表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

新婚じれじれ短編集

あなたの汚れた手で、愛してください。

 新婦ルイーザは悩んでいた。


 辺境伯アルペンハイム卿の嫡男、エドガーと婚姻の儀を執り行ったのがひと月前。


 しかし、なぜか夫は彼女に未だ指一本触れようとしない。


 エドガーは社交界でも目立つ容姿で、そのさらさらの真っすぐな黒い髪や弱ったような微笑みが、数々の貴婦人を虜にしていた。ルイーザ自身も密かに憧れていたものだ。


 だからこの婚姻を決めて来た親を、彼女は感謝の余り拝み倒したほどだった。


 毎日見る彼の表情は、飽きることがない。性格も温和で静かで、こちらの気分を乱すこともない。辺境の生活も、彼女の暮らしていた都会よりよっぽど落ち着いて豊かだ。


 それなのに。


 彼はルイーザと同じベッドで寝ても、即、寝息を立ててすこんと眠ってしまう。


 ルイーザは実家から連れて来たお気に入りの黒髪の侍女ケリーに、金糸の強めの癖っ毛をひっつめられながら不満を口にする。


「夫が、私に指一本触れてくれないのよ」


 ケリーはルイーザの髪を結いながら、眉間のそばかすをいつもの癖でひくひくと動かす。


「まあ。どうなさったのでしょう」

「彼ったら、ベッドに入ったら即座に寝てしまうの……私に魅力がないのかしら」

「そんなことはありません。ルイーザ様はお美しいですよ。きっと、エドガー様はお疲れなんですね」

「それだけならいいんだけど……このままずーっとこうだと、不安だわ」


 ケリーはくすくすと笑う。


「それをそのまま、お伝えしては駄目なのですか?」

「駄目よ!駄目に決まってる。女から夜に声をかけるだなんて、はしたないもの……」


 ルイーザはうなだれた。彼女がかつて暮らしていた土地では宗教的道徳規範が厳しく、女から誘うなどもってのほかだったのだ。


「どうにかして、あの人を振り向かせたいのだけれど」

「まあ。はしたないです~」

「もう、からかって……ケリーこそ、何か妙案はないの?あなたは色んな家で働いて、知識が豊富じゃないの」


 ケリーはうーんと首をひねった。


「あっ、そうでした。男の人は、揺れるものに弱いと聞いたことがあります」


 ルイーザはすぐさまその話に飛びついた。


「揺れるもの!?」

「はい!例えば、揺れるイヤリングや、揺れる髪……」

「なら、この髪はひっつめてる場合じゃないわ!」

「うふふ、そうですね~。おくれ毛を出しておきましょう。揺れますものね!」

「イヤリングは!?」

「これはいかがでしょう?パールを繋げたイヤリング。これも揺れます」

「あら、いいじゃない。何だか顔周りがふわふわと動いて、いい女っぽいわ!」


 ルイーザは鏡を前に、首をふるふると振って見せた。


「早速エドガーに会いに行かなくちゃ!」

「待ってください、私も行きます~」


 二人は部屋を出ると、広い城内を歩き出した。


 アルペンハイム卿の居城は、古くてとてつもなく広い。使用人が住んでいるので、彼らの住空間も含めると、夫に会いに行くまでもかなりの距離を移動しなくてはならない。


 途中で、ちょうど移動中の執事に出くわした。


「エドガーはどこかしら?」

「はい。エドガー様でしたら、先程地下室に」


 ルイーザは目を丸くした。


 地下室があるとは、初耳だった。


「地下室……そんなところが」

「はい。地下と言っても半地下ですが……エドガー様は、そこに決してルイーザ様を通さぬようにとおっしゃっておいでです」


 ルイーザはぽかんと口を開けた。


「……どういうこと?」

「エドガー様は現在、そこで仕事をしていらっしゃるのです」

「仕事……」


 ルイーザの胸は、なぜかきゅうっと痛んだ。


「……なぜ、あの人はそれを私に直接伝えてくれないのかしら」


 執事は答える。


「現在、羊毛の刈り取り作業が進んでおります。その管理の最終チェックは現在、エドガー様の仕事です。それゆえ、ルイーザ様とゆっくりお話しする時間が取れないのでしょう」

「そう……」


 アルペンハイム卿の領地は、繊維業が主な産業だ。ちょうどその最盛期に婚儀を執り行ったため、結果としてこのように生活がバラバラになってしまったのだろう。


 頭では分かっている。しかし一方で、ルイーザはこんな風にも思う。


(だからって、新妻を放っておいていいことにはならないわ)


「あのー」


 ケリーが見兼ねて前に進み出る。


「奥様はエドガー様との対話の時間を取りたいとおっしゃっています。そのように、エドガー様にお伝えして下さい。我々は昼食まで、奥様の部屋でお待ちしております」


 執事は軽返事をすると、元来た道を去って行く。


「これで大丈夫ですわ、ルイーザ様」

「ありがとう、ケリー」


 ルイーザは侍女の機転に感謝した。




 エドガーが慌てたようにルイーザの部屋まで駆け込んで来たのは、それから一時間も後のことだった。


「すまない、ルイーザ。どうしても時間が取れなくて!」


 必死な表情のエドガーを初めて見、ルイーザはどきどきと胸を鳴らす。彼のその必死な表情もまた、美しい。


 夫婦になって、ひと月。二人とも、まだ何もかもがぎこちないのだった。


「……何か僕に話があるんだって?」

「!え、えーっと」


 ルイーザは混乱した。何を話していいのか、よく分からない。


 部屋に重い沈黙が流れる。


(……そうだわ!)


