第13話 あの子が水着に着替えたら その11
綾乃が泣いていた。
笑顔で泣いていた。
大樹と綾乃、ふたりがお互いに想いを通じ合わせていると確認できた。
嬉しい。
今日が人生で一番幸せ。
だから……このまま別れよう。
否、付き合っていないのだから別れるも何もない。
お互いを傷つけることのないように、始める前に終わろうと言葉を続けた。
なぜなら、綾乃にとっては大樹とグラビアアイドルの仕事はどちらも大切で、本当はどちらも欲しいと願っていて、どちらか一方を選ぶことなんてできなくて……でも、それは自分の我がままに過ぎないこともわかっていて――
「ごめん、ごめんね……」
泣きながら、謝っている。
後から後から零れ落ちる涙とともに。
――綾乃……
口を開くことができなかった。かけるべき言葉が見つからなかった。
仕事と自分を秤にかけられたことに腹は立たなかった。
別に不思議だとは思わなかった。
デビュー以来の彼女を見ていれば、綾乃が仕事に対して並々ならぬ愛着を感じているのは一目瞭然だったから。
嫌いな自分を好きになることができた切っ掛けともなれば、思い入れも半端なかろう。
それほど大切な仕事との比較対象に大樹が挙げられたことは、むしろ誇るべきなのかもしれないとさえ思った。
「綾乃……」
呼びかけても返事はない。
ヒックヒックと泣き声だけが返ってきた。
思い返してみれば、彼女が涙を流すところを初めて見た。
大樹の心臓がこれほどまでに苦しく締め付けられた記憶は、今までに一度もなかった。
――クソッ……
断じて認めたくはなかったが……どんな言葉も説得力を持たないことを認めざるを得なかった。
今日の自分を見ていれば、綾乃がその結論に到達するのは必然だとさえ思った。
綾乃が撮影会に参加して、際どい水着姿をファンの前で披露して。
ファンたちと和気藹々と語り合って。
すべて見ていた。すべては大樹の前で行われた。
ひと言も口を差し挟むことはできなかった。
事前に綾乃から『仕事の邪魔をするな』と言われていたこともある。
でも、それ以上に苦しかった。
自分以外の人間に愛想を振りまく綾乃を見るのが。
喉に張り付いた言葉が、形にならなかった。余裕なんてなかった。
彼女の言葉にはひとつも間違いがなく、仮に付き合ったとしてもお互いを傷つけあうと確信できて、ならば――
――ならば、なんだよ?
頭の奥から声が聞こえる。
誰あろう、自分の声だった。
今まで耳にしたことがない声だった。
怒声であり罵声であった。侮蔑があり、嘲笑があった。
永らく胸の奥でドロドロと渦巻いていた激情が、明確な輪郭を得て姿を現した。
あまりにも醜いその感情が誰に向けられたものか、わざわざ考える必要はなかった。
矛先は、決して綾乃ではない。
大樹の怒りは、あくまで大樹自身に向けられたものだ。
――綾乃が、泣いてるぞ。
目の前で。
大好きだと言ってくれたその口で、終わりにしようと嘯いた。
両想いだってわかって人生で一番幸せだって言ってくれた、その口で。
今だって表情は壊れたままで、涙を零し続けていて。
どれほど目が節穴でも見間違えることはない。
彼女の本意でないことは明らかだ。
――なあ、お前……何やってんの?
「……うるせぇ」
ざらついた声が、大樹の心の一番深いところを抉ってくる。
自分の声だから無視することはできない。
耳を塞いでも意味はない。
「大樹?」
頭の中で喚く声に耐えかねて、文句が口をついて出てしまった。
いまだに枯れる様子を見せない涙をぬぐいながら、綾乃が首を傾げている。
――なぁ、お前さぁ……何様のつもりなわけ?
「くそっ……うるせぇって言ってんだよ」
「大樹、あの、ごめん、私……泣くの止めるから。すぐに泣き止むから」
「いや、違う。そうじゃなくって、その……今のは違うんだ。俺は、綾乃が好きだ。それは信じてほしいんだ」
必死に謝る綾乃に申し訳なさを覚えて、零れた本音を繰り返した。
言い訳じみた言葉に告白が入り混じって泣きたくなった。
しかし、今は己の不甲斐なさを嘆いている場合ではない。
後悔も反省も、すべて後回し。何よりも綾乃が最優先だった。
「うん、嬉しいよ。でも、だから、これ以上は」
「いや、待ってくれ。俺の話を聞いてくれ。俺は……お前のことが大好きだ」
「……大樹?」
震える声。
潤んだ瞳。
かすかに傾げられた首。
揺れる黒髪。
何もかもがきれいで、いとおしい。
大樹の胸の奥から感情が溢れ、決壊した。
切っ掛けは目を覆いたくなるほどにダサかったが、この機会を逃したら後がないことは間違いないと知った。
だから――ここからが勝負なのだ。
人生を賭けた、一世一代の勝負なのだ。
「綾乃」
「う、うん」
「何度でも言うぞ。俺は、お前が大好きだ。ずっと恋してた……いや、今も恋してる」
「え? でも、それはダメだよ。私は、私と一緒だと、私が……大樹を傷つけちゃう」
『好き』と言われて表情を輝かせ。
『傷つける』と口にして意気消沈。
綾乃の表情は忙しく姿を変える。
――傷つける……か。
自らの胸を抑えた。
じくじくと痛みを訴えてくる。
昼間の撮影会で刻まれた傷は、今なお大樹を苛んでいる。
初めて目にした綾乃の艶姿。
