第12話 あの子が水着に着替えたら その10
「うん。大樹は私のことを褒めてくれるから、大樹は私のことを、私の仕事を理解してくれているって勘違いしちゃった」
綾乃の言葉は自嘲まみれで、聞かされている大樹の胸を強烈に締め付けてくる。
勘違い。
嫌な予感がした。
彼女が意図するところに心当たりはあった。
「綾乃、それは……」
「私がグラビアアイドルやってることを大樹はちゃんと理解してくれている。グラビアアイドルがどんな仕事なのか、何をやっているのか。ちゃんとわかってくれている。ずっと、そう思ってた……でも、違ったね」
「……」
『違わない』
そう言いたかった。
言えなかった。
なぜなら――大樹も同じことを考えていたから。
自分は綾乃の仕事を理解できていなかった。
理解したつもりでいただけだった。
「麻里さんから撮影会の参加者リストを見せられて、大樹の名前があってビックリした。何でって驚いた。どうして先に言ってくれなかったのって」
「……」
「頭の中はグチャグチャになっちゃって、アルバイト先まで押しかけて。喧嘩になっちゃったよね。『おかしいな?』って思ったんだけど、それどころじゃなかった。とりあえずメッセージ送らなきゃって。これまでも初めて来てくれた人って色々あったから。ホント、わけわかんなくなった。わけわかんなくなったけど……私は、大樹に一番最高の私を見てほしかった。だって、大樹は私の一番の理解者で、ずっと傍で応援してくれてた一番大切な人だったから。周りの誰からも嫌な顔されてる中で、大樹だけが最初から私の味方でいてくれたから。だから『私、凄いでしょ。頑張ってるよ』って胸を張りたかった。仕事のことは色々あって話せないことも多いから、せめて実際に見てもらって大樹を安心させたかった。自分では頑張ったと思う。麻里さんも今日の私は凄かったって、次のステージに行けるって褒めてくれた。でも……大樹は……」
白い指が、ベッドに置かれたチェキを拾い上げた。
仏頂面はお互い様だったけれど、大樹だけは顔面蒼白だった。
綾乃は顔をこわばらせてはいたものの、不器用なりに笑みを浮かべようしていた。
「写真を撮ってくれたのも私が指示した最初だけ。あとはずっと撮る真似をしてただけ。『あれ?』って思ってたら、みるみる間に顔色が悪くなって……うん、私が頑張れば頑張るほど、どんどん大樹の様子がおかしくなって。『何で? どうして?』って聞きたかったけど、ひとりだけ話しかけるなんて依怙贔屓もできなくて」
「……お前の言うとおり、俺はお前の仕事をわかってなかった。頭の中ではわかってるつもりだったのに、実際は何にもわかってなかった」
大樹が知る『黛 あやの』は、雑誌なりインターネットなり、あるいはSNSに掲載された写真だけ。それは間違いなく綾乃の仕事の成果ではあったが、仕事の内容をそのまま顕したものではなかった。
そこに気づかなかった。
ほんの些細な違いであったが、大きな違いでもあった。
喉から絞り出した答えに、綾乃は静かに頷いた。
「別に今日だけが特別ってわけじゃないよ。私の写真は全部誰かによって撮られているもの。現場には常に人がいる。そんなことは私にとっては当たり前すぎて、だから大樹だってわかってくれてる。そう思ってた」
「……いつもとは違うんじゃないか?」
「違うって?」
「カメラマンとかスタッフとかはみんなプロだろ。だからグラビア撮るって言ってもそれは仕事で、余計な感情なんて差し挟んだりは……」
「違わないよ。ハッキリ言うけど、ファンだろうとカメラマンだろうとスタッフだろうとみんな同じ。みんな私のことをえっちな目で見てる。そして――私はそんなみんなの視線を受け入れている」
綾乃の言葉に耳を疑った。
至近距離であるにも拘らず、聞き間違えたかと思った。
性的欲望を向けられることをあれだけ倦厭していた少女の言葉とは信じられなかった。
「綾乃は……それでいいのか?」
「うん。えっちな目で誰かに見られるのって、別に今に始まったことじゃないしね」
あっさり肯定されて驚愕し、続く言葉に絶句した。
大樹が想像していたよりも、綾乃を取り巻く状況はずっと厳しいものだった。
日々向けられる眼差しのひとつひとつがどれほど彼女の心を苛んできたのか、とてもではないが思い至ることはできなかった。
「服を着てようが着てなかろうが、身体を縮こまらせようが胸を張ろうが、私はずっとそういう目で見られ続けてきた。きっと、ずっとそういう目で見られ続ける。昔はそれが嫌で、そんな未来がずっと続くって考えると辛くて、でも……それはいやらしい目で見られるような身体をしている自分が悪いって思ってた」
「今は、違うのか」
「うん、違う。恥ずかしいけど楽しいよ。みんなが私に夢中になってるって思うと、むしろテンション上がるかな」
「楽しいって……恥ずかしいのに?」
「恥ずかしいと楽しいは矛盾しないと思う。この仕事を始めてから意識の持ち方が変わったかな。う~ん、私も上手く説明できないんだけど……男の人に女として見られたり扱われたりすると嬉しくなるって言うか興奮するって言うか……こう、身体の内側からカーッと熱が湧き上がってくるって言うか……いや、それじゃ私、ただの変態みたい」
「変態って……そんなことは、ないと思う」
『変態』という自虐じみたネガティブなワードを否定してみたものの、声に力は籠らなかった。綾乃の感性がイマイチ理解できなかったからだ。今日の撮影会で目にした『黛 あやの』の姿が、大樹の想像をあまりに超えていたからだ。綾乃の言葉は、あの姿を目にした衝撃を解釈するのに、あまりにもきれいに嵌ってしまっていたからでもあった。
