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第7話 たりなかったもの その2

 大樹(たいじゅ)が尋常な状態でなかったことは明白だった。

 証拠は綾乃(あやの)が差し出した紙切れもといチェキ。

 生気がなさすぎて蒼白になっている自分の顔を見せられてしまえば、どんな言い訳も意味をなさない。

 ……とは言え素直に認めるわけにもいかず、反論の言葉を探しながら正面の綾乃と向かい合う。

 整いすぎた顔立ちに浮かんでいるのは、演技じみた表情ではなかった。

 心の底から大樹を心配しているし、大樹に腹を立てている。

 煌めく漆黒の瞳、間近で目にする綾乃の圧が強すぎる。


「悪かったよ」


 もう一度、謝罪の言葉を口にする。

 先ほど素直に口をついて出たのと同じ言葉ではあったが、今度は若干の棘があった。

 眼前に迫った瞳、長いまつげに縁どられた煌めきがスッと細まった。

 大樹の中に芽生えた些細な感情の動きを、綾乃は敏感に察知して見せた。

 罪悪感と喜びが入り混じった感情が溢れてきて、我が事ながら情けなく思った。


「何か言いたいことあるの?」


「……別に」


 詰め寄られて視線を逸らした。

 言いたいことなんてないと答えはしたが、本当は言いたいことなんて山ほどあった。

 ただ、それを口にすることが憚られただけ。


「ウソ」


「ウソじゃねーよ」


「ううん、絶対ウソ。大樹、ウソついてる」


「何なんだよ、その確信的な押し付けは。俺は何もないって――」


 一方的な物言いにカチンときて、ヒートアップしかけて。

 でも――限界を突破することはなかった。

 大樹を見据える綾乃の瞳は静謐を保っていて、艶めく唇から紡がれる声は自信に満ちていたから。

 口ごもったまま見つめていると、桃色の唇がわずかに開いて涼やかな声が零れた。


「私はあるよ、言いたいこと」


「綾乃?」


「私……大樹に言いたいこと、あるよ。だから、大樹だって私に言いたいことがあるに決まってる」


 自分が言いたいことがあるから、相手も言いたいことがあるはずだ。

 綾乃が口にしたのは、まったくもって論理的でない説明だった。

 あまりにも身勝手すぎる。呆れて反論の言葉が出てこない。

 ため息をつこうとした大樹は……首を横に振った。

 筋が通っていようがいなかろうが――綾乃の言葉は大樹の心を正確に捉えていたから。

 言いたいことは、あるのだ。


「私たちさ、ずっと上手く行ってないよね」


「『ずっと』ってのが、いつのことからなのかは置いといて、最近は上手く行ってねーな」


 いきなりグサッと胸に突き刺さる言葉が飛んできたので、頷く前に思わずワンクッション入れてしまった。

楠 大樹(くすのき たいじゅ)』と『黛 綾乃(まゆずみ あやの)』のふたりの関係はギクシャクしている。

 綾乃に指摘されるまでもなく、大樹もそれは認めている。

 では……自分たちの関係が軋み始めたのは、いつのころからだろう?


