第18話 『黛 綾乃』 その4
「気になってるのは、あの初めて見る男の子?」
そのひと言が引き金となった。
綾乃と麻里、ふたりの視線が中空で衝突する。
しばしの沈黙ののちに、綾乃は口を閉ざしたまま頷いた。
すでに動揺を見せてしまった。完全に白を切るのは不可能だ。
明らかにしていいものは素直に見せて、本当に隠すべきものを隠す。
境界線はどこか。判断はきっと一瞬だ。綾乃は唾を飲み込み、麻里の言葉を待った。
「彼……写真撮ってなかったわね」
ため息交じりの声だった。
またしても想像と違う方向に話が逸れた。
先ほどの展開を思えば……これは油断を誘い、本命を直撃するための牽制に思えた。
ファンとの対話を経てコミュニケーション能力が劇的に改善されたとはいえ、それはあくまで一般的なレベルに引き上げられたというだけの話。
生き馬の目を抜く芸能界でキャリアを積み重ねてきた麻里を出し抜く自信はなかった。
「ですよね……」
会話のひとつひとつに不安が募る。
薄氷を踏む緊張感が背筋を駆け上がる。
今後の関係に差し障るから黙秘権をひけらかすわけにはいかなかった。
何より――麻里の言葉はそのまま綾乃が懸念していたことでもあったから、沈黙することはできなかった。
「……麻里さんも気づいてました?」
僅かな逡巡を経て、胸の奥に蟠る本音を素直に吐露した。
綾乃だけでなく、きっとあの場にいた誰もが気づいていた。
大樹が綾乃を撮影していたのは、最初に向かい合った時のみ。
あの時だって、綾乃が指示しなければ大樹は指を動かさなかった。
2周目以降はカメラを構えていたものの、彼は一度としてシャッターに添えた指を押し込むことはなかった。
脇撮りも振りだけ。
一度も写真は撮っていない。
何度声をかけても。
何度名前を呼んでも。
『楠さん』なんて慣れない呼び方に、心の中で舌打ちを禁じえなかった。
綾乃にできることは、ただ大樹を待つだけだった。
大樹は――綾乃に応えてはくれなかった。
(『大樹』って……せめて『楠くん』って呼べばよかったのかな?)
様子がおかしいことに気づいたのは、ことさらに彼に意識を割いていたからではない。
少なくとも目線はずっと順番どおりのカメラを捉え続けていた。
向かい合うべきは正面のファンであると厳に自らを戒めている。
わずかでも気を反らしては、目を逸らしては失礼にあたるから。
綾乃が大樹の異変を察知できた理由は、音だった。
シャッターを切る音が大樹のカメラから聞こえてこなかったのだ。
グラビアアイドルとしてデビューして以来、綾乃は多くのカメラと相対してきた。
ひとつひとつのカメラを手にしているのはプロのカメラマンだったり、今日の撮影会のように普通のファンだったり様々で。
雑誌を飾る写真もあれば、SNSに掲載するオフショットもあった。
仲間内で贈り合うプライベートなものもあった。
それぞれに違いはあれど、自分に向けられているカメラであることに違いはなく、ごくごく自然に撮影者の一挙一動や音には敏感になっていた。
異変は音だけにとどまらなかった。
時を追うごとに大樹の顔から色が失われていった。
最後のチェキタイムに至っては、もはや顔面蒼白と言った有様。
すぐ隣にいた綾乃もカメラを構えていた麻里も、心配せずにはいられなかったほど。
特別扱いはダメだと心に刻み込んでいたにもかかわらず、声をかけずにはいられなかった。
麻里が止めなかったところから察するに、彼のことをまったく知らない赤の他人から見ても相当危なっかしい状態だったのだろう。
「初めて参加する撮影会で、しかも今日のあなたはいつもよりもキレッキレで。場の雰囲気に呑まれちゃったのかしらね」
「……どうでしょうね。ともかく、悪いことしたなって思います」
浮かしかけていた腰を下ろし、胸に溜め込んでいた息を吐き出した。
麻里の懸念は綾乃が抱いていたものとは全く異なっていた。
椅子に座り直し、虚空に視線を放り出して思考に耽る。
(大樹……)
ずっと気にはなっていた。
ここのところ大樹との関係が思わしくない。
いつごろからおかしくなったのか、それは割とハッキリしている。
ショッピングモールに水着を買いに行った日だ。
あの日を境に綾乃と大樹の間に軋みが生まれている。
(違う、そうじゃない)
心の中で自分にダメ出しした。
いつからおかしくなったかは、それほど重要ではない。
どうしておかしくなったのか、そこが一番大切だ。
そして、綾乃はその原因に心当たりがあった。
彼が選んでくれた水着を撮影会で着ると答えた。
あの瞬間、綾乃の目の前で大樹の顔がひび割れた。
(大樹……)
グラビア撮影に使う水着は基本的に自前。
業界の慣例ではあるし、これまでは麻里を頼りながらも自分で選んでいた。
それでも、最近『ちょっとマンネリ化してきたかな?』と感じることがあった。
ファンの中には女性もいるけれど、基本的に『黛 あやの』のターゲットが男性層であることは間違いなく、ならば最も信頼できる男性の力を借りようと閃いた。
大樹以外には考えられなかった。
あの日の記憶は、今でも鮮明に思い出せる。
(……素直になればよかった)
グラビアアイドルになる前から男たちの視線を集めてきた。
グラビアアイドルになってからは、さらに男の視線を集めるようになった。
昔はただ俯いて耐えて逃げるだけだった情欲まみれの視線を、胸を張って肌で感じられるようになった。
人前で肌を晒す自分に恥じるところはない。
容姿もまた人が持ちうる能力あるいは才能のひとつ。
生まれ持った資質を努力で磨き上げて誇ることに疑問はない。
大樹が自分に向ける眼差しにも、そういう欲望が混じっていることに気が付いていた。
大樹が自分に向ける性欲を必死に抑えようとしていることにも、気が付いていた。
そんな彼を紳士だと思うし、誇らしく思う。同時に一抹の寂しさを覚えていた。
(大樹……ちゃんと言ってくれればよかったのに。私、別に怒らないのに)
今にして思えば甘えがあった。
大樹の意思を蔑ろにしていた。
反面『自分が悪かった』と素直に謝罪できない気持ちもあった。
モヤモヤした思いを抱いたまま日々を過ごすうちに、大樹が撮影会に参加することを知らされて、驚愕と混乱で頭の中がしっちゃかめっちゃかになってしまった。
なんで?
なんで――自分に内緒で参加申し込みしてるの?
どうして?
どうして――自分はこんなに心をかき乱されるの?
居てもたってもいられなくなって、大樹のアルバイト先に足を運んだものの……まともな状態でないまま売り言葉に買い言葉で口論になって、意地を張って物別れになって。
それでも何もしないわけにもいかなくて。
ほとんど毎日顔を会わせているのに会話はできなくて。
学校で探し回っても姿を現さない。明らかに距離を空けられている。
『黛 あやの』は決して暇ではない。撮影会に関するアドバイスを送るのが精いっぱいだった。
どうすればよいか。
どう向かい合うか。
ずっと考えていた。
不安を抱えたまま迎えた当日。
経緯に問題があったことは認める。
でも、大樹の前で醜態を晒したくなかった。
『仕事ぶりを直接この目で見たい』と大樹は言った。
ならば、否、だから――彼には最高の自分を見てほしかった。
頑張ったと思う。出来は良かったと思う。麻里も褒めてくれた。
その結果が、あの顔だ。
結果を見れば一目瞭然、すべては逆効果だった。
間違っていた。
何もかもが間違っていた。
何をどう間違ったのか、いつから間違っていたのか。
ようやく気付いた。
気づいたけれど認めたくなかった。
目を逸らしていれば、心安らかでいられたはずだ。
表向きだけ仲直りして、あの日より前の関係に戻って。
でも――心の一番大切なところが易きに流れることを拒否した。
それが、つい今しがたのこと。
ひとり煩悶していたのは、無意識のうちに心のうちで戦っていたから。
誰と?
自分と、だ。
そして、決着はついた。
自分たちに本当に必要だったものが、今ならわかる。
(大樹……)
答えには辿り着いた。
手遅れかもしれない。
足元がおぼつかない。
視界が潤んで震えた。
不安で心が潰れそう。
「あの……」
スタジオのスタッフが恐る恐る声をかけてくる。
綾乃と麻里が睨み合っているのだから無理もない。
「取り込み中です。話があるなら後に……」
「えっと、そういう訳にもいかなくてですね。これなんですけど」
スタッフの手には――カメラが載せられていた。
そのカメラを目にした瞬間、確かに綾乃の心臓は止まった。
「……あの子が忘れていったのね」
高校生にとっては安いものでもないでしょうに。
麻里の声には憐みに似た感情が滲んでいた。
停止した綾乃の心臓が、俄かに鼓動を打ち始める。
「住所は把握できてるから、後で送れば……」
「麻里さん!」
「何? どうしたの、綾乃?」
想いが弾け、椅子から立ち上がった。
隠すとかバラすとか……駆け引きは、もうどうでもよかった。
これがきっと最後のチャンス。大樹と過ごした時間が綾乃に教えてくれている。
言葉を探す必要はなかった。大切なものは、すべて最初から胸の奥にしまわれていたから。
「私の……私たちの話を聞いてください」
このまま何もかもを有耶無耶にしてはいけない。
伝えなければならないことがあった。
最後の、機会なのだ。
(こんなことは、もう終わりにしなきゃ!)
これにて第3章は終了となります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この後第3章の概要を掲載して、最終章に続きます。
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