あなたの汚れた手で、愛してください。
新婦ルイーザは悩んでいた。
辺境伯アルペンハイム卿の嫡男、エドガーと婚姻の儀を執り行ったのがひと月前。
しかし、なぜか夫は彼女に未だ指一本触れようとしない。
エドガーは社交界でも目立つ容姿で、そのさらさらの真っすぐな黒い髪や弱ったような微笑みが、数々の貴婦人を虜にしていた。ルイーザ自身も密かに憧れていたものだ。
だからこの婚姻を決めて来た親を、彼女は感謝の余り拝み倒したほどだった。
毎日見る彼の表情は、飽きることがない。性格も温和で静かで、こちらの気分を乱すこともない。辺境の生活も、彼女の暮らしていた都会よりよっぽど落ち着いて豊かだ。
それなのに。
彼はルイーザと同じベッドで寝ても、即、寝息を立ててすこんと眠ってしまう。
ルイーザは実家から連れて来たお気に入りの黒髪の侍女ケリーに、金糸の強めの癖っ毛をひっつめられながら不満を口にする。
「夫が、私に指一本触れてくれないのよ」
ケリーはルイーザの髪を結いながら、眉間のそばかすをいつもの癖でひくひくと動かす。
「まあ。どうなさったのでしょう」
「彼ったら、ベッドに入ったら即座に寝てしまうの……私に魅力がないのかしら」
「そんなことはありません。ルイーザ様はお美しいですよ。きっと、エドガー様はお疲れなんですね」
「それだけならいいんだけど……このままずーっとこうだと、不安だわ」
ケリーはくすくすと笑う。
「それをそのまま、お伝えしては駄目なのですか?」
「駄目よ!駄目に決まってる。女から夜に声をかけるだなんて、はしたないもの……」
ルイーザはうなだれた。彼女がかつて暮らしていた土地では宗教的道徳規範が厳しく、女から誘うなどもってのほかだったのだ。
「どうにかして、あの人を振り向かせたいのだけれど」
「まあ。はしたないです~」
「もう、からかって……ケリーこそ、何か妙案はないの?あなたは色んな家で働いて、知識が豊富じゃないの」
ケリーはうーんと首をひねった。
「あっ、そうでした。男の人は、揺れるものに弱いと聞いたことがあります」
ルイーザはすぐさまその話に飛びついた。
「揺れるもの!?」
「はい!例えば、揺れるイヤリングや、揺れる髪……」
「なら、この髪はひっつめてる場合じゃないわ!」
「うふふ、そうですね~。おくれ毛を出しておきましょう。揺れますものね!」
「イヤリングは!?」
「これはいかがでしょう?パールを繋げたイヤリング。これも揺れます」
「あら、いいじゃない。何だか顔周りがふわふわと動いて、いい女っぽいわ!」
ルイーザは鏡を前に、首をふるふると振って見せた。
「早速エドガーに会いに行かなくちゃ!」
「待ってください、私も行きます~」
二人は部屋を出ると、広い城内を歩き出した。
アルペンハイム卿の居城は、古くてとてつもなく広い。使用人が住んでいるので、彼らの住空間も含めると、夫に会いに行くまでもかなりの距離を移動しなくてはならない。
途中で、ちょうど移動中の執事に出くわした。
「エドガーはどこかしら?」
「はい。エドガー様でしたら、先程地下室に」
ルイーザは目を丸くした。
地下室があるとは、初耳だった。
「地下室……そんなところが」
「はい。地下と言っても半地下ですが……エドガー様は、そこに決してルイーザ様を通さぬようにとおっしゃっておいでです」
ルイーザはぽかんと口を開けた。
「……どういうこと?」
「エドガー様は現在、そこで仕事をしていらっしゃるのです」
「仕事……」
ルイーザの胸は、なぜかきゅうっと痛んだ。
「……なぜ、あの人はそれを私に直接伝えてくれないのかしら」
執事は答える。
「現在、羊毛の刈り取り作業が進んでおります。その管理の最終チェックは現在、エドガー様の仕事です。それゆえ、ルイーザ様とゆっくりお話しする時間が取れないのでしょう」
「そう……」
アルペンハイム卿の領地は、繊維業が主な産業だ。ちょうどその最盛期に婚儀を執り行ったため、結果としてこのように生活がバラバラになってしまったのだろう。
頭では分かっている。しかし一方で、ルイーザはこんな風にも思う。
(だからって、新妻を放っておいていいことにはならないわ)
「あのー」
ケリーが見兼ねて前に進み出る。
「奥様はエドガー様との対話の時間を取りたいとおっしゃっています。そのように、エドガー様にお伝えして下さい。我々は昼食まで、奥様の部屋でお待ちしております」
執事は軽返事をすると、元来た道を去って行く。
「これで大丈夫ですわ、ルイーザ様」
「ありがとう、ケリー」
ルイーザは侍女の機転に感謝した。
エドガーが慌てたようにルイーザの部屋まで駆け込んで来たのは、それから一時間も後のことだった。
「すまない、ルイーザ。どうしても時間が取れなくて!」
必死な表情のエドガーを初めて見、ルイーザはどきどきと胸を鳴らす。彼のその必死な表情もまた、美しい。
夫婦になって、ひと月。二人とも、まだ何もかもがぎこちないのだった。
「……何か僕に話があるんだって?」
「!え、えーっと」
ルイーザは混乱した。何を話していいのか、よく分からない。
部屋に重い沈黙が流れる。
(……そうだわ!)
ルイーザはエドガーに向かって、ふるふると首を振って見せた。
後れ毛と連結パールがふるふると揺れる。
「……ルイーザ?」
ルイーザは彼の反応の悪さに首を傾げる。
(……やっぱり、揺れる作戦は不発だったかしら……)
隣でケリーが必死に笑いをこらえている。
そんな妻を見て、エドガーは大きなため息をついた。
「なるほど……話すことなんか、ないってことだよな」
「!」
「分かってる。僕が何分で来るか、試してたんだろ?」
「ち、違います。えーっと……私は、あなたの顔をひと目見たいと」
「僕の顔なんか見てどうするんだ?」
「あのっ……」
ルイーザは一生分の勇気を出した。
「さ、触って下さい」
「は?」
ケリーが何やら咳込んでいる。
ルイーザは慌てて言い直した。
「あの。わ、私達、夫婦らしいことをまだ一度もしていないと言うか……」
真っ赤になってうつむく妻を、エドガーは思い詰めた表情でじっと見下ろす。
「……悪いが、しばらく無理なんだ」
ルイーザはぱかんと口を開けた。
「む、無理?」
「……ああ、こんな汚れた手じゃ」
ルイーザは夫の手を見る。
「……手?」
夫の手には、いつもの白い手袋がはめられている。
「特に用件がないなら、もういいか?悪いが、僕には時間がないんだ」
ルイーザは夫のあまりに忙しそうな様子に、引き止める術がない。
エドガーはあっと言う間に部屋を出て行く。
その途端、ルイーザはへなへなと膝をついた。
「あああ、ルイーザ様……!」
飛んで来たケリーに支えられ、ルイーザは呟く。
「手が汚れているから触らないなんて、そんな馬鹿な……」
「お気を確かに。何にせよ、原因が分かってよかったじゃないですか」
「ばっ、馬鹿にしてるわ!」
「ルイーザ様、落ち着いて……」
「領主の嫡男が、なぜ手を汚しているのよ!何か手を汚す作業をするなら、使用人にでも頼めばいいじゃない!」
ケリーは腕組みをして考え込んでいる。ルイーザは怒りに震えてこんなことを言った。
「きっとエドガーは、あんなことを言って誤魔化しているけど……他にいい女がいるに違いないのよ」
ケリーは青ざめた。
「ルイーザ様……お気を確かに」
「彼は美男子だもの。地下室にずーっと引きこもって私と話さないのは、そういうわけなんだわ」
「決めつけるのは早計では……」
「ああ……せっかく憧れの人と結婚出来たのに。私も結局は貴族女性にありがちな、愛のない空虚な毎日を送らねばならないのね」
「う~ん」
ケリーはルイーザを覗き込んだ。
「地下室に、行きますか?」
ルイーザは侍女の提案に、目を見開いた。
「でも、行ったら駄目だって……」
ケリーはいたずらする直前の子供のようににやりと笑う。
「何を尻込みする必要があります?あなたはもう、アルペンハイム卿嫡男の奥方なのですよ?」
「!」
確かに。
今の時代、妻が夫の言うことを全て聞かなければならないわけでもない。
「そうよね。私だって、彼の仕事を知らなければならないもの」
ルイーザとケリーは頷き合う。
二人は連れ立って行くと、件の地下室を探して下りて行った。
地下室の戸を開けると、むわっとすえた匂いが二人の鼻をつんざいた。
「うっ!」
ルイーザが鼻をつまみ、そうっと内部を見渡すと、奥でエドガーが腕をまくってなにやら作業に没頭していた。
鍋がいくつもあり、謎の液体が沸騰している。
「こ……これは?」
「ルイーザ様、臭いへふ……一旦、退却しませう」
ケリーが呼吸もしたくないという調子で語りかける。
その声に気づいたのだろうか。
「誰だ!」
つかつかとエドガーが歩いて来て、ルイーザは青ざめた。
彼はその闖入者が妻と認めると、汗をぬぐいながらふーっと息を吐いた。
「何だ、ルイーザか……」
「臭い……」
「だから来るなと言っただろう。ここは臭いし汚れるし、ろくなことがないぞ」
しかし持ち前の好奇心からか、めげずにルイーザは問う。
「あなた、ここで何をしているの?」
「そんなに知りたいのか。これはな、染色だ」
「センショク?」
「ああ。ここで羊毛を染めている。染料を開発しているんだ」
ルイーザは刮目した。
これが、夫の仕事。
よくよく見ると、彼の手は腕まで言いようのない色に染まっている。
何も説明されずに見てしまったら、ぎょっとするような赤黒い色だ。
ルイーザがまじまじと眺めるものだから、エドガーが笑って言う。
「今日は、えんじ色」
彼女は夫の笑顔を眩しそうに見上げた。
「なかなかない色だろ。きっと、よく売れるぞ」
しかし、謎も残る。
「なぜ、使用人にやらせないの?」
エドガーは答えた。
「指示して作らせると、思った色にならないんだよ。染色は鍋の温度や浸ける時間で色の出方が変わってしまう。最近あんまりうちの羊毛がいい色に染まらないものだから、ついに自分の手で染色することに決めたんだ」
「そうでしたの……」
「それに染める手順と色見本を先に作成しておけば、使用人を使う時、その後の時間が省けるだろ」
ルイーザは部屋の隅に積み上げられた羊毛を見る。
色とりどりの羊毛が、待ちわびるように籠の中で輝いている。
「つい最近まで、僕の腕は黄色かったんだ」
ルイーザは頷いた。
「都会では、身分が高ければ高いほど手の美しさが信奉されていると聞いた。苦労知らずの手が尊いと。こんな手、汚れが取れるまでは君に見られたくないし、ましてや君に触れようなんて、とんでもないと思って……」
ルイーザは目をこする。
ケリーは気を利かせて、そっと部屋を出て行った。
「泣いているのか、ルイーザ」
「だ、だって……あなたがそんなことを気にしていたなんて、思いもしなかったから」
「……そうか」
「言ってくれれば良かったのに。私、そんなことであなたを嫌いにはならないわ」
「……ごめん」
「ねえ、エドガー。あなたの手、もう一度近くでよく見せて」
ルイーザは染料に汚れた夫の手に触れた。
「あんまり触ると、染料が移るぞ」
「これ、いつ取れるの?」
「そうだな……三か月後なら、羊毛の出荷が終っているから、大体は」
「三か月……」
「それでも完全には落ちない。手袋で誤魔化して生きるしかないかな」
そう言って笑った夫に、ルイーザは思わず抱きついた。
「……おっと危ない。そこで鍋が沸騰してるのに」
「ううー、良かった……」
「?」
「私、ずっと言えずにいたけど、あなたに憧れていたの」
「ルイーザ……」
「だからこのまま何もなく、冷たい夫婦になるのが怖くて」
エドガーはこわごわ妻の肩を抱く。
「そうか。怖がらせてごめん」
「……」
「僕もルイーザって可愛いなーって思ってたよ」
「!」
「まあ、見た目の良さしか知らなかったけど……その、やっぱり思った通り、いい子だね君は」
エドガーの頬がルイーザの頭の上に乗って、彼女は顔を真っ赤にする。
彼は妻の顔を覗き込んで言った。
「あれ?ルイーザの顔、染料が移ったかな」
「も、もう……からかわないで」
「そうか。もし君が、この汚れた手を嫌いじゃなければ、今夜は……」
エドガーはそうっと妻の唇に口づける。
ルイーザはうっとりと彼の腕の中に抱かれた。
夜の帳が下りた。
ベッドの中で、ルイーザはまだらな色をした夫の腕に触れる。
初めての熱に浮かされながら、彼女は思う。
──むしろ、汚れた手の方が。
彼の汚れた手が、何者にも染まっていない自身の肌に這う。
それだけで、ルイーザは理性がどこかへ吹っ飛んでしまいそうな気がした。
「……エドガー」
「……何?」
「次は、何色?」
「そうだな……明日からは、青……」
ルイーザは、肌に彼の指から染料が移って行くような錯覚に陥る。
そしてそれを、とても幸せなことだと思った。
「糸つむぎ、やってみたいな」
「……いいよ」
「そうしたら、それで何を編もうかしら」
「手袋はどうだ」
「……それもいいわね」
彼はこれからも、汚れた手を白い手袋に隠して、それをルイーザの目の前でだけ外すのだろう。
彼の腕が今日何色なのか、知っているのは妻であるルイーザだけ。
これからは、ただそれだけの幸福な生活が待っている──