 夢を見た。

 自分と綾乃の夢だ。

 初めて出会った中学生の頃。

 志望校を目指して一緒に勉強を頑張っていた頃。

 受験を終えるなり綾乃がグラビアアイドルになるなんて言い出した頃。

 一年間の高校生活を経て、今日の昼間に行われた撮影会の一部始終を、余すところなく夢で見た。


――タイムリーと言うか何と言うか……


 記憶を遡ってみると――高校に入るまでは、おかしなところはなかった。

 中学三年生の頃を思い出す。

 一緒に勉強して、一緒に帰って。一緒に悩んだり、一緒に愚痴を言いあったり。

 大樹が綾乃に誘いをかけた当初は問題外だったとしても、割とすぐに打ち解けたはずだ。

 お互いに以心伝心とまでは言わないにしても、すれ違いを感じることなんてなかった。

 同じ夢を目指して、同じ方向に向かって歩いていた。手に手を取って歩いていた。

 あの頃の自分たちは、きっと相手のことを誰よりもわかっていた。


「最近って言うか、高校に入ってから……ううん、私がグラビアアイドルとしてデビューしてからかな」


 綾乃がきっぱりと答えた。

 大樹だってわかっていた。

 夢を見るまでもなかった。


 ふたりがすれ違い始めたのは、綾乃がお見舞いに来てくれたあの日から。

 一緒に合格発表を見に行けなくなって、ひとりインフルエンザで苦しんで。

 ようやく持ち直しかけたとひと息つくなり、お見舞いに来てくれた綾乃から『私、グラビアアイドルにスカウトされたから』なんて宣言されて。

 わけもわからないまま応援した、あの日から。

 それは……もう一年以上も前の話だ。

 直近で言えば水着を買いに行ったあの日の印象が強烈だったが……元を辿ればずっと前からおかしかった。

 わかっていて、でも、認めたくなくて。

 ずっと目を背けていただけ。


「お前の言うことを認めるとしたら、俺たちはずいぶん長い間おかしかったってことか」


 あえておどけた口ぶりで返してみたら、真剣なまなざしで頷かれた。

 こほんと咳払いひとつ。綾乃の表情に彼女の本気を感じた。

 大樹は居住まいを正して綾乃と向かい合う。


「私は……上手く行ってるつもりだった」


 長いまつげに縁どられた瞳が、そっと伏せられた。

 目を合わせるのが辛い。全身が無言で語っている。

 綾乃も事実と向かい合うことに痛みを覚えている。


「言ってることが違うじゃねぇか」


「違わない。上手く行ってると思ってただけ。本当は行ってなかったってこと!」


 力のない小さな声は、慟哭に似ていた。

 震える声は怒りを湛えている。

 誰に向けられた怒りなのかと想像すると、綾乃はきっと自分自身を責めている。

 根拠はないが、そう思った。

 だから、見栄を張るのはやめた。

 綾乃ひとりを苦しめることは本意ではない。

 何もできない自分は、せめて彼女と苦しみを分かち合いたい。


「……ま、俺もしっくりこないなって思ってたよ」


 後頭部を掻きながら言葉を吐き出す。

 胸の奥に溜まった黒い泥は、沈殿したままだった。

 現実と向かい合ってしまったら、もっと激しく荒れ狂うと思っていたのに。

 意外と平静に状況を受け入れている自分に驚きを覚えないのは、目の前に綾乃がいるからだ。

 ひとりで認めるには辛い事実でも、ふたりなら受け入れられた。


「俺たちはおかしくなってる。それは認める。それで、どうすればいい?」


「話し合おう、ちゃんと」


 即答だった。

 ここに至るまでの間に、綾乃の中では結論が出ていたらしい。

 伏せられていた瞳が、再び正面から大樹を見据える。

 穏やかな眼差しと声に、強烈な意思を感じた。


「さっきも言ったけど、私は大樹に言いたいことが……ううん、言わなきゃならないことがある。ずっと上手く行ってるって思いこんでたのは、私の中に甘えがあったからだと思うから」


「甘え?」


『甘え』なんて言葉は綾乃に似つかわしくないと思った。

 親の期待を一身に受けて学業に勤しみ、今はグラビアアイドルとしても躍進している。

 彼女が自らをして『甘えている』なんて嘯くのなら、おそらく世の人間の大半は甘えん坊になってしまうだろう。

 もちろん大樹自身も含めて。


「『大樹なら、言わなくてもわかってくれる』」


「綾乃?」


 演技じみた綾乃の言葉に眉を顰めた。

 話の流れに飛躍を感じたからだが……綾乃の声に違和感はなかった。

 彼女の唇から出る言葉は、彼女の中では連続したストーリーを形成している。

 少なくとも本人はそう思っている。

 口を差し挟んでいる場合ではない。

 気を引き締め、目で続きを促した。


「『大樹なら察してくれる』」


「それは……」


「大樹も、そういうときってなかった? 『私なら』って考えたりすること」


「……あった、と思う」


 苦々しい味が口どころか胸の奥にまで染み渡っていく。

『綾乃なら大丈夫だろう』とか、何の根拠もないのに信じたり。

『綾乃なら言わなくても』なんて、ひとりで勝手に安心してみたり。

『綾乃なら』『綾乃なら』と納得したつもりになっていたことは多かった。


「それじゃダメだったんだと思う。『言わなくてもわかってくれる』とか『察して』とか、そういうのは全部甘えだったんだと思う。私たちは……横着せずにもっとお互いに話し合うべきだったんだと思う」


 大樹は綾乃の一番の理解者だって思いあがっていて。

 綾乃は大樹の一番の理解者だって思いあがっていて。

 そして互いに手を抜いた。横着して会話を惜しんだ。


『わかる』『察する』なんて耳障りのいい言葉に甘えた。

 知ったかぶりして、わかったつもりになっていた。

 実際は何もわかってなかった。大樹も、綾乃も。


 いいことも悪いことも。

 聞きたいことも、聞きたくないことも。

 何も語らず、相談せず、本当の意味で理解し合うこともないままに時を過ごした。


「スマートフォンなんて便利なものがあるのに、連絡取り合うなんて大した手間でもないのに。私たちはお互いがわかり合っているって思いこんでいたから、誰もが普通にやるようなコミュニケーションを欠いてしまった。それが……きっと私たちのすれ違いの始まり。大樹はどう思う?」


「俺は……」


 言葉に詰まったのは、綾乃の指摘が正鵠を射ていたから。

 何だかんだと理屈をつけてはいたものの、思い当たることだらけだった。

 彼女の口から語られた物語は、あまりにも正論過ぎて、あまりにも認めたくなくて。


「そうだな、俺も……そう思う」


 だから、目を逸らすわけにはいかなかった。

 綾乃から、自分から。

 今までに過ごしてきたふたりの時間から。


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― 新着の感想 ―
[一言] 二人が本気で向き合うことに決めたと。それはとても正しいのだろうけれど。ただ、どちらも自分の意思を通すと相手の想いを踏みにじることになるだろうから。 どう折り合って着地点を見つけるか。さて、彼…
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