マヨイガ
「あれ? こんなところにこんな店あったっけ」
金曜日の夜。終電とは無縁の距離だからと、てっぺんを超えるまで働かされた。
身体は疲れを誤魔化すためにドーパミンをドバドバ出し、ランナーズハイ。
私の会社は優良なホワイト運営だから、明日は……いや、今日はもう休みだ。
深夜のテンションでおかしくなった私は、よせばいいのにその見知らぬ店にフラフラ入っていった。
少し奥まった路地にある、隠れ家的なマッサージ店。
特別なコンセプトでもあるのか、大昔の洋館のような見た目だった。
カランコロンとドアベルが鳴り、穏やかな光が目に飛び込んでくる。
不安にならない程度に暗い店内。
ベストを着た男性店員がこちらに寄ってきた。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね」
「は、はい」
これは「ちょっとひやかしにきただけです」とは言えない雰囲気だ。
男性店員は私をソファに座らせると、問診表を持ってきた。
なるほど、例え医療行為でなくとも、こういうものは必要なのか。
「もしも私達の施術によりお客様がご気分を悪くされた場合、責任を負うことになるのはこの店ですから。もれのないように、正確にご記入願います」
住所や電話番号などの個人情報から、最近の体調に至るまで、細かく書いた。
最後にサインをして、男性店員に渡した。
「お客様。当店ではお客様によりリラックスして頂くために、お客様の好みのアロマをお伺いしております。こちらの中から、最も好むものをお選びください。もしもおひとつに絞れない場合は、お客様の体調に合ったものをこちらで選ばせて頂きます」
私はラベンダーを選んだけれど、柑橘系も気になる。
そう告げると、複数選ぶことも可能だと言われた。
ひとつに絞らなくていいじゃん。
「あくまでひとつのコースに対して、一種類です。複数のコースを選ばれました場合には、コース毎にアロマを変えることも可能です」
店員はコースのメニュー表を見せてくれた。
どれもそこそこのお値段だ。
しかし、それがこの店の格を教えてくれた。
最近、デスクワークばっかりで疲れがたまっているからなぁ。
耳のコース、足のコース、頭のコース、顔のコース、全身のコース。私は全てを選んだ。
ひとつひとつがかなりのお値段なのだが、今日の私は疲れていた。
早く家に帰って眠ればいいのに、そんなことにも気付かないぐらいに、おかしかった。
ここがなぜこの時間まで営業しているのか疑問に思わない程に、疲れていたのだ。
ここはコース毎に担当の人が変わるらしい。
マッサージに近いことをする人は整体師のような服を、それ以外の人はベストを着用しているそうだ。
だから制服が統一されていないと感じたのか。
「では、お客様にはまず、こちらのガウンに着替えて頂きます。ガウンの下には下着などを身につけない状態にして頂きますと、より効果的な施術を行えます。お荷物はこちらのロッカーに預けてください。ストッキングなどを脱いだ状態で履物をこちらのスリッパに履き替えましたら、まずは足のコースからご案内させて頂きますね」
ガウンは簡単にはだけるつくりになっている上に、薄く柔らかい布でできていた。
うう、下着をつけるなと言われたからそのまま着てみたけれど、かなり恥ずかしい。
ええいままよ。
更衣室のカーテンを開けると、私を案内してくれていた店員が待っていてくれた。
彼はどうやらそういうことを専門にやっているようだ。
「では、こちらの部屋でございます。こちらの部屋ではまず、バスソルトを入れたフットバスで足の血行を促したのちに、マッサージオイルを使ったマッサージを、足の裏から太ももにかけて行っていきます。担当の者がおりますので、私の案内はここまでとさせて頂きます。どうぞごゆっくりとおくつろぎください」
*********
部屋の中は個室と呼ぶには少し広く、外観から計算すると部屋数が少ないのかと思った。
同時に複数の客を相手にしない商売なのかもしれない。
「初めまして、お客様。フット、レッグマッサージを担当させて頂きます、榊と申します。本日は私のコースを選んで頂き、ありがとうございます」
榊さんは私をリクライニングシートに誘導すると、足元にフットバスを置いた。
「まずはフットバスで足を温めていきます。こちらのバスソルトを入れることで、立ち上がるアロマにより、リラックスできます」
榊さんはじゃらっと大粒のバスソルトを入れ、素手で軽くかき混ぜた。
ふわりとラベンダーの香りがする。
「では、足をつけさせて頂きますね。ゆっくり、足を温めましたら、軽く揉んでいきます。痛かったら、遠慮なく仰ってください」
ふわり、ふわり、気分が上昇していく。
足でちょっと水面をかき回すと、ぶわっとラベンダーが香る。
土踏まずの外側を手のひら全体で押され、ぐにぐにと粘土をこねるように揉まれた。
それから、内側。
ぐぐっと、入れ込むように親指を動かされる。
ああ、気持ちいいかも。
「力を抜いて、楽にしてください。かなり疲れが溜まっていますね。それに、むくんでいます」
言われてみればそうかもしれない。
いくらデスクワーク中心とはいえ、足に合わないパンプスでオフィスを行ったりきたりしていれば、そりゃあ足も疲れる。
「お客様、足に合わない靴をお召になっていらっしゃいますね。かかとと、親指の付け根、それから、足の両脇に靴擦れがあります。すみません、バスソルトを入れる前に確認するべきでしたね」
ひりひり痛むポイントを全て言い当てられて、悪いことをした気になる。
確かに、問診表には書かなかった。
私がそのことについて謝ると、いいえ大丈夫ですと言われた。
「足が温まり、血行も促進されてきました。そろそろ足をお拭きいたしますね。怪我を刺激しないように、布を当てるだけにいまします。では、失礼します」
足を持ち上げられて、丁寧に水気をとっていかれる。
足をそんなに丁寧に扱うことはないのでくすぐったいような、申し訳ないような気になる。
「……では、オイルをつけていきますね。足から……ふくらはぎまで。すねにもたっぷり、塗りましょう」
人肌に温められたマッサージオイルをたっぷりとかけられ、優しく伸ばされた。
そういえば、無駄毛の処理をしていたっけ。慌てて確認すると、下から笑い声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。ここはお客様にリラックスして頂く場所です。私達がお客様の身体的特徴について何か申すことはありません」
榊さんの手はふくらはぎを撫でる。
親指がぐっと入って、くねくねと水を移動させるように動いた。
脚に溜まった疲れと血液が、上へ、上へ。
反対の脚も同様に。
「膝の曲げ伸ばしをさせて頂きます。痛かったら遠慮なく仰ってください」
榊さんが脚を持ち上げた時に、ガウンがめくれて生まれたままの下半身を晒してしまった。
恥ずかしさに慌てて手を伸ばすと、榊さんにやんわりと止められた。
「大丈夫ですよ。恥ずかしいことは何もありません。私に身を任せて、どうぞゆっくりと、力を抜いてください」
榊さんは股関節を丁寧に解していく。
片方の膝を掴んで、ゆっくりくるくると。
「やっぱり、慣れない靴や、かかとの高い靴を無理して履いていると、脚全体に負担がかかるんです。だからほら、股関節にも影響が出ていますね」
確かに、脚を広げるとビリッと痛む。
榊さんは失礼しますと一度ことわってから、私の鼠径部を押した。
くりくり、軽く回すように撫でられて、ぱっと離された。
それから何度か脚を回して、反対も同じように。
「……はい、これで、フット、レッグのコースは終了いたします。続いてヘッドのコースにご案内させて頂きますね」
榊さんはドアを開けると、次の部屋に誘導してくれた。
*********
「初めましてお客様。今回ヘッドのコースを担当させて頂きます、橘と申します。まずはこちらの椅子におかけになってください」
白い革張りの椅子に案内される。
その椅子はリクライニングできるようになっていて、美容室のものに似ているが、少しだけ横に広かった。
シートを倒されると天井に埋め込まれたオレンジ電球の光が目に飛び込んでくる。
「タオルで目元を隠させて頂きますね」
軽く蒸されたタオルを細く折られたものを、目に優しく載せられた。
ほんのり、ローズの香りがする。
「では、まずは頭皮の汚れを落としながら、マッサージをしていきます」
耳元でジャーっという音がしてから、ほんのり湯気が頬を撫でる。
ごぽごぽと排水溝に水が流れる音がした。
わっと細かい水圧が、生え際を通過していく。
それだけで背中にぞわりとしたものが走り、脱力した。
長い髪を掬い纏めるように指を絡められた。
ぎゅっ、ぎゅっと水を追い出すように髪を梳かれる。
カチャン、ギュポン。
シャンプーを二回プッシュ。
手のひらで伸ばした後、耳の前から髪を梳くように指を差し入れられ、わしゃわしゃと大胆に指を動かされた。
泡を立てて、それを広げるように撫で回される。
「まずは頭皮をマッサージして、汚れを落としていきます。……随分とお疲れのようですね。頭皮も凝り固まっています。優しくマッサージして、血行をよくしましょう」
軽く角度をつけた指が、わっと広がり、戻り、私の頭を掻き回す。
的確な位置に指を動かし、血流を促していった。
いつの間にか、あんなに酷かった頭痛もなくなっている。
「眼精疲労ですね。デスクワークですか? こんなに遅い時間まで、お疲れ様です。一度泡を流しますね。お湯が熱すぎたり、反対にぬるすぎるなどという場合は遠慮なく仰ってください」
細かい水の粒が、ばちばち、しゃわわ。
泡は弾けて流れ行く。
ずぼぼと泡を飲み込む下水の音は低く、耳をくすぐる。
少し熱めのお湯は、その水圧も合わさって、随分と血行を促進してくれた。
水を止めて、ぎゅっ、じゅわわーっと水を絞られる。
「では、次にコンディショナー、それからトリートメントで髪の調子を整えていきます。最後にヘアブロー、ヘアオイルでセットしていきます」
カチャン、クキン。
コンディショナーを押し出す音。
撫でるように髪に伸びる。
私の、セミロングの髪に、潤いが戻っていく。
それに合わせて私の心も満たされていくようだった。
丹念に揉み込まれたコンディショナーはすぐに流され、同じようにトリートメントをされる。ジョワワと細かい粒のお湯が打ちつけられたかと思うと、まだじゅーっと水を絞られる。
椅子を起こされ、タオルドライ。バタバタと時に乱暴に、時に丁寧に、指が頭皮を刺激する。
ブオーという温風の音。
頭皮を温めて、一気に血が巡る。あれほど酷かった頭痛も、すっかり癒えていた。
「お客様の髪は、酷くダメージを受けていました。何回かこちらに通って頂くことで、また美しい髪に戻りますよ」
自覚はあった。肉体や精神を極限まで酷使すると、自分を労る余裕がなくなる。
そんな中で髪を綺麗にする暇などなかった。
「はい。これでヘッドのコースは終了となります。次はフェイシャルのコースにご案内致します」
乾いた髪にヘアオイルを塗りこまれ、天使の輪ができるほど艶やかになった。
橘さんは私を連れて、隣の部屋へ案内してくれた。
*********
正方形の部屋にベッド……いや、施術台がひとつ、置いてある。
部屋は薄暗く、シックな色合いで統一されていた。
「初めまして、今回フェイシャルを担当させて頂く、蘭と申します。フェイシャルのコースではまずお客様のメイクをオフさせて頂いた後、お肌の潤いを取り戻す美容液を塗り込みながら、リンパを流していきます。最後に目の疲れを癒すために、アロマオイルを垂らしたホットタオルで目元を覆います」
蘭さんは私を施術台に誘導し、仰向けに寝転ぶように言った。
その通りに寝転ぶと、身体に毛布をかけられた。
「では、メイクを落とさせて頂きます。目を瞑って頂いてもよろしいでしょうか」
大人しく目を瞑ると、とろりと頬に冷たいものが垂れた。
指の腹で優しく塗り広げられ、顎、唇、鼻、額、瞼まで、丹念に撫でられる。
くるくる、くりくり。
回すように、撫でていく。
これは、きっとミルククレンジングだ。
丁寧に、時間をかけて撫でられる。優しくて、気持ちいい。
「では、拭き取っていきます」
湿らせたコットンで優しく拭き取っていく。
下から上へ。内側から外側へ。
何度もコットンを取り替えて、ようやく全て拭き終わったようだ。
「次は美容液をつけながら、リンパを流していきます」
ぴた、ひと、ひと。
化粧水よりとろりとしていて、乳液よりもさらさらしている液体が、肌に載った。
くるくると、四本の指が私の顔の上で踊る。
「お客様、随分とお疲れのようですね。この美容液は負担なく浸透していきますから、きっとすぐに潤いを取り戻しますよ」
ふと、ひのきの香りが漂ってきた。
奥にあったアロマディフューザーから香ってきたのだろう。
ゆっくり楽しみたくて、自然と深呼吸になる。
落ち着いたオルゴールの音に誘われてゆっくりと意識が遠のく。目を瞑っているからだろうか、眠気は自然と身体を支配した。
「――お客様、お客様。お休みのところ申し訳ございません。これでフェイシャルのコースを終了させて頂きますので、一旦隣の部屋に移って頂けますか?」
気づけばすでにフェイシャルのコースは終わっていた。はぁ、いくら疲れていたからといって、なんだか勿体ないな。
「お手をどうぞ。ご案内致します」
私はまだぼんやりする頭で、フラフラと蘭さんについていった。
*********
「続きまして、お耳のマッサージをさせて頂きます、槙と申します。本日はどうぞよろしくお願い致します 」
耳のマッサージなんて聞いたこともない。あんな小さな部分をどうマッサージするんだろう。
「まずはそちらのベッドに横になってください。そうです、耳が見えるように……少し、耳を触りますよ」
耳殻を揉まれ、押される。
少し引っ張って、それから離された。
「蒸しタオルで耳を温めていきます。アロマは柑橘系を選びました」
温かいタオルで耳を拭かれる。
ぞりぞり、脳をくすぐる音がする。
ああ、気持ちいい。人に耳を触られるのって、こんなに気持ちいいんだ。
ふわりと柑橘系の匂いがして、心に染みていった。
「耳にはツボが多く、神経も集中しているので、こうやって優しく刺激するととても気持ちいいんですよ」
両耳をくるくる撫でるように拭かれると、濡れたからか、ひんやりしてきた。
「では、お客様のお耳の状態を見ながら、耳垢の除去を行っていきます。最後に耳の毛を剃って終了です」
橘さんはライトで私の耳を照らしてから、金属の耳かきをとった。
「お客様は金属アレルギーがないとのことでしたので、こちらの耳かきを使用させていただきます。乾燥した耳垢は、綿棒よりも耳かきの方がとりやすいんですよ」
それから、ぞり、ぞり、と耳の浅い部分を擦られた。ぐるりと、撫でるように回してから徐々に奥へ。
あ、そこ。と思ったところは丁寧に時間をかけて。
耳かき棒は迷走神経を刺激し、その音に脳まで刺激される。
ぞりぞり、ざわわ、ざわわ、ごわ、ごわ、ぱりぱりぱり。
私が肩を揺らす度に、リラックスしてくださいと優しく肩を押される。
身も心も脳内も蕩けきった頃、綿棒に持ち替えられていた。
「では、洗浄液で湿らせた綿棒で、中を掃除していきます。最初は冷たいので、びっくりしないように構えてくださいね」
「ひゃっ!?」
思わず声をあげた私に、槙さんは上品な笑い声を漏らした。
「大丈夫ですよ。ここにいらっしゃるお客様は皆さんそういう反応をなされます。冷たいですよね……」
次第に綿棒は私の体温に触れて温まっていく。
綿棒が通った後は外気に触れるとスーッとする。
気化熱ってやつだ。
すりすり、ざりざり、耳の中を行ったりきたり。