「ううん、私は変だよ。変って言うか価値観とか倫理観がズレてる。教室でみんなと話してても『違うな』って思うこと結構ある。人前であんな格好して恥ずかしくないのって揶揄われるたびに『何言ってんの?』って心の中で首を傾げてる。顔にしても胸にしても持って生まれた才能だと思う。才能を努力で磨いて仕事にするの、そんなにおかしい?」
別に法を犯してるってわけじゃないのに。
そう付け加えた綾乃は、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「綾乃……」
「おかしいよね。おかしいって言うか……最近、仕事関係以外の人と全然話が噛み合わないの」
「綾乃……それは……」
「ま、そんな感じ。私は……大樹が思ってるような女の子じゃないよ」
微笑んで付け加えられた言葉は、大樹にとって救いになっていなかった。
綾乃は自らを取り巻く状況を受け入れ、適応しようとしている。
否、もうほとんど適応はできているのだろう。
自分の才能を努力で磨き上げ、その成果を認めてくれる世界をこそ綾乃は望んでいる。
間違ってはいないと思った。
でも、極端な発想だとも思った。
ここが彼女の人生の岐路だと直感した。
だから、軽々と結論を出すことに躊躇いを覚えた。
「なぁ、綾乃……こんな仕事」
「こんな仕事って言わないで」
今まで意識して抑えていた『こんな仕事』という言い回しに、綾乃は大樹の想像を超えて強い反応を返してきた。
「私、この仕事気に入ってるから。別に麻里さんとか他の人に何か吹き込まれたってわけじゃないよ。いや、そういうのもあったかもしれないけど……ううん、違う。私は私であることを辞めることはできなかっただろうから、麻里さんと出会わなければ人目を避けることだけに汲々とする惨めな人生を送ってた。そんな人生は……嫌だよ」
「俺が……お前を守る。お前を苦しめたり悲しませたりする何もかもから、お前を守る。それじゃダメなのか?」
咄嗟に口をついて出た言葉には何の根拠もなかったが、何ひとつ偽りはなかった。
自分の全身全霊をかけて綾乃をありとあらゆる災厄から守ると、胸を張って誓える。
でも――綾乃は首を縦に振ってくれない。
「ダメだよ、大樹。私が私を好きになれなければ、私は幸せになれない。私を好きな大樹に私を守ってもらって認めてもらって好きって言ってもらえても、それじゃ大樹に依存するだけ。そんな私を私自身が認められない。『大樹がいなくなったらどうするの?』とか悩むだけだろうし、『大樹が傍にいてくれなきゃ嫌』とか言って束縛しちゃいそう。そんな私は……もっと嫌だよ」
「綾乃……」
「大樹に好きって言ってもらえて嬉しかった。だって、私も大樹が大好きだから。好きと好きが重なるって……凄いね。恋が叶うって、両想いってこんなに嬉しいんだって涙出た。今がきっと生まれて一番……ううん、人生で一番幸せ」
「だったら!」
綾乃は首を横に振った。
短く切り揃えられた髪が、ふわりと揺れた。
伏せられた眼差しが再び開いた時、そこには静謐があった。
「私の本音を言うね。私は大樹が大好き。グラビアアイドルの仕事も大好き。ドラマの仕事も貰えた。これから仮に女優になったとしたら、キスシーンとかベッドシーンとか過激な仕事もあるって聞いたけど……チャレンジしたいって思ってる。うん……もっともっと仕事に嵌りそうって、そんな予感がある。私、この仕事が好き。勉強なんかよりもずっと好き」
透き通るような笑顔だった。
昏い表情で俯いて、生気のない濁った瞳で近づくものを片っ端から睨みつけていた綾乃。
前を見ることすらできなかった中学生時代の彼女からは想像がつかない、あまりにも眩しい表情だった。
この顔を守りたいと、心の底から願った。
たとえそこに致命的な矛盾があろうとも。
「私は大樹も仕事もどっちも欲しい。厚かましいけど、それが本当の本音。出来ると思ってた。だって……大樹は私のことを、私の仕事を理解してくれているって思ってたから。でも、違った。今日のことでわかった。私が何もわかってなかったことがわかった。私が仕事を続けると大樹を傷つけるって、やっとわかった。ううん、これまでもずっと傷つけ続けてきたってわかった。私は……私が一番大好きな一番大切な人を――大樹をこれ以上傷つけたくない。私もこれ以上傷つきたくない。だから……」
「だから?」
「私たち、ここまでにしよう」
『楠 大樹』は『黛 綾乃』が好き。
『黛 綾乃』は『楠 大樹』が好き。
ふたりは両想いで、そこで終わり。
お互いにこれ以上傷つけあうことなく、ここからは別の道を行く。
いつか再会した時に、過去を懐かしんで笑い合えるような関係になれればいい。
「私たち……一緒になれなくても、ずっと、ずっと……」
そう続けた綾乃の声は震えていた。笑顔のまま泣いていた。
キラキラと輝く漆黒の瞳からは、後から後から水滴が流れ落ちた。
「あ、あれ……ダメ、こんなのダメだって……今、泣いたらダメだよ。止まって……止まってよぉ……ごめん、ごめんね大樹……こんな私で、ごめんね……」
白い指がどれだけ拭っても涙は止まることはなかった。
でも、それでも――綾乃は自らの弁を翻そうとはしなかった。
言葉を失ったままの大樹は、ただ綾乃を見つめることしかできなかった。