 ルイーザはエドガーに向かって、ふるふると首を振って見せた。


 後れ毛と連結パールがふるふると揺れる。


「……ルイーザ?」


 ルイーザは彼の反応の悪さに首を傾げる。


(……やっぱり、揺れる作戦は不発だったかしら……)


 隣でケリーが必死に笑いをこらえている。


 そんな妻を見て、エドガーは大きなため息をついた。


「なるほど……話すことなんか、ないってことだよな」

「!」

「分かってる。僕が何分で来るか、試してたんだろ?」

「ち、違います。えーっと……私は、あなたの顔をひと目見たいと」

「僕の顔なんか見てどうするんだ?」

「あのっ……」


 ルイーザは一生分の勇気を出した。


「さ、触って下さい」

「は?」


 ケリーが何やら咳込んでいる。


 ルイーザは慌てて言い直した。


「あの。わ、私達、夫婦らしいことをまだ一度もしていないと言うか……」


 真っ赤になってうつむく妻を、エドガーは思い詰めた表情でじっと見下ろす。


「……悪いが、しばらく無理なんだ」


 ルイーザはぱかんと口を開けた。


「む、無理?」

「……ああ、こんな汚れた手じゃ」


 ルイーザは夫の手を見る。


「……手?」


 夫の手には、いつもの白い手袋がはめられている。


「特に用件がないなら、もういいか?悪いが、僕には時間がないんだ」


 ルイーザは夫のあまりに忙しそうな様子に、引き止める術がない。


 エドガーはあっと言う間に部屋を出て行く。


 その途端、ルイーザはへなへなと膝をついた。


「あああ、ルイーザ様……!」


 飛んで来たケリーに支えられ、ルイーザは呟く。


「手が汚れているから触らないなんて、そんな馬鹿な……」

「お気を確かに。何にせよ、原因が分かってよかったじゃないですか」

「ばっ、馬鹿にしてるわ!」

「ルイーザ様、落ち着いて……」

「領主の嫡男が、なぜ手を汚しているのよ!何か手を汚す作業をするなら、使用人にでも頼めばいいじゃない!」


 ケリーは腕組みをして考え込んでいる。ルイーザは怒りに震えてこんなことを言った。


「きっとエドガーは、あんなことを言って誤魔化しているけど……他にいいひとがいるに違いないのよ」


 ケリーは青ざめた。


「ルイーザ様……お気を確かに」

「彼は美男子だもの。地下室にずーっと引きこもって私と話さないのは、そういうわけなんだわ」

「決めつけるのは早計では……」

「ああ……せっかく憧れの人と結婚出来たのに。私も結局は貴族女性にありがちな、愛のない空虚な毎日を送らねばならないのね」

「う~ん」


 ケリーはルイーザを覗き込んだ。


「地下室に、行きますか?」


 ルイーザは侍女の提案に、目を見開いた。


「でも、行ったら駄目だって……」


 ケリーはいたずらする直前の子供のようににやりと笑う。


「何を尻込みする必要があります?あなたはもう、アルペンハイム卿嫡男の奥方なのですよ?」

「!」


 確かに。


 今の時代、妻が夫の言うことを全て聞かなければならないわけでもない。


「そうよね。私だって、彼の仕事を知らなければならないもの」


 ルイーザとケリーは頷き合う。


 二人は連れ立って行くと、件の地下室を探して下りて行った。




 地下室の戸を開けると、むわっとすえた匂いが二人の鼻をつんざいた。


「うっ!」


 ルイーザが鼻をつまみ、そうっと内部を見渡すと、奥でエドガーが腕をまくってなにやら作業に没頭していた。


 鍋がいくつもあり、謎の液体が沸騰している。


「こ……これは?」

「ルイーザ様、臭いへふ……一旦、退却しませう」


 ケリーが呼吸もしたくないという調子で語りかける。


 その声に気づいたのだろうか。


「誰だ!」


 つかつかとエドガーが歩いて来て、ルイーザは青ざめた。


 彼はその闖入ちんにゅう者が妻と認めると、汗をぬぐいながらふーっと息を吐いた。


「何だ、ルイーザか……」

「臭い……」

「だから来るなと言っただろう。ここは臭いし汚れるし、ろくなことがないぞ」


 しかし持ち前の好奇心からか、めげずにルイーザは問う。


「あなた、ここで何をしているの?」

「そんなに知りたいのか。これはな、染色だ」

「センショク?」

「ああ。ここで羊毛を染めている。染料を開発しているんだ」


 ルイーザは刮目した。


 これが、夫の仕事。


 よくよく見ると、彼の手は腕まで言いようのない色に染まっている。


 何も説明されずに見てしまったら、ぎょっとするような赤黒い色だ。


 ルイーザがまじまじと眺めるものだから、エドガーが笑って言う。


「今日は、えんじ色」


 彼女は夫の笑顔を眩しそうに見上げた。


「なかなかない色だろ。きっと、よく売れるぞ」


 しかし、謎も残る。


「なぜ、使用人にやらせないの?」


 エドガーは答えた。


「指示して作らせると、思った色にならないんだよ。染色は鍋の温度や浸ける時間で色の出方が変わってしまう。最近あんまりうちの羊毛がいい色に染まらないものだから、ついに自分の手で染色することに決めたんだ」

「そうでしたの……」

「それに染める手順と色見本を先に作成しておけば、使用人を使う時、その後の時間が省けるだろ」


 ルイーザは部屋の隅に積み上げられた羊毛を見る。


 色とりどりの羊毛が、待ちわびるように籠の中で輝いている。


「つい最近まで、僕の腕は黄色かったんだ」


 ルイーザは頷いた。


「都会では、身分が高ければ高いほど手の美しさが信奉されていると聞いた。苦労知らずの手が尊いと。こんな手、汚れが取れるまでは君に見られたくないし、ましてや君に触れようなんて、とんでもないと思って……」


 ルイーザは目をこする。


 ケリーは気を利かせて、そっと部屋を出て行った。


「泣いているのか、ルイーザ」

「だ、だって……あなたがそんなことを気にしていたなんて、思いもしなかったから」

「……そうか」

「言ってくれれば良かったのに。私、そんなことであなたを嫌いにはならないわ」

「……ごめん」

「ねえ、エドガー。あなたの手、もう一度近くでよく見せて」


 ルイーザは染料に汚れた夫の手に触れた。


「あんまり触ると、染料が移るぞ」

「これ、いつ取れるの?」

「そうだな……三か月後なら、羊毛の出荷が終っているから、大体は」

「三か月……」

「それでも完全には落ちない。手袋で誤魔化して生きるしかないかな」


 そう言って笑った夫に、ルイーザは思わず抱きついた。


「……おっと危ない。そこで鍋が沸騰してるのに」

「ううー、良かった……」

「?」

「私、ずっと言えずにいたけど、あなたに憧れていたの」

「ルイーザ……」

「だからこのまま何もなく、冷たい夫婦になるのが怖くて」


 エドガーはこわごわ妻の肩を抱く。


「そうか。怖がらせてごめん」

「……」

「僕もルイーザって可愛いなーって思ってたよ」

「!」

「まあ、見た目の良さしか知らなかったけど……その、やっぱり思った通り、いい子だね君は」


 エドガーの頬がルイーザの頭の上に乗って、彼女は顔を真っ赤にする。


 彼は妻の顔を覗き込んで言った。


「あれ?ルイーザの顔、染料が移ったかな」

「も、もう……からかわないで」

「そうか。もし君が、この汚れた手を嫌いじゃなければ、今夜は……」


 エドガーはそうっと妻の唇に口づける。


 ルイーザはうっとりと彼の腕の中に抱かれた。




 夜の帳が下りた。


 ベッドの中で、ルイーザはまだらな色をした夫の腕に触れる。


 初めての熱に浮かされながら、彼女は思う。


 ──むしろ、汚れた手の方が。


 彼の汚れた手が、何者にも染まっていない自身の肌に這う。


 それだけで、ルイーザは理性がどこかへ吹っ飛んでしまいそうな気がした。


「……エドガー」

「……何?」

「次は、何色?」

「そうだな……明日からは、青……」


 ルイーザは、肌に彼の指から染料が移って行くような錯覚に陥る。


 そしてそれを、とても幸せなことだと思った。


「糸つむぎ、やってみたいな」

「……いいよ」

「そうしたら、それで何を編もうかしら」

「手袋はどうだ」

「……それもいいわね」


 彼はこれからも、汚れた手を白い手袋に隠して、それをルイーザの目の前でだけ外すのだろう。


 彼の腕が今日何色なのか、知っているのは妻であるルイーザだけ。


 これからは、ただそれだけの幸福な生活が待っている──

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] とっても素敵でした!! ケリーがいい仕事してますね♪ ルイーザの性格も可愛いなぁと(*´ー`*) 可愛いキュンとなる作品を読ませていただき、有り難うございました♪
[一言] “汚れた手”って、そういう意味ですか! 辺境伯の旦那様なので、てっきり別の意味かと思ってました(人を殺し過ぎているみたいな) 働き者の手なんだから、誇ればいいと思うんですけど、貴族としてはダ…
[良い点] 幸せになったー! 良かったぁぁ!! 活動報告欄を拝読して、1000pt越え、長編かな?と思いつつのぞいたら短編で! (短編で1000越え、凄すぎです) そのままひといきに読ませていただき…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