第5話 土砂降りの中を その5
『私、グラビアアイドルにスカウトされたから』
何の脈絡もない言葉だったし、わけがわからなかった。
夢の中で見直してみても、やっぱり理解できなかった。
グラビアアイドルなんて、大樹の知る限り綾乃とは何の関連性も見いだせない職業だった。
それどころか、彼女は容姿を話題に触れられるのを嫌っている節があったし、何よりも目立ちまくる自身の豊満な胸を疎んじていたはずだ。
当時も今も別にグラビアアイドルに詳しいわけではないが、おおよそ綾乃が嫌がっていたアレコレを前面に押し出す職業であることに疑いようはない。
『お、おう?』
『『おう』って……それだけ?』
『いや、その……凄いと思う。頑張れよ』
『へぇ……応援してくれるんだ?』
『そりゃまぁ、応援するだろ』
『ふ~ん』
応援するかしないかと問われれば応援する。
友人としては当たり前の反応だと思ったし、相手が恋焦がれる女性ならばなおさらだと思った。
ただ、100パーセント心の底から応援できたかと言うと、答えは否だった。
……まあ、この時はインフルエンザが治りきっていなくて頭の中はグルグルしていたし、いきなりすぎる綾乃の宣言にビックリしすぎて、どう答えたらいいのか咄嗟に判断できなかったというのもあるが。
兎にも角にも綾乃を否定したくないと言う思いが何よりも先に立った。
綾乃は、そんな大樹を見下ろしていた。
今の大樹も、夢の中の大樹を後ろから見下ろしていた。
綾乃がどうこうよりも、自分がどんな顔をしていたのか全然わからなかった。
『じゃ、そういうことだから。私これから仕事あるから。それじゃお大事に、大樹』
トンデモ爆弾発言を残して立ち去る綾乃を引き留めることはできなかった。
『仕事』という異物めいた単語が、大樹の口を塞いでしまったから。
合格したら告白しようと決めていたのに、何も言えなかった。
――今見ても、これはしょうがなかっただろ……
この日以来、永らく大樹の中に後悔が存在し続けた。
『あの時ちゃんと綾乃に告白できていれば』と。
こうして夢で見直しても、つくづく思う。
仮にタイムスリップできても、たぶん結果は変わらないだろうけど。
『驚異の新人『黛 あやの』ちゃん(16)鮮烈デビュー』
グラビアアイドルになると綾乃に聞かされてから、それとなくそっち系のまとめサイトを巡回する癖がついてしまっていた大樹の目にビックリ仰天な見出しが飛び込んできたのは、高校生活にいまだ慣れないある日のこと。
震える指で見出しをタップすると――面積少なすぎる水着をまとった綾乃の写真が何枚も出てくるではないか!
おそらく彼女と最も近しい異性だったはずの自分ですら見たことがないと言うのに!
芸能事務所の公式サイトすなわちインターネットに掲載されている画像の転用であり、要するに世界中の誰もが目にする機会があるということで、そこまで思い至って息を呑んだ!
――心臓止まるかと思ったわ、あの時は。
次々と表示される画像の数々に、頭を鈍器でぶんなぐられたような衝撃を受けた。
記憶にある限り、大樹の人生においてあれほど驚いたことは一度もなかった。
思わず頬を抓ったら、しっかり痛かった。
夢でもなければ冗談でもない。
ただの現実だった。
画面をスクロールさせると『笑顔がぎこちない』的な書き込みも見受けられたが、記事への反応はおおむね好意的なものだった。
胸の奥から溢れてくるドス黒い感情に、歯を食いしばって耐えた。
高校に入って――芸能界デビューして綾乃は変わった。
野暮ったいおさげ髪を止めて、プロの手が入ったショートボブに髪形を変えた。
猫背気味に曲がっていた背筋を伸ばし、コンプレックスだったはずの胸を張るようになった。
整っていた顔を隠していた眼鏡を外してコンタクトを入れた。
制服の着方も、メイクも何もかもが中学生時代の地味な印象を払拭していった。
合わせてコミュニケーション能力も劇的に改善し、以前は遠ざけていた男子とも普通に話せるようになった。いや、普通以上に話すようになっていった。
――俺だけしか知らなかったはずの綾乃が……って思ってたよな。本当は。
『黛 綾乃』は大樹が初めて会った時から美少女だった。
本人が隠していたから、傍にいた大樹以外は誰も気づかなかっただけで。
当の大樹はと言えば、自分だけが綾乃の正体を知っていることにひそかな独占欲を覚えていた。誰かに明かそうとは考えなかった。
そんな日は、すでに過去のものとなっていた。
隠されることのなくなった顔立ちは、たちまちのうちに多くの人の目を惹いた。
制服の下に隠されていた肢体はグラビアで明らかにされた。
今の彼女は明るく爽やかで、元から器量よし。
成績は普通だが、頭は決して悪くない。
運動神経は置いておくとして……これで人気が出ないわけがない。
特に男にとってはクリティカルヒット間違いなし。
『実は……黛さんに告白しようと思っている』なんてバカ正直に大樹に告げてきたのは秀一だけだったが、同じようなことを考えている男は他にもいるだろう。
