連絡先は登録してあるだろう?」
「……それもそうか」
大樹と秀美が顔を会わせたのは、たったの2回。
そのうち一回があの日の雨の中。
残りの一回は綾乃とともに赴いたショッピングモール。
あの時は秀一が姉に同行していて、4人で一緒に昼食を摂って、買い物をして、連絡先を交換し合った。
何気ない素振りで隣に腰を下ろした秀一の連絡先も、大樹のスマートフォンに登録されている。一生使う機会は訪れないと思うが、さりとて削除する気にもなれなかった。
秀一は今日も手作りの弁当を箸でつついている。
以前にも同じ光景を目にしていたが、落ち着いてみると結構センセーショナルな絵面だった。
もしここが教室だったら、周囲から悲鳴が上がることは想像に難くない。
「ああ、これ? 教室で食べると周りが、ね」
学校有数のカリスマイケメンにも色々苦労があるらしい。
こういう気遣いができる秀一のことは尊敬に値する。
絶対に本人に向かって口にしたりはしないが。
「彼女?」
「姉さんだよ」
何気なく尋ねたら、思いっきり嫌な顔をされた。
大樹の記憶にある秀美はゴージャスという形容が似合う人物で、弟の弁当を作ってくれるような家庭的なイメージとは程遠い。
「人は見かけで判断したらいけないってことなんだろうな」
「姉さんに伝えておくよ」
「頼むから止めてくれ」
嫌な予感しかしなかった。
秀一から目を離して、再び空を見やる。
穏やかだ。何もかもが平穏で、ありふれた光景だった。
「綾乃さん、今日も仕事?」
「ああ」
「寂しくない?」
「寂しいのか?」
「寂しいね。好きな人と会えないってのは寂しいよ」
しみじみと語る秀一に『そうだな。寂しいな』と返したら、これまた意外な顔をされた。
綾乃はグラビアアイドル『黛 あやの』として、今日もどこかのスタジオで多くの男の目に晒されている。
彼女は仕事を辞めるつもりはなく、自分の選択が大樹を傷つけると認めた。
否定はできなかった。あの日の撮影会で散々に思い知らされた。
綾乃がさらに広い世界で活躍するならば、苦しみは天井知らずになる。
しかし、大樹は『終わりにしよう』という彼女の言葉を跳ねのけた。
傷つくのは構わない。
どれだけ苦しんでも構わない。
綾乃が好きだ。愛している。ハッキリ伝えた。
綾乃は涙を流して喜び――大樹を受け入れてくれた。
『私、今日も仕事だから』
一晩を共に過ごし、朝日が昇る頃に別れた。
あれから数日たったが、綾乃は学校に姿を現さない。
寂しげな綾乃を笑顔で見送ったことは、いまだ記憶に新しい。
「寂しいけど……まぁ、こればっかりは仕方がない。我慢するしかないってな」
「なんだか今日の楠は気持ち悪いな。素直過ぎる」
「酷い言い草だ。人間素直が一番なんじゃね?」
「しかも余裕を感じる。本当に気持ち悪い」
秀一は笑っていた。
大樹も笑った。
「あ、そう言えば」
「何だよ?」
「姉さんが、綾乃さんの夏の予定を聞いておいてほしいって」
「自分で聞けばよくないか、それ」
「わかってないな、楠は」
「わかってないって?」
「姉さんは、楠に綾乃さんを説得してほしいって言ってるのさ」
プールを貸し切るとか最高級エステとか、ふたりで物騒な話をしているのは聞いていたが……まさかこんなに早く実行に移すなんて思わなかった。
スマートフォンで目にしたゼロの数は半端なかったのに。
秀美が女性でよかったと心の底から思った。
容姿、財力、行動力。
家柄も良く、知性も話術もある。
強引でありつつも人を気遣う余裕もある。
同性だったら強力なライバルどころの騒ぎではなかった。
「うちが所有しているホテルに綾乃さんを招待して思いっきり遊びたいと姉さんは考えている。でも、真正面から綾乃さんを誘うと断られる可能性が高い。彼女は謙虚なうえに、なかなか人を懐に入れないタイプだ。だから、まず楠が綾乃さんと『どこかに遊びに行きたいな』と誘う。綾乃さんは『仕事で忙しいから』と断る。『仕事の邪魔にならなければいいのか?』と追いかけて、そこで姉さんの出番ってわけさ。何ならスタッフ一同もまとめてどうぞってな具合にね」
「回りくどい上に狡猾すぎる」
付け加えるなら財力にものを言わせすぎだ。
強力な手札を多数握っているうえに遠慮がない。
つくづく敵に回してはいけないタイプの人物である。
「そうは言うけど、楠だって姉さんの世話になったんだろ?」
「……まぁ、それはそうなんだが。つまり、お前が今ここにいるのも」
「計画の一環ってことだね。せっかくだから僕も相乗りするつもりだけど」
このイケメン、いい顔してセコイことを言う。
姉が貸しをちらつかせて大樹を使って綾乃を誘う。
そこに同行してあわよくば……という身も蓋もない作戦だった。
「ま、聞くだけならいいけどよ」
正面から堂々と誘った方がいいぞ。
きっと綾乃は断らないから。
そう付け加えた。
秀一は不思議なものを見る目を向けてきた。
「本当に素直過ぎる。ここまでくると不気味だ」
「秀美さんへの借りはさっさと返しておいた方がいいと思った。下手に策略を企てるより素直に『一緒に行きたい』って言った方がいい。アイツ、かなり興味あったみたいだしな」
……などといい感じなことを口にしつつ、心の中では全然違うことを考えていた。
――俺も乗っかった方がいいな。
人気急上昇中のグラビアアイドル『黛 あやの』を街のプールに連れて行くのは難しい。
その上、ふたりきりとなると……すでに指摘されたとおり、ほとんど無理筋だ。
ならば自分も、秀一同様この計画に相乗りしたほうが好都合というもの。
大樹はあくまで綾乃を応援し続ける。
彼女の芸能活動を妨げることはしない。
そのために使えるものはなんだって使う。
想いを抱くだけでは不十分。頭を捻って道を探して……きっと、ずっと、その繰り返しだ。
胸の奥に決意はある。
以前よりも遥かに強い。
でも――心は凪いでいる。
迷いはないし、揺らぎもない。
「姉さんに借りを作るとロクなことにならないのは間違いないけど……なんかこう、余裕がありすぎるな。楠、何かあったのか?」
「何もない」
訝しむ秀一の眼差しをスルーして、空を見上げた。
どこまでも広がる青い空。白い雲。
梅雨の合間の空は、後に続く季節を予感させる。
「……もうすぐ夏なんだな」
高校二年生の夏。
その言葉に特別な響きを感じた。
湧き上がる感情を、昂る欲望を自覚する。
秀一に見えない角度でスマートフォンの待ち受け画像に目をやった。
以前そこには中学時代の『黛 綾乃』が表示されていた。
今は、つい先日撮影した『黛 あやの』の水着姿が表示されている。
――綾乃、ちゃんと仕事頑張ってるか?
遥か彼方の恋人を思い、そっとため息をひとつ。
自分ごときが心配する必要はないと心の中で嘯き、首を横に振った。
『察する』とか『わかったつもり』とか、安易で勝手な思い込みはやめると決めた。
ふたりの関係が軋み始めた原因は、綾乃と語り合ったとおりだ。
近しすぎたが故の信頼とディスコミュニケーション。
心配なことは心配だと、素直に言えばいい。
「楠?」
「何でもない」
ただし、綾乃に限る。