生々しすぎる色香。
衝撃的だった。
――違うだろ。
心の中で独り言ちる。
大樹が最も衝撃を受けたのは、綾乃が彼らの性欲を受け入れていたこと。
ショートパンツを脱げと言われたら、焦らしたうえで頷いたこと。
綾乃の顔に浮かんでいたのは、普通の笑顔ではなかった。
あれは――男の情欲を誘う妖艶な笑みだった。
思い出そうとするだけでゾクゾクして、同時に吐き気がする。
見なかったことにはできない。
苦しい。
狂おしく苦しい。
頭がおかしくなりそうだ。
「苦しいよ。辛いよ。お前が……好きな子が俺以外の男の前でそんなエロい格好して、いやらしい目で見られるんだぜ。それを自分の意思でやってるって、楽しいって言うんだぜ。顔も名前も知らない俺以外の男と仲良くするんだぜ。そんなの嬉しいわけないだろって。そんなの当たり前だろって」
「……」
わかりきったことを、あえて口にした。
涙が止まらないままに、綾乃の顔から表情が消えた。
自覚はあっても言葉にされるとショックが大きいのだろう。
「でもな、でも……苦しいだけなんだ。辛いだけなんだ。嬉しくないってだけなんだ」
苦しくて胸が張り裂けそう。
辛い光景が目蓋に焼き付いている。
綾乃の笑顔が嬉しくない、そんな自分が腹立たしい。
心の中から響いてきた声は、間違いなく大樹の本音だった。
――認めろ、俺。
綾乃を愛している自分も。
綾乃に関わるすべてに嫉妬している自分も。
どちらも自分だった。どちらかだけが自分なのではない。
どちらも自分ならば、どちらも飲み込むことができるはずだった。
違う。
できるはず、ではない。
どちらも飲み込んでひとつにまとめて、綾乃に向かい合わなければならない。
どちらかの自分から目を背けている間は、綾乃の想いに応える自分にはなれない。
――人を好きになるって、難しいな。
甘い気持ちに満たされることはある。
苦しみを抱えて胸を掻きむしることもある。
嫉妬にのたうち回って眠ることができない夜もある。
会うことができない綾乃に想いを馳せてため息を吐く昼もある。
「大樹?」
「だからどうした。それがどうしたってんだよ。辛かろうが苦しかろうが、嫉妬で頭がおかしくなろうが、それがどうしたってんだよ。そんなことどうでもいいくらい、俺は綾乃が好きなんだ!」
もはや絶叫となった言葉を紡ぐ大樹の脳裏に、秀一の顔が思い出された。
『池上 秀一』は同じ学校に通うカリスマイケメン。
見た目だけではなく中身も際立った男であることは、同性でも認めざるを得ない。
わざわざ律義に『綾乃に告白する』と大樹に告げて実際に告白してフラれ、なお『お友だちから』と綾乃に食い下がっている。
あの男のことを、軽く見ていた。
無様な姿を見下してすらいた。
『なぜ?』と首を傾げていた。
『フラれたくせに、何で綾乃に付きまとう?』
その答えは実に単純なことだ。
秀一は、心の底から綾乃に惚れている。
ただ、それだけのことだった。それが何よりも大切なことだった。
だから、あの男は一度フラれたぐらいで簡単に諦めることができないのだ。
綾乃の笑顔が自分に向けられていなくとも、綾乃の心が自分に向けられていなくとも。
秀一は決して諦めない。どこまでも『黛 綾乃』を追い求めている。
完全に決着がつくまで、決して諦めたりはしないだろう。
それは――見た目ほど簡単にできることではない。
たった一度綾乃の仕事を垣間見ただけで心折れかけていた自分には、秀一を笑う資格はない。
――池上にできることなら、俺だってできるだろ。できるようになるんだ!
ふつふつと闘志が湧き上がってくる。
同じ男として、同じ女を愛する男として、絶対に負けたくない。
あの男が綾乃に恋する以上に、自分は綾乃に恋している。
ならば、こんなところでヘタレてはいられない。
ましてや自分は、『楠 大樹』は『黛 綾乃』に愛していると言われたのだ。恋していると言われたのだ。
綾乃は、こんな不甲斐ない自分のために泣いてくれるのだ。
綾乃は、今にも壊れそうな顔を自分に向けて謝罪するのだ。
――だったらッ!
醜い心を認めて飲み込め。
綾乃を愛する心を胸に抱いて意地を張れ。
自分の心が壊れることと、綾乃の心が壊れること。
どっちがより大きな問題かと問われれば、後者に違いない。
――グダグダ抜かすな。男だろ、耐えて見せろよ。
心の奥深くから、揶揄い交じりな声が聞こえてくる。
自分の声だ。『やってやるよ』と笑い返した。
他にできることなんて、何もないのだ。
「ちゃんと話し合おうって言ったばっかりじゃないか。なのに、ひとりで『終わりにしよう』とか決めないでくれよ。俺は……お前との関係を、こんなところで終わらせたくない」
「え……」
「俺は綾乃を傷つけたくない。苦しめたくない。もちろん俺だって傷つきたくない。でも、それでも……綾乃、お前は俺を好きにしろ」
傷つけろ。
苦しめろ。
そのすべてを受け入れる。
なぜなら――『楠 大樹』は『黛 綾乃』を愛しているから。
何よりも大切な想いを守るためなら、何だってやってみせる。耐えてみせる。
見栄を張って笑顔を返したつもりだったが……自分でも自覚できるほどに口元が強張っていて、微妙に格好がつかなかった。




