第17話 『黛 綾乃』 その3
6月21日の夕方。
昼間と呼ぶには遅すぎて、夜と呼ぶにはまだ明るい。
窓の外は、そんな頃合い。
無事に撮影会を終えた綾乃は、控室で椅子に腰かけてくつろいでいた。
大きく背伸びして、腰を回して、脚を前後に曲げて伸ばして。
だらりと全身を弛緩させて背もたれに身体を預けた。
「ふぅ」
カメラ映えする姿勢は得てして現実味を欠いているもの。
誰もが気軽に要望してくるけれど、リクエストに応えるのは一苦労。
普段使わない筋肉を酷使して、身体を無理に捻じ曲げて。飛び切りの表情を作って。
撮影会は全4部。1部あたり約1時間だから合計で4時間にもなる。
久方ぶりだったこともあって、綾乃はすっかりクタクタになっていた。
これから撤収して事務所で反省会。まだまだ仕事は終わらない。
デビュー以来の経験に照らし合わせると、明日は学校に行けるかどうか怪しいところだ。
仮にほどほどの時間で家に辿り着けたとしても、ベッドに倒れ伏したら起きられない気がする。
それでも――いつもなら、疲労は心地よいものになるはずだった。
綾乃は撮影会が好きだ。
嫌いという同業者も居るけれど、綾乃は好きだった。
狭い空間でカメラを構えた男たち(稀に女性も混ざる)を前に肌をさらけ出す。
話を聞いていい顔をする人間の方が少数派だ。
家族も、教師も眉を顰める。
友人の瞳の奥には隠し切れない侮蔑がある。
誰もが『自分たちこそが良識的です』なんて表情を浮かべ、『いかにもな言葉』を口にして綾乃を窘めようとする。
グラビアアイドルになると決めた時から、ずっと彼らは変わらない。
応援してくれるのは、ただひとり。
(だいたい、今さら何を言っているのって感じなんですけど)
服を着こんで身を縮こまらせたところで、性欲に満ちた男の視線がなくなるわけではない。
電車に乗れば痴漢を警戒しなければならず、夜道をひとりで歩くことすら儘ならない。
夏になれば水泳の授業がある。サボれば教師にケチをつけられ、参加すれば男の餌食。
(ムカつく)
自分と同じ体験をしたことのない連中の言葉は、まるで心に響かない。
開き直ることが出来なければ、1日24時間1年365日、気の休まる暇なんてない。
(ふう)
撮影会はいい。
理不尽だらけな日々を過ごすよりも。
少なくとも、ここにはルールがあり同意がある。
いざというときには自分を守ってくれる心強いスタッフもいる。
何より――綾乃を苛む『敵』がいない。
かつての綾乃は母親の期待という名の強制に押し潰されかけていた。
立場は変われど、昔も今も学校に顔を出すと同年代の女子からはやっかまれる。
顔も名前も知らないどこぞの誰かから、身に覚えのない恨みや嫉みを買うなんて日常茶飯事。
(ほんと、バカバカしい)
有形無形の敵意や悪意に晒されることを思えば、撮影会の現場は天国と言ってもいい。
SNSを凝視して情報公開を今か今かと待ち構え、あっという間になくなる枠を奪い合って、わざわざ高い金を払ってスタジオまで来てくれる人は、基本的に綾乃に対して好意的な感情を抱いている。
……好意と言っても普通のファンからガチ恋勢まで、程度は人それぞれではあるが。
敵意よりはいい。
悪意よりはいい。
金銭と時間を消費させることによって、不特定多数の『どこかの誰か』を友好的な存在と敵対的な存在に峻別できる。
身も蓋もないけれど、有効であり画期的。
ただの高校生『黛 綾乃』では使えない手段。
グラビアアイドル『黛 あやの』なら使える手段。
敵対的な存在あるいは悪意を意図的に遠ざけ、言葉を交わすことすら避ける。
これは二十一世紀の日本を生き抜くために有意義なテクニックだと思う。
(学校では教えてくれないけど)
……とは言え、好意を抱いてくれる人たちに必要以上の浪費を強いることには罪悪感があるから、可能な限り彼らの要望には応えたいと思っているし何らかの還元を行いたいとも考えている。
まぁ、それはそれとして……自分に好意を持ってくれる人間と話をするのは素直に楽しい。
話が弾む。
舌が回る。
心が躍る。
言葉を交わすのも、耳を傾けるのも。
大樹以外の人間との会話を親しむ日が自分に訪れるなんて、思いもよらなかった。
綾乃が急速にコミュニケーション能力的な意味で成長を遂げた最大の要因のひとつがファンとのトークであることは、デビュー以来の一年と少々を振り返ってみれば疑いようがなかった。
最初は緊張した。
たとえファンが相手であったとしても。
でも、悪意を抱いていないと理解してからはリラックスできるようになった。
彼らは精一杯自分を楽しませようとしてくれるし、自分との会話を楽しもうとしてくれる。
誠意か、敬意か。
あるいは思いやりか。
下心の存在は否定しない。
自分に向けられる好意的感情を察知できるようになって、自分からも歩み寄りができるようになった。
