第17話 あの子が水着に着替えたら えくすとらすてーじ! その3
「どこって洗面所に決まってるじゃない」
あまりにあっさりと返ってきた答えに、大樹は絶句した。
綾乃の現状認識が甘すぎることに驚いた。
「え……その恰好で? マジで? お前、割とガチめの変態だぞ、それは」
ここは大樹の家で。
今はもう夜で。
両親がいて。
そして綾乃は――水着姿だ。
大樹が選んだ、かなりエロ目の奴。
なんかもう色々とヤバい。ヤバすぎる。
「……たぶん大丈夫じゃないかな。もう夜も遅いし」
楽観的過ぎる綾乃の言葉に息が止まりかけた。
思いっきり叱りつけたくなる衝動を必死に抑えた。
迂闊に声をあげると、両親が目を覚ますかもしれない。
そんなことになったら朝まで説教確定で、本末転倒甚だしい。
「頼むから服を着てくれ。親父たちに見つかったらなんて言われるか……って、お前、ここに来るまでの間にお袋に会った?」
懇願しているうちに勝手に出てきた言葉だった。
口にするなり耐え難い苦みが広がっていく。
綾乃は……曖昧な笑みを浮かべている。
「あいさつしたわよ。勝手に人様のお宅に上がり込むわけないんですが」
「……そっか」
眠っていたとはいえ不覚を取った。
大樹の母は綾乃を可愛がっていた。
中学生の頃の、ガリ勉気味で生真面目な綾乃を。
今の綾乃に対しては――あまり良い感情を抱いていない。
そんな母と綾乃が顔を会わせてしまった。自分が間に入ることもなく。
「……言いたいこと、わかるよ。おばさんたち、私を見て引いてた。ま、仕方ないかなって」
「仕方ないって、そんなこと言うなよ。お袋たちにはあとで俺からちゃんと話す」
自嘲気味な、諦め気味な綾乃の口ぶりが腹立たしかった。
綾乃が自らに恥じるところがないように、大樹も今の綾乃を恥じることはない。
しかし、他人が自分たちのことをどのように見てどのように解釈するかは別の話になる。
両親、特にかつて彼女を大切にしていた母親にも、綾乃の胸中を、仕事にかける情熱と覚悟を、そして自分たちの思いを知っておいてほしかった。彼女の本気を軽んじて欲しくなかった。
そして、それを伝えるのは息子である大樹の役目だ。
「ありがと。でも、大樹はご両親と仲良くしてほしいな。私のために喧嘩とかしないでね」
「綾乃?」
引っ掛かる口ぶりだった。
眉を顰め、問いを重ねようとした。
湧きあがった疑念は、カラカラになった喉を通って――
「ごめん。一応上に羽織るものだけ貸して」
「おう、それじゃ……これでいいか?」
追及してくれるなと綾乃の瞳が語っていたから、口を閉ざした。
代わりにクローゼットを開けて夏用の上着を取り出し、綾乃の肩にかけた。
ストラップレスのチューブトップブラとビキニパンツ以外何も身につけていない、その白い肢体に自分の服を着せる。
妙な興奮を覚えた。
「うん。うわぁ……大樹、やっぱり大きくなったねぇ」
上着に頬をよせる綾乃の声は弾んでいた。
素直な感動が溢れ出した、耳に心地よい響きだった。
いったい何が嬉しいのかイマイチ理解が追い付かなかったが、褒められれば悪い気はしない。
「無駄に身長だけ伸びてもなぁ」
「無駄ってことはないと思うけど」
「綾乃は……背が高い方が好きか?」
綾乃の男性の好みなんて聞いたことがなかった。
ありがちな話題なのでインタビューで触れられることはあった。
もちろん大樹はすべて目を通していたが……基本的には内面を重視しているように見えた。
『優しい人』『頼りになる人』『自分を受け入れてくれる人』『悪いことをしたら、ちゃんと叱ってくれる人』などなど。
嘘をついているとは思わなかったが、『ありきたりだな』とは思った。
実質的に何も語っていないに等しい。
商品として出版される書籍や、宣伝目的の記事にマイナスイメージに繋がりかねないことが書けないのは理解するが……
大樹の場合は、他のファンとは違う。
仕事と関係ない現実で綾乃に近しい、ほとんど唯一の人間。
その立場を活用すれば、直接本人に尋ねることは今までだってできたはずだ。
――でも、聞きづらいんだよなぁ。
現在の大樹と似ても似つかない理想像を語られることを恐れていた。
逆にそっくりそのまま自分をあてはめられても、それはそれで揶揄われているように思えてしまう。
どっちにせよロクな結果にならないことが目に見えていて……ならば、綾乃の本心を疑うようなことはしたくなかった。
今だって、その気持ちに変わりはない。
自分のことが好きだと言ってくれたのだ。それでいいじゃないか。
余計なことをするなと口を塞ぎたくなる自分がいる。
でも――彼女に釣り合う人間になりたかった。彼女が好む人間を目指したかった。
恥ずかしさはあったけれど、勘違いしたくなかった。ひとりで妄想をたくましくして、とんでもない方向に暴走なんてしたくなかった。
だから、本人に聞く。
……まぁ、今までよりも一歩前進できているとは思った。
