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彼岸花  作者: 七瀬渚
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 僕は水田の多い小さな町に生まれた。町内で唯一の駅は無人駅。最寄りと言っても車で三十分くらいかかった。バスは一日に六本。休日は五本。蛙とか鈴虫とか、いつもなんらかの生き物の鳴き声がしていた気がする。

 昼下がりにはよく近所の農家のおばさんが玄関からではなく縁側からやってきてトマトやナスを分けてくれた。声の大きな人が多かった。


 そんな町の中でも僕のお母さんは一際目立つ存在だったらしい。特に派手な化粧や服ではなかったけど、さすが都会育ちの女、垢抜けているとよく言われていた。名前は忘れたけど、女優の誰々に似ているなんてこともよく言われていた。一回りほど歳上のお父さんは町内のおじさんたちから羨ましがられていた。


 僕の家では「ソラ」という名前のオスの豆柴を飼っていた。僕もよく一緒にお散歩へついていった。とても元気の良い子で小さい身体でぐんぐんリードを引っ張っていく。リードを持つのがお父さんの場合は結構素直に言うことを聞くけど、お母さんの場合は結構苦戦していた。


 あれは小学校に入学する前のことだったと思う。うだる暑さの真夏が過ぎてだいぶ涼しくなってきた頃。

 この日は夕方頃にお母さんと一緒にソラのお散歩へ行った。川沿いの土手を歩いていた途中、視界の端に鮮やかな赤色を捉えた僕は思わず足を止めた。

 見たことのない不思議な形。吸い寄せられるようにして手を伸ばしたとき「駄目よ!」とお母さんの声がした。


んじゃ駄目。それには毒があるから」


 お母さんはもう一度言った。厳しい表情は夕日で赤く染まり、僕に鬼を連想させた。


「嫌だわ。気味が悪い。さあ行きましょう」


 やや強い力で手を引かれてその場を後にした。

 それでも好奇心旺盛な僕は諦めきれなくて、その日の夜、お父さんにこの話をしてみた。


「それはきっと彼岸花だね。死人花とか幽霊花とかいろんな呼び方があるよ」


「どくがあるってお母さん言ってた。お母さんちょっとこわかった」


「ソラが一緒だったんだろ? きっとお母さんはソラが食べたら危ないと思って止めたんだよ」


「ソラにはぜったい食べさせない。ぼくも食べない」


「はは、じゃあ大丈夫だ」


 お父さんは華奢な外見とは裏腹におおらかな人で、僕が“怖い”とか“心配”とか思ったことをいつも呆気なく笑い飛ばした。お母さんも心配性だからお父さんのこういうところに惹かれたのかも知れない。


「ねぇ、お父さん。今日も絵をかいたんだ」


 僕は画用紙にクレヨンで描いた絵をお父さんに見せた。


「お、ちょっと色の使い方が変わったか? 面白いね」


 お母さんや幼稚園の先生はよく“上手い”とか“凄い”とか言ってくれたけど、お父さんだけは“面白い”と言うことが多かった。その違いが僕もなんだか面白かった。


「もっとちがう色も使ってみたいんだ。しょうがっこうに行ったらできるかな?」


「ああ、出来るさ。小学校では絵の具も使う。混ぜればいろんな色が出来上がってとても楽しいんだよ」


 その言葉を聞いて僕は胸が弾んだ。物心ついた頃から絵を描くのが大好きだった僕は、小学校に上がったらもっと沢山描く、中学校に上がったらもっともっと沢山描く、そんなことで頭がいっぱいだった。



 でもその願いが叶うことはなかった。



 僕の記憶の一部は抜け落ちている。気が付けば小学校四年生になっていた。

 僕は学校に行くことが出来なくなっていた。


 虚ろな視界に映るのは畳の上にぽつんと置かれた紙。ただの紙クズになってしまったもの。ビリビリに破かれ、握り潰された、元々は僕の絵だった。


「あなたは悪くない。あなたは才能があるから妬まれたのよ」


 お母さんはそう言って僕を抱き締めた。その肩は震えていて、僕はそっとお母さんの背中を撫でながら「泣かないで」と言った。なのにお母さんはもっと泣いてしまった。どうしたらいいのかわからなかった。



 僕はほとんど喋れなくなってしまったけど、近所におつかいに行ってみたりとちょっとずつ外に出る練習をすることにした。


 ある日、夕飯の材料である南瓜かぼちゃを直売所で買ってきた。絵の具の青が少なくなっていたことを思い出して、帰りに文房具屋さんへ寄ってみた。久しぶりだからドキドキした。

 絵の具のコーナーの隣には色とりどりのペンが並んでいた。僕も書いてみたくなった。だけど試し書きのメモ用紙に視線を落として固まった。


 そこに書いてあったのは僕への悪口だった。きっと大人たちからしたらなんのことだかわからない、でもそれは僕がみんなから呼ばれていたあだ名だった。一学年あたり十人程度の小学校。おそらくその中で皆が共有していることだと、何故かこのときになって鮮明に思い出した。