綾乃からその手の話を聞いたことがなかったので、存在しないものとばかり思っていた。
楽観的過ぎると嗤うほかない。
そんなだからズルズルと告白を先延ばしにしてしまった。
もっと現実を見て焦燥に駆られていれば、焦燥と向き合っていれば……
――アホだろ、俺。
おかしな自尊心を拗らせていた自分に心底呆れてしまった。
大樹は彼女の周りに集まる他の男子に混じるのが嫌だった。
綾乃にとっての『大勢の中のひとり』になりたくなかった。
自分だけが綾乃の特別でありたくて……それはきっと、ただの思い上がりだった。
『おはよう、大樹』
『おう』
学校では距離を置いていたが、綾乃とはスマートフォンで連絡を取り合っていた。
朝起きて駅で待ち合わせして、一緒に電車に乗って学校まで通った。
でも――それだけだった。
それ以上は踏み込めなかった。
踏み込む必要はないと思っていた。
『なぁ、綾乃』
『ごめん、今日は仕事。明日も学校休むね』
『お前、大丈夫なのか?』
『大丈夫って何が?』
メッセージからは表情を窺い知ることはできない。
ただ、大樹の脳裏には元気溌溂とした綾乃の顔が思い浮かんだ。
特に問題があるようには見えなかった。正確には、充実しているように見えた。
何の確信もなかったのに、確信していると思い込んだ。実情を確認しようとはしなかった。
綾乃の顔が見たければ、綾乃の状況を確認したければ……テレビ通話にでもすればよかっただけなのに。
『いや、その……出席日数とか』
『大丈夫だって。ちゃんと出席日数は確保できるように事務所がスケジュール組んでくれてるから』
『ならいいけどよ。せっかく志望校に受かったのに留年とか笑えねーぞ』
『心配してくれてありがと。でも、仕事も頑張りたいしね』
彼女の日常に『仕事』が追加され、大樹が綾乃の傍にいられる時間が大幅に減った。
同じ志望校に合格して一緒に学校に通って、一緒の部活に入って。夏休みや冬休みには、ふたりで……なんて大樹の想像していた高校生活は、ついぞ訪れなかった。
――綾乃……
高校に入学してからの綾乃は、グラビアアイドルとしてデビューしてからの綾乃はとても忙しそうではあったけれど、毎日が楽しそうだった。
日々を苦しそうにやり過ごしていた中学時代の彼女を知る者として、この変化は好ましいと思った。
思おうとした。
今でも思っている。
それは間違いないのだ。
――仕事って言われてもなぁ、わかんねーよ。
綾乃はしばしば『仕事』と口にするようになったが、具体的なイメージが湧かなかった。
頻繁にメディアに露出する画像やインタビューに目を通してわかったつもりでいた。
その根拠のない確信が水着を買いに行ったあの日に崩れた。
自分が見ていないところで、綾乃がどんなことをやっているのか。
見たかった。知りたかった。だから、思うところはあったものの撮影会に参加した。
綾乃は芸能人で、自分は一般人。
他に彼女の働きぶりを直に目にする機会はないと思った。
そして――
『はい、クスノキさんですね。こちらこそよろしくお願いします』
見たことのない笑みを浮かべる綾乃がいた。
『そうですね……じゃあ、そろそろ』
知らない男と歓談し、言われるがままに水着を脱いでポーズをとる綾乃がいた。
『アンタ、何しに来たの?』
エロティックな肢体と研ぎ澄まされた仕草。
自分に向けられる冷たい声。白々とした呆れと怒りが混じった眼差し。
何もかもが自分の知らない『黛 あやの』で自分がよく知る『黛 綾乃』だった。
グラビアアイドルに詳しくなくとも、想像することはできたはずなのだ。
ただ、想像することを本能的に避けていたのだと思い知らされた。
綾乃が、遠い。
遠くて、辛い。
雨の音が煩い。
身も心も寒い。
――クソッ……
これは夢だ。
夢だから、場所も背景もメチャクチャだった。
ただ――綾乃の姿が自分から遠ざかっていく。
『なに、大樹?』
『何でもない』
合格発表の日に告げることができなかった言葉は、今もなお大樹の胸の奥に蟠ったままだった。いつまでたっても色あせることのない想いは日を追うごとに大きくなる一方で、いつまでたっても消えてなくなることはない。
たったひと言。
たったひとつの想い。
告げる機会はあったはずだ。
でも、できなかった。臆病だったから。
言葉にできない理由なんて、ただそれだけだった。
――綾乃……俺は、綾乃が好きだ。
その言葉を口にしなければ。
想いを綾乃に伝えなければ、ふたりの距離は決して縮まらない。
このまま距離が開いていけば、限界を超えた時点でふたりの関係は途切れる。
すべてが終わる。
そんなこと、誰かに言われるまでもなく自分が一番わかっている。
もう手遅れかもしれないが……それだけは認めたくなかった。
でも――綾乃を前にすると、言葉が喉から出てこない。
「綾乃……」
逡巡した。
離れていく背中に伸ばした手を、そっと誰かが掴んでいた。
夢の中のはずなのに、その感触は現実だった。
その感触を、大樹はよく知っていた。
「大樹!」
その声を、大樹はよく知っていた。