「別にどっちでも。私は大樹が好きだから、大樹だったら背が高くても低くても関係ない」
好きな異性のタイプはない。
ただ、自分のことが好き。
その言葉に感動を覚える。
それはそれとして――
「おま……そういうことサラッと言うの、ずるくね?」
「こう見えても、私、日々成長しておりますので」
「……確かにな」
メンタル的な意味での成長と、コミュニケーション的な意味での成長が著しい。
自分との差を見せつけられたように感じられて、照れ隠しに胸元に目をやった。
そこもまた、成長著しい。
中学三年生の頃は直に見る機会はなかったけれど……当時より確実に育っている。実っている。大豊作だった。
大きいが大きすぎない。
絶妙なバランスが維持されていて、見ているだけで幸せになる。
「大樹」
「何?」
「私はグラビアアイドルで、身体を見てもらうのが仕事だけど……真面目な話をしている時に胸をガン見するのは良くないと思うし、胸を見て『成長してる』っていうの、人としてちょっとどうかと思う。ジョークのつもりでも面白くないし、私以外の女子にそんなことしたらセクハラで訴えられても文句言えないと思う」
「正直、俺もそんな気はしてた」
ド正論だったので素直に認めた。
照れ隠しであることも、きっとバレている。
素直になれない自分にもどかしさを覚えるが、カッコ悪い自分に綾乃は柔らかく微笑んでくれる。
「ば~か。じゃ、待っててね」
「ああ……って、待て」
「今度は何、大樹?」
水着姿で部屋の外に出ようとして一度止めた。
上着で肌を隠して外に出ようとした綾乃を、再び止めた。
振り向いた綾乃の眼差しには、明らかな不審と不満があった。
それでも、たとえ彼女の不興を買ってでも確認しなければならないことがあるのだ。
気づきたくはなかったが、気付いてしまった以上は無視するわけにもいかない大きすぎる疑問が。
「いや、その……お前、時間は大丈夫なのか?」
年頃の娘が夜遅くまで帰ってこない。
どう考えても大問題だろう。特に黛家は色々とうるさいのだ。
綾乃が『両親と仲良く』とアドバイスしてくれた時に違和感を覚えた。
それは……裏返せば、自分は家庭内に不和を抱えていると言っているようなものだ。
「ん?」
「いや、その……お前の両親はどうなのか、と思うわけで……」
「仕事で今日は帰らないって言ってあるから大丈夫」
「それ、ほんとに何ともないのか?」
返ってきた答えは、俄かには信じがたいものだった。
記憶にある彼女の家族――特に綾乃の母親の姿とまるで一致しない。
ジーっと見つめると、整った顔に笑みが広がる。曖昧で不安を覚える笑みだった。
「うん……まぁ」
「お前、まだ何か俺に言ってないことあるな?」
「……それじゃ、行ってくるから」
案の定と言うべきか、綾乃は露骨に言葉を濁している。
確信した。自分が知らなかったこと、知らされていなかったことがある。
根掘り葉掘り聞きだすつもりはなかったが、今後の交際を考えるために必要な情報は共有しておきたいと思った。
今すぐここで確認すべきか。
後回しにすべきか。
――迷うな、これは。
綾乃の態度がとにかく怪しかった。
プチ家出したと言う話を聞かされていたから、余計に心配になってしまう。
――ちょっと待てよ。
そもそも、さっきの話はおかしい。
家出してスカウトされて、それからどうなったんだ?
時系列順にエピソードが並んでいるだけで、前後が繋がっていない。
いかにして綾乃がデビューに至ったのか、肝心な部分が曖昧にされたままだった。
問いただしたい気持ちが強かったが、あまり話を引っ張ると写真を撮ることを先送りにしようとしている……なんて邪推されたら本末転倒だ。
話題を蒸し返すのもイメージが悪い。
「はぁ、わかったから。あとで話してくれよ」
「はいはい」
「隠してることが色々あるみたいだけど、今は聞かない。ほら、さっさと行ってこい。親父たちは……そろそろ寝てるはずだけど、くれぐれも気をつけろよ」
「……ありがと」
聞かないでくれて。
桃色の唇が、声にならない言葉を紡いだ。
申し訳なさげに目を伏せたのは、ほんの一瞬で。
あっという間に気を取り直し、軽い足取りで階下の洗面所に向かう綾乃。
自分の上着に隠された背中を見送って、大樹はベッドに腰を下ろした。
手元には因縁のカメラがあって、綾乃が去った室内は静寂に包まれていて。
大樹の心臓が不規則に暴れ回る。いつの間にか口に溜まっていた唾を飲み込んだ。
興奮と緊張の狭間から、軋んだ声が零れ落ちる。
「これから……綾乃を撮るんだ」
楠家も黛家も問題を抱えている。
でも、ひとまず今は置いておく。
『楠 大樹』が『黛 綾乃』と向かい合うこと。
それが今この瞬間に一番大事なことで、この撮影は大切な通過儀礼に違いなかった。
「綾乃を、撮るんだ」
繰り返し、強く呟いた。
自分に言い聞かせるように。
カメラを持つ手が、震えていた。