 僕は震えが止まらなかった。だけどもう絵の具を手に持っていたから、そのままレジへ行ってお金を払った。

「大きくなったね」とかなんかそんなことを話しかけられた気がするけど、僕は何も言えないまま急いでお店を出て行った。


 夕方の帰り道。袋の中の南瓜は二倍になったんじゃないかというくらい重かった。影が長く長く伸びていた。


 コツン、と背中に硬いものが当たって僕は思わず呻いた。振り返ると三人の子どもが笑いながら走り去っていくところだった。足元を見下ろすと石が転がっていた。


 僕はなんとなく想像が出来てしまった。きっとあの子たちも同じ中学校へ行く。僕がまた学校に行けるようになったとしても、きっとまた何年も何年も同じことが繰り返される。

 近所のおじさんおばさんたちも、優しいんだけどだんだん僕を見る目が変わってきてる気がする。僕が大人になってもこのままだったら、さすがに変だと言われるんだろうか。

 小さな田舎に逃げ場なんてない。

 僕はお母さんをまた泣かせてしまうかも知れない。


 だけど怖くて、怖くて、足がすくんで。


「弱くてごめんなさい」


 久しぶりに出てきた言葉は誰に宛てたのかもわからないものだった。



 中学校は一応、最初の頃だけは通っていた。でも予想していた通り僕は同級生の子たちに覚えられていて、常に奇異の目で見られているような気がした。


「あれ? 死んだんじゃなかったの?」


「幽霊と目を合わせると取り憑かれるぞ」


 確か、そんなことを言われた。

 幽霊。そうか、今度はそんなふうに呼ばれるようになるんだ。何か脱力したような気分になった僕はまた学校に行けなくなった。



 両親は僕がいじめられてる件について学校に話してくれていたと思う。だけど確実な証拠は無かった。同級生のみんなは表面上は良い子に見える。やり方が上手かった。


 僕は食べ物をほとんど受けつけなくなり、中学二年のときに精神科にかかるようになった。

 心理検査も受けた。その結果、僕は死に対する関心が強いということがわかったらしい。


 病院の帰り道でぽつりと聞こえた。お母さんの背中から「どうして」と。

 僕は何も言えなかった。泣いている訳でもない、ただ憔悴しているような、こんな相手を前にしたとき僕はどうすればいいのだろう。


「ちょっといいかい?」


 その夜、僕はお父さんに呼ばれた。うっすら微笑んではいたけれど、診断結果に関する何かではないかと予感はあった。

 だけど話は意外な角度から切り出された。


「もうお前も大きくなったから話しておこうと思ってね。お母さんにはお兄さんがいたんだけど、若くして病気で亡くなったんだ。それからお母さんは“死”という言葉が付くものを恐れているんだよ」


 ああ、それで“死人花”も。

 何故かすぐにそれを思い出した。

 あの綺麗な花。幼い僕を魅了した花。僕にとっては“彼岸花”だけど、お母さんにとってはそっちの名だったのだろう。ソラを連れていたからというのももちろんあるだろうけど、やはりあのときお母さんから感じた強い嫌悪感は気のせいじゃなかったのだと。


「今、お母さんが元気を失くしているのは、きっとお兄さんと重ね合わせてしまったからだと思う。お前を大切に思うからこそ、怖いんだよ」


 小さく頷くとお父さんは僕をそっと抱き寄せた。痩せた胸は硬いけれど温かかった。


「お父さんやお母さんに心配かけないようにしようとか考えなくていい。学校だって今は行けなくてもいいよ。なんとかなるさ。ただ生きていてくれればいいんだ」


 お父さんはそう言ってくれたけど、このとき僕は既にお母さんの気持ちに思いを馳せていた。


 自分の部屋に戻った僕は引き出しの中を漁った。無残に破られたけど結局捨てられなかった小四の頃の絵を取り出した。セロテープで補正したからぴかぴか光ってる。


 酷いことをされたのに、そうされてもしょうがないと思ってしまう僕がいた。

 成長したからこそわかる。当時から僕の絵は仄暗くて子どもらしい絵とは言い難かった。気持ち悪い。同級生たちからもそう言われたんだと少し思い出して呼吸が浅くなった。


 僕の世界の闇がどんどん深くなっていってる自覚があった。そんな世界の中にあの花を咲かせたらどんなに美しいだろうと何度か考えてきた。でもそれはもう諦めなくてはと決心した。


 “死”を恐れるお母さん。血や炎を連想させる赤は好まないかも知れない。そういえば赤い服を着ているところを見たことがない。口紅の色だっていつも薄い。やっぱりそうに違いないと思った。

 大丈夫、赤がなくても僕の世界は表現できる。

 お母さんはいつだって僕の味方でいてくれたんだ。これからはお母さんが喜んでくれるような絵を描こう。


 その日、僕は絵の具の箱の中から取り出した赤系の色を全部捨てた。



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