小さな耳の穴を擦っているだけなのに、まるで全身を貫かれたようにゾクゾクする。
気持ちいい。それに、また眠くなってきた。
槙さんはそれに気づいたのか、くすりと笑って綿棒を置いた。
「大丈夫ですよ。お客様がお休みになっている間も、耳かきは続けます。ああ、勿論、貴方にとって不利になるような真似は致しません。どうか安心しておくつろぎください」
槙さんの声は耳に心地よく、心にも染み渡るような優しさだった。
ああ、このまま、欲に従って意識を失ってしまいたい。
抗い難い睡魔に負け、私はいつの間にかまた眠ってしまっていた。
全てが終わった頃、槙さんに優しく起こされ、反対の耳も同様に掃除されたのだと知った。
*********
フェイシャルコースの時も、耳かきの時もすっきり眠ることができた。
ここ数日まともに眠れる日がなかったからそれはありがたいことなのだけれど、今回ばかりは少し勿体ないと思う。
さあ、最後のコースだ。
部屋の中央にはマッサージ店特有のベッド。うつ伏せに寝ても首や肩が痛くならないように作ってあるものだ。
呼吸が苦しくないように、枕部分は一段低く、ドーナツ状になっている。
腕は下におろせるようになっていて、肩が開かない人でもリラックスした姿勢で寝ることができるだろう。
私はこのベッドを見ただけでもうワクワクが止まらない。一体、どれほど気持ちいいのだろう。
「お待たせ致しました。それでは本日最後のコース、全身のマッサージを始めさせて頂きます。担当は私、辻と申します。よろしくお願いします」
辻さんは私にうつ伏せになるように言った。
「バスタオルをかけさせていただきますね。まずは肩甲骨から、そして肩、腰を解していきます」
肩甲骨はがしというのだろうか、そういえばデスクワークやスマホの見すぎで首から背中にかけてが痛くなっていたなと思い出した。
「首から背中にかけてかなり凝っていますね。やっぱりデスクワークが多いですか?」
「はい。要領が悪くてこんな時間まで……」
「要領が悪いなんてことはありませんよ。貴女はとても頑張っています。もし貴女がつらいのなら――」
背中から聞こえていた声がぐっと近寄る。
「いっそ、逃げてしまいましょうか……どこか遠くへ」
囁くように、決しておどけず、本気の声色だった。
逃げるって……どこへ?
「――貴女次第です。貴女が望むのなら、私共はいつでも、切り離すつもりです。……ここを、この世界から」
この世界から……切り離す?
ゾッとした。そういえばこの建物にはひとつも窓がない。ここはどこだろう。私は今、どこにいるのだろう。
時間は? さっきかなり寝たけれど、今は何時?
これが最後のコースだ。終わったら私はどうなってしまうのだろうか。
長居をしすぎた。あまりにリラックスできるから、何もかも、忘れていた。
だけど、私にできることはない。
今すぐ彼女を振り払って裸足で逃げ出す勇気が、私にはない。
――現実を見る勇気が、私にはない。
彼女は音だけでクスリと笑う。
施術の手は止まらない。的確に気持ちいいところを押していく。
「ようこそ。マヨイガへ」
マヨイガ……どこかで聞いたことがある。
何だったかな。何でもいいや、今だけは。
腕、首、腰……今までのコースでは触られなかったところを、刺激される。
このまま、ここでも落とされるのだろうか。二度も寝たからスッキリしているはずなのに、頭は段々ぼんやりしていく。
あ、思い出した。マヨイガは迷家。
迷うのは家か人か。
妖怪図鑑に乗っていた、比較的新しい妖怪。あるはずのない場所にある建物。
様々な平行世界を渡り歩く無機物の怪異。入ったら最後、二度と外には出られない。
それは創作の話だけど、私はどうだろう。私は今、どこにいる?
あるはずのない場所にあるはずのない建物。気軽に入って、一度も出ていない。
服も靴も奪われた。鞄に入ったスマホも財布も。
住所も生年月日も本名も、身体の痛みも全て教えた。
――交わりすぎてしