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彼岸花  作者: 七瀬渚
4/4



「誰か冷凍みかん食べるー? 余ってるんだけど」


 久しぶりに登校した中学校。給食の時間、クラスメイトの一人が言った。「ああ、小川さんが休みだからかぁ」誰かが返した。

 僕は廊下側の後ろの席で黙って座っている。


「あっ、じゃあせっかくだから」


 ツカツカと早足で歩いてきた女子が僕の席の前で足を止めた。そして僕の目の前に冷凍みかんを置いた。びっくりして見上げた僕に彼女はにっこり微笑みながら「あげるね」と言う。

 どうして、僕? 疑問に思いながらも頬が軽く熱を帯びた。そっと冷凍みかんを手にとって口を開いたとき。


「お供え物。幽霊が成仏してくれますように、って」


 どっと湧き起こった笑い声。指先から伝わった冷たさが僕の言葉もろとも凍り付かせた。



「……はぁっ!」


 息苦しさで目が覚めた。身体はじっとり汗ばんで気持ち悪く、半身を起こしてみると両手に上手く力が入らない。指がカタカタと震えていることに気が付いた。しばらくはそのままの姿勢で落ち着くまで待っていた。


 時計を見ると時刻は午前8時過ぎ。ここ最近は暑さで体力が衰えたらしい。家庭菜園の手伝いも今は週一にさせてもらっている。今日はまさに伯父さんの家へ行く日だ。


 やっと呼吸が落ち着いて僕はパソコンを起動させた。昨日投稿した絵の反応を見る。

 22件。随分、減ったものだ。コメントなんて一つもない。

 僕もなんとなくわかってはいる。なんかしっくりこない、あと少し何かが足りない、そんな仕上がりになってしまうことが多くなった。皮肉なことにそれは焦れば焦るほど納得とは程遠くなるのだ。

 もう僕の絵に興味がなくなった人も多いのかも知れない。すっかり見かけなくなった人が沢山いる。このSNSの世界には魅力的で新しい作品が数えきれないほど溢れている。それでも愛され続けている絵師さんもいる。つまり興味を持ち続けてもらえるだけの実力が僕には足りないのだ。


 この頃、時間の流れが恐ろしいほど早く感じる。もう8月中旬だなんてなんだか信じられない。

 立ち止まっていたら置いていかれてしまう。もっと良い絵を描かなくては。


 パソコンを閉じた僕は出かける準備を始めた。



 伯父さんの家には9時半くらいに着いた。玄関で出迎えてくれた伯母さんは何か言いたげな顔で僕を見ていたような気がする。

 外で作業を始めて間もない頃、やっとその理由がわかった。


「なんだ、もしかして風呂に入ってないのか」


「えっ」


「髪が随分ベタついてる。言っちゃ悪いが少しにおうぞ。そんなに体調が悪かったのか?」


 僕の思考は停止した後、緩やかに遡り始めた。でもわからない。困惑していたところ、伯父さんはやれやれといったふうに笑いながら、うちの風呂に入っていけと言ってくれた。



 言えない。いつお風呂に入ったか覚えていないなんて。

 脱衣所で服を脱ぎながらも不穏な胸の疼きはおさまらない。そして更に僕は洗面台の鏡に映った自分の姿を見て驚愕した。


「なんだ、これ」


 僕の、僕の身体には、いたるところに傷があった。掻き毟ったような跡から内出血まで。動物に引っ掻かれてもこんな感じになるのかも知れないが、おかしなことにその傷は服を着ている分には見えないような範囲にのみ存在している。隠してあったとしたとしか思えない。

 何故。誰が。まさか僕が? どうして。

 脱いだばかりのTシャツを見てみる。だけど黒だから血がついてるのかどうかわからない。いつできた傷がわからない。そもそもこの服はいつから着ていたのか。理解が、追いつかない。そんな途中。


