夏のはじまり
襖の裏に、小さな童。
夕べ見た夢、狸と狐の化かしあい。
鶴が滑って亀が取って煮て喰われる。
お坊さんが鬼の豆大福をうまそうに頬張り、
だいだら法師が恋に破れて、大きな山になってしまうころ、
私は蔵裏の川で、人魚と酒盛りをしている。
真夏の夢。
浜辺へ打ち寄せられる朱色の珊瑚や桃色の貝殻。
黙って、歩く、だれもいない宿場町。
畳の上に木漏れ日が揺れて、ただただ無情を感じる。
夏。
刹那の想いに囚われて、ナイフを握り、ノートの走り書きを燐寸の炎で燃やす。
あなたは、今でも、元気ですか?
その言葉を残して、夏に息絶えよう。
夢の跡。
小さな小鬼がキーキーわめいて、寝ている耳元で囁く「お前は、罪深い生き物だ」
うるさい、とぱちんと耳を叩くと、黒い墨みたいなものが手のひらに残った。
さあ、旅人は黒い影になって、人の魂を集めるあめふらしになってしまうよ。
影法師が踊りながら、宿場町で鎌をふりまわす。夏のはじまり。
夢のまにまに。
座敷の隅の方に、確かにいたんだ、赤い眼をした黒い鬼が。
でるからね、このあたりは。
昔、死んだ合戦場の武者の魂。
昔の理は、静かに人の首を絞め続ける。
でも、鬼が消えたあと、あなたは気がつくだろう。
ずっと見て居たかったんだ、あの美しい昏い鬼を。
囚われていたんだ。あなたも。
どうして君はあの時…。
近くの山から山彦が呼んでいるから耳を塞いだ。
近くの川沿いでは、塞ノ神が真っ白な手でおいでおいでをしている。
あの世と此の世の近く。真っ白な入道雲に、蒼いいらかの群れ。
真夏の熱気に意識が飛びそうなんだ。
どうか僕を、此の世に、とどめてくれ。
向日葵が風に揺れている。
遠雷。久遠。紫陽花。
雨の降る通り道で、のっぺらぼうが赤い郵便ポストの影から顔をひょっこり。
書きかけの手紙は、投函されないまま、箪笥の着物の油紙の上に置き去りに。
嗚呼、雨が止みません。
人は、いつまでも、子供のままではいられない。
通りゃんせ、見て見ないふり。
紅い鼻緒は、切れたまま。
あなたは、夏が好きですか?
そう聞いた姉は、結婚して家を出たまま、遠き日の彼方。
この山深い家に一人で暮らしていると、時間を忘れる。
古い家の木目を見てご覧。なんだか人の顔に見える。
山の河の水面は綺羅綺羅と輝き、闇なんてないみたいにただ流れている。
時折、切なくなります。あなたの横顔を思い出して。
旅人は、煙草を吹かせて、足早に。
夏はただただ今年も過ぎていきます。