第2話 土砂降りの中を その2
『黛 あやの』がこれまで世に出したグラビアはすべてチェックしてきた。
でも……『黛 あやの』が実際にグラビアアイドルとして活動するところを目の当たりにしたのは初めてだった。
写真の中で目にしたような水着を着て、ファンたちと和気藹々としている彼女がいた。
カメラを向けられて身をくねらせ、意味ありげな眼差しを送る彼女がいた。
大樹が知らない『黛 あやの』であり、間違いなく大樹がよく知る『黛 綾乃』でもあった。
その生々しい現実を前に、大樹の中に曖昧模糊として存在していた『黛 あやの』像は木っ端みじんに打ち砕かれた。
綾乃を好ましく思っている。
劇的な綾乃の変化を前向きに捉えている。
慌ただしくも楽しそうな綾乃を応援したいと思っている。
ウソではない。ウソではないのだ。
でも――肌を露わにした綾乃が、自分以外の誰かに向けられる綾乃の笑顔が大樹の心を締め付ける。
「わかってるつもりだったのに、何にもわかってなかった。現実が見えてなかった」
運転席でハンドルを操っている秀美は何も言わなかった。
蹲っている大樹には彼女がどのような顔をしているかはわからなかった。
でも、彼女の沈黙がありがたかった。
大樹の口から意味の不明な言葉の羅列が零れ、それはやがて嗚咽となった。
しばしの間、みじめったらしい男の嘆きが車内に溢れた。
自分の喉を震わせる声が、余計に大樹の心をネガティブな闇に突き落としていく。
「それで、大樹くんはこれからどうするつもり?」
「……わかりません」
わからなかった。
昨日までの『楠 大樹』と『黛 綾乃』のままではいられないと思った。
明日は学校で、何もなければ綾乃は登校するだろう。
朝の駅で合流して、一緒に学校へ行って。放課後は一緒に帰って。
いつも通りの日常に回帰する……なんて想像できなかった。
どんな顔をして綾乃と会えばいいのか、これからどうするのか。
結論を出さなければならないはずなのに、頭の中はグチャグチャで何も考えられなかった。
「そっか……まぁ、そうよね。ねぇ、大樹くん」
「……なんですか?」
ひくひくと肩を震わせながら頭を上げて問い返した。
秀美は――軽やかに笑った。
重苦しい空気をもろともしない声に、大樹はギョッとして顔を上げる。
「大樹くんさぁ、私の車メチャクチャにしてくれたよね?」
「は?」
何を言われたのか理解できなかった。
話の流れに沿ってないし、車に乗れと言ったのは秀美のはずなのに。
車の外は土砂降りだった。
この雨の中を家まで帰るのは難しいとは思ったし、秀美の申し出には感謝している。
……とは言え、いきなりこんなことを言われて『はい、そうですね』とは頷けない。
「私の車……これ結構いい奴なんだけど、後ろのシートはずぶ濡れになっちゃってさぁ」
「え、いや……その、それは……」
「だから貸しひとつ。私の言うことを聞きなさい」
「な、なんですか、それ!? そんなの」
頭は痺れっぱなしなのに、口をついて反論が出てくる。
理不尽に対する怒りの感情。
そんなものが自分に残っていると知れて滑稽だった。
漫画とかラノベとかで『心が壊れた』なんて言い回しをしばしば目にするけれど……自分はまだその領域には至っていないと知れて、ホッとした。
「お家に帰ったら、真っ先に暖かいお風呂に入ること」
「は?」
またしても変な方向に話がすっ飛んだ。
『言うことを聞け』からの『暖かい風呂に入れ』である。
どんな要求を突き付けられるのかと身構えていたのに、別に要求の類ではなかった。
――と言うか、これは……
戸惑う大樹をよそに、秀美は次々と言葉を重ねてくる。
「お風呂に入ったら、おなか一杯ご飯を食べること」
「ご飯を食べたらさっさと寝ること」
それは――大樹への気遣いに他ならない。
考えるのが億劫になっていても理解はできる。
「まずは身体を休めなさい。疲れている時にアレコレ考えてもロクなことにならないから」
「はぁ……」
秀美の声は真に迫っていた。
思わず頷いて『なるほど』と思わされた。
確かに、今の大樹は何も考えられない状態だ。
身体は重く冷たくて、心は痺れたままでグチャグチャで。
『今はダメだ』と、誰よりも自分自身が一番それを実感できている。
ただ――実感できるようになったのは、秀美が指摘してくれたからだ。
何も言われなかったら、大樹は何もわからないまま延々とネガティブな思考の螺旋に囚われていたに違いない。
最低最悪の螺旋の果てに見いだされたかもしれない結論、それはきっと――想像するだけで背筋が震える。
飲み込んだ唾が、あまりにも苦い。
「重大な結論を出すときは、心も身体もゆっくり休めてから。大樹くんは心の休め方って考えたことある?」
「……ないです」
「ま、そうよね。だから、まずは何も考えずに身体を休める。風呂に入ってご飯食べて寝る。これ基本だから。心のメンテナンスは難しくても、身体のメンテナンスは簡単でしょ」
今は何も考えてはいけない。
頭がまともに働かないことは、決して悪いことばかりではない。
『まずはゆっくり休め、何をするにしてもそれからだ』と大樹の身体が、心を諭してくれているのだ。
たとえ本人が気づいていなくとも、勝手に心身の防衛機能が仕事をしてくれている。
そんな機能が自分に備わっていることにすら気づかなかった。
『人間ってうまくできているな』と妙な感慨を抱いた。
「あと、ひとりで考えないこと。ひとりで悩まないこと。ひとりで抱え込まないこと。ひとりでわかったつもりにならないこと。そして――ひとりで勝手に答えを出さないこと」
「ひとりで何もするなってことですか?」
その声に苦々しさが滲んだのは――己の不甲斐なさ故と思った。
『違うだろう?』と心のどこかからため息交じりの声が聞こえた。
「そうよ。ひとりじゃダメ」
「自分のことなのに?」
「君ひとりの問題じゃないよね?」
ズバリと切り込まれた。
自覚ができているだけに、反論はできない。
大樹の目の前に立ちはだかっている人生最大の問題は、決して大樹ひとりの問題ではない。
「誰と何をどうすればいいのか、それはわかりなさい。って言うか、もうわかってるよね?」
「……」
「要するに素直になれってこと」
「……」
口を閉ざしてしまった大樹の身体がわずかに揺れる。
車が止まったのだと理解するのに一瞬の間を要した。
さすが高級車だけあって、楠家の車とはブレーキ性能が段違いだ。
ひとりでにドアが開く。見慣れた自分の家が目の前にあった。
まだ雨は降っていたが勢いは弱まっている。玄関まで歩くくらいなら何の問題もない。
フラフラと立ち上がり、のろのろと車から降りる。
「あの……」
疑問の言葉が口をついた。
『何も考えるな』と言われても、どうしても聞きたかったことがある。
今を逃したら、きっと尋ねる機会は訪れない。
「ん?」
「なんで、ここまでしてくれるんですか? 俺と秀美さんって、別に」
「友だちでしょ? 友だちの姉かな? あと、私の推しの大切な人」
大樹と秀美は友だち?
大樹と秀一が友だちで、秀美は秀一の姉?
自分の認識とは、ずいぶんと食い違っている。
自分が狭量に過ぎたのだろうか?
そして、何よりも――
「じゃあね。健闘を祈る」
頭がまともに回らないことが、どうにももどかしかった。
考えないことが今の大樹に必要だとわかっていても。
礼を言うことすらできない自分に情けなさすら覚える。
見事なウィンクを残して走り去った秀美に、大樹はただ深く頭を下げた。
借りを作るのは嫌いだと、かつて嘯いていたくせに。
頭を上げて家のドアを開けると、母親がバスタオルを手に待ち構えていた。
『ただいま』を口にする気力はなかったが『お風呂に入ってきなさい』と言われて頷くことはできた。
すでに沸かされていた風呂に入った。
いつもの楠家の入浴時間はもっと後のはずなのに、なぜか今日は沸いていた。
どれくらいぼーっとしていたのかはわからなかったが、ずっとお湯につかっていたら身体は暖まった。
風呂から上がると暖かい夕飯が用意されていた。
両親が見守る中、大樹は黙々と食事をとった。
味は感じなかったが、とにかく口を動かして腹に詰め込んだ。
先に風呂に入っていたおかげか、食べられないということはなかった。
その間、両親は一言も発しなかった。
最後に麦茶を流し込んで、ふ~っとひと息。
「ごちそうさま……その、ありがとう」
心配そうに見つめてくるふたりに、ひと言だけ残して自室に戻った。
『ありがとう』って言えた。
雨の中に飛び出した時よりも、秀美の車を見送った時よりも多少はマシになっている。
机を見やると教科書やノートが置いてあって、頭のどこかから『宿題終わってねーな』とざらついた声が聞こえた。『さっさと寝なさい』と秀美の声が聞こえてきて、雑音はかき消されてしまった。
――疲れた……
余計なことを考えるな。
宿題なんてどうでもいい。
ベッドに横たわって目蓋を閉じると――あっという間に意識は闇に落ちていった。