「おーい、悪い。バスタオル渡し忘れた」


 伯父さんの声と共に脱衣所のドアが僅かに動いた。僕は思わず「待って!」と叫び、急いでTシャツとハーフパンツを着てからドアを開けた。


「なんだ、最近の若者はデリケートだなぁ。男同士なんだからそんなに恥ずかしがるこたぁねぇだろ」


 伯父さんは笑いながら去っていったけど、僕の激しい動悸はしばらく続いた。

 こんな身体、見られる訳にはいかない。絶対に。


 シャワーを浴びると今更ながらに痛いと感じる。特にシャンプーやボディーソープの泡がしみてしょうがなかった。声が漏れないように歯を食いしばって耐えた。



「ちょうどお昼ご飯が出来たのよ。食べていきなさいな」


 ドライヤーで髪を乾かし終わった後、伯母さんが僕に声をかけてくれた。ダイニングテーブルを見るともういっぱいにお皿が並んでる。伯父さんはビールをグラスに注いでいるところだった。


「暑くて食欲なくなっちゃうわよね。冷たいお蕎麦なら食べやすいんじゃないかしら。お野菜の天ぷらもあるのよ。ね、食べられる分だけでいいから」


「すみません、ありがとうございます」


 伯母さんに促されて僕はダイニングの椅子に腰掛けた。

 みんなで「いただきます」と言って手を合わせた。僕も、ネギや胡麻などの薬味が入ったつゆに蕎麦をつけて軽く啜った。

 でも飲み下そうとしたその瞬間、ぐっと喉の奥から突き上げるような感覚を覚えて口をおさえた。なんとか耐えようとしたけど無理そうだとわかって僕はついに立ち上がった。


 どうやって辿り着いたかはわからないけど、気が付いたらトイレの便座に顔を伏せて何度も咳を繰り返していた。においでまた気持ち悪くなる。「大丈夫か」と伯父さんの声がすぐ後ろから聞こえた。落ち着くまで背中をさすってくれた。



「とにかく病院でちゃんと診てもらいなさい。食べ物の買い出しに行けないようなら俺が代わりに行ってやる」


 しばらく伯父さんのベッドを借りて休み、午後三時頃に帰ることになった。伯父さんの言葉に僕は「すみません」と返す。伯母さんにも何度も謝ったけど「本当に気にしないで」と笑顔で言われた。


 伯父さんは僕を車で送ってくれようとした。そのとき腐ったトマトや胡瓜が脳裏に蘇り、僕は咄嗟に首を横に振った。

 車に乗ったら却って酔いそうだ。だいぶ気分も良くなったし、外の空気を吸いながら帰りたい。そんな言い訳をした。

「病院で診てもらったらうちに連絡をしてくれ」最終的に伯父さんはそう言って僕を見送ってくれた。



 翌朝、頭が重い感覚に耐えながら身体を起こした。SNSの通知を確認する。

 15件。昨日の夜に載せた絵の反応だ。コメントはなし。まだ、何か足りなかったのか。たぶん三日に一枚くらいは載せている。その度に反応は減っていく。


 こんなときに何故か鮮明に蘇った。

 ぐしゃぐしゃに破られた小四の頃の絵。そしてお母さんの哀しくも優しい声。


――あなたは悪くない。あなたは才能があるから妬まれたのよ――


 ねえ、お母さん。

 それが本当なら、どうしてみんな僕に興味を失くしていくの?

 僕は一体、なんの為に。


 ピンポーン、とインターホンの音がして僕は顔を上げた。身の周りの状態が急にはっきりと見えた。

 閉じたままのカーテン。電気もついてない。カーペットに飛び散った絵の具の跡。脱ぎ散らかした服。いつ食べたものかわからないカップ麺の容器が大量に。ゴミが溢れ返ったゴミ箱。飛び回る小さな虫たち。

 いや、まず、尋ねてきたのは誰か。そう思ったときインターホンがもう一度鳴った。伯父さんかも知れない。なんとなくそう感じた。

 玄関に向かいかけた足が何かに当たった。視線を落とすとビニール袋の下からどろりと黒っぽい色の液体が流れ出ていた。蟻のような虫がたかっている。球体の表面は緑と黒の縞模様。

 これは……スイカか? 僕はその場にしゃがみ込んだ。


 病院に行ってた。そういうことにしよう。

 伯父さんには、電話で、説明するんだ。夏バテで胃腸が弱っていたんだって。すぐ治るから心配ないって。

 絶対に、これ以上の心配をかけちゃいけない。ましてや両親に連絡が行くなどあってはならない。


――あれ? 死んだんじゃなかったの?――


――幽霊と目を合わせると取り憑かれるぞ――


「…………っ!」


 僕はもう、幽霊になんて戻りたくない。



 スマホには伯父さんから着信が来ていた。かけ直すことが出来たのは夕方頃。出たのは伯母さんだった。伯父さんは近くに出かけていたらしい。

 やっぱり僕に差し入れをしようとしてくれていたことがわかった。遠慮するようなことを言いながらも身体は気持ち悪いくらい汗ばんでいった。


 伯父さんのことだ。明日もまた来てくれるつもりかも知れない。何日も居留守を使えばさすがに不自然に思われるだろう。

 カーテンを開けてみて尚更実感する。こんな荒れ果てた部屋、一日でどうにか出来る訳がない。


 ふと思い立ち、洗面台の鏡で自分の姿を見た。引っ掻き傷は顔にまで広がっていた。自分の手を見下ろすと長く伸びた爪の間が赤く染まっていた。

 やはりそうだったんだ。

 なんとなくわかってはいたのに僕は認めようとしなかった。ずっと。

 食べ物を腐らせたのも自分を痛めつけたのも、僕。最後にまともな食事をとったのはいつだったか。お風呂に入ったのは、掃除をしたのは、洗濯をしたのは? 何も覚えていない。きっとそれくらい絵のことしか考えられなくなってた。


 でも、忘れられたくない。みんなに。

お父さんからもお母さんからも愛された。伯父さん、伯母さんも優しくしてくれる。

 それなのに何処か満たされない、そう感じてしまう僕は欲張りなのか。


 でも、唯一の方法なんだ、これは。僕の存在を知ってもらう為の。

 僕は絵を描くのが大好きだったけど、逆に言うとそれしかなかった。他の喜びなどよくわからない。わかりたくても!



 カナカナカナ、と、ひぐらしの鳴き声が耳に届き、目を開けた。

 いつからそうしていたのだろう。僕の目の前には水張りした真っ白な紙がある。まだ、描こうとしてしまうのか。みんなは僕を忘れていくのに。ガリ、と紙面を引っ掻いたとき、鮮やかな赤い線が走った。

 真っ暗だった僕の脳内にあの花が現れた。


 もしかして。僕は身体を掻き毟りまた指で描いた。花が咲く。赤い花が。

 そして確信する。これだと。これだったのだと。


 僕はまだ、自分を完全に解き放っていない。


 脳内の世界はどんどん広がり、暗闇に映える赤が、無数の彼岸花が揺れる。それを追いかけたい。逃さず、今ここに表現したい。

 僕はカッターを取り出し、自分の手首に走らせた。痛かったのは最初くらいだ。何度も何度も走らせるうちに目の前の絵にだけ集中できるようになった。


 乾くと茶色っぽく色褪せていくその儚さが、まさに命の絵だと感じさせてくれる。

 死人花。本当にそうか? これほどの力強さ、繊細さ、輝き。

 僕はもうこの中で永遠になってもいい。


 広がり続ける世界を表現するのに、手首から流れる“赤”だけでは足りなくなった。

 あと少し、もう少し。

 首筋にひやりとした感触。深く息を吸い込んで、止めて。僕は一気にカッターを引いた。


 飛沫しぶきは花弁のように舞って。

 儚き紙面の世界に降り注ぐ。

 指でなぞって幾度もえがく。こんな気持ちのたかぶりは初めてだ。



 出来上がった絵を壁に立てかけて、僕も座って一息つくことにした。

 何か飲みながらじっくり眺めていたい。なのに呼吸が、苦しくなってくる。


 やがて不思議なことが起きた。乾いて色褪せたはずの彼岸花たちが息を吹き返したかのように再び鮮やかな赤色を取り戻したのだ。


 視界が白っぽく滲む。ひぐらしの鳴き声が遠のいていく。


「良かった」


 良い絵が描けた。



 これでみんな、僕を忘れない。


 僕はもう、幽霊じゃないんだ。




 お読み下さりありがとうございました。

 この話はフィクションです。自らを傷付け、血液で絵を描くのは大変危険なので真似をしないようお願い致します。

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