緊張感をほぐすための話の入りを考えるようになった。
場の雰囲気を読んだり、踏み込んだトークができるようになった。
信用できる相手との会話から初めて少しずつ経験を積んで、営業で関わるクライアントやカメラマンとも徐々に打ち解けられるようになってきた。
今となっては気に入らない相手だろうが、興味がない相手だろうが、言葉を交わすことに何の問題もない。
「ん~~~~」
今日の撮影会は、概ね満足の行く内容だったと思う。
でも、あくまで『概ね』であり100パーセントではない。
だから、心地よさの中にひとかけらの居心地の悪さが残った。
椅子にお尻を乗せたまま、綾乃はじっと自分の手を見つめていた。
そこに残る感触を思い出していた。先ほどまで握りしめていた大樹の手を。
「どうしたの綾乃、何かあった?」
くつろいでいるところに声をかけてきたのはマネージャーの麻里だった。
顔色が良くない。表情が強張っている。妙な緊張感をまとっている。
表情を作ることに長けている彼女にしては珍しいと思った。
「麻里さん?」
彼女こそ綾乃をスカウトして芸能界に引っ張り込んだ張本人。
道に迷っていた自分に、新しい可能性を提示してくれた大恩人。
彼女も元はグラビアアイドルであり、現在は後進の育成に専念している。
デビューしてから綾乃が躓いてきた問題のほとんどは、彼女にとっては経験済みのトラブルに過ぎなかったから、困っていることがあれば何でも相談できるし、実体験に基づいたアドバイスは有用性が高かった。
それだけでは終わらない。
過去に麻里が出した写真集やDVDは、ため息が出るほどの出来栄えだった。
セクシャルなアレコレに嫌悪感を抱いていた昔の自分だったら気にも留めなかっただろうが……立場が変われば視点も変わる。
同業者となった綾乃にとって、麻里は大きすぎる壁として立ちはだかる存在でもあった。
尊敬と嫉妬。
どちらも、あまり縁のない感情だった。
ただ……決して不快ではなかった。
兎にも角にも麻里は綾乃にとっては公私の垣根を越えて頼りにできる偉大な先達で、単純にグラビアアイドルとマネージャーという関係に留まらない信頼を抱いていた。
そんな麻里が血相を変えているものだから、綾乃としては気が気でない。
特に今日は――
「何かあったって……今日の私、どこか変でした?」
平静を装って尋ね返したつもりだった。
ビキニの水着の下では、心臓が早鐘を打っている。
相手は大先輩であり、中途半端な演技が通用する相手ではない。
信頼できるマネージャーであっても、踏み込んでほしくない領域がある。
「変って言うかメチャクチャよかった。今までのあなたは何と言うか……素直な優等生ってイメージが強かったけど、今日は雰囲気が違ってた。鬼気迫るっていうのかしら。あんな表情出来たのね。あれ、どこで覚えてきたの?」
「鬼気迫るって言い方はどうかと思いますけど……表情ですか?」
身構えながら想像していたこととは全然違う話題だった。
仕事に関しては厳しめな麻里の手放しな絶賛は喜ばしい。
(表情?)
全然心当たりがなかった。
もちろん表情は作っている。仕事だから。
ただ……今日は、どちらかというと自分を見つめる大樹の存在を意識せざるを得なくて、いつもどおり集中できていたか心配なくらいだったのに。
鬼気迫ると表現されるほどの表情なんて言われても、反応に困る。
困惑のあまり眉を寄せてしまう。
「自覚なし? あとでカメラの映像送るからチェックすること。あの表情を自由に使えるようになったら、アンタ間違いなく上に行けるようになるから」
「はぁ……ありがとうございます?」
「なんでそこで疑問形になるの。前から思ってたけど……綾乃、アンタ結構大物よね」
見上げた先で、麻里は額に手を当ててため息をついていた。
向けられるのは出来の悪い妹を見る目つきだった。
麻里の目は綾乃の手に向けられている。
何もない空間を握る白い手を。
眉が寄せられ、唇が開く。
「気になってるのは、あの初めて見る男の子?」
凄い凄いと褒められて戸惑っているところに、いきなりブッ込まれた。
心臓が止まるかと思うほどに驚かされ、同時に『やられた』と思った。
咄嗟の反応を、動揺を隠すことができなかったから。
信頼しているが、油断ならない相手でもある。
ストレートに核心を突かれてしまった。
(大樹……)
自分と大樹の関係が明らかになれば、いったい何がどうなるのか。
麻里は、事務所はどのように動くのか。想像することは別に難しくない。
おそらく――あまり綾乃にとって望ましくない方向に舵を切る可能性が高かった。
(ここで引き下がるわけにはいかない)
頭のどこかから、そんな声が聞こえてくる。
大きくはないが聞き漏らすことはない。
それは、綾乃の心の叫びだった。
次回、第3章最終話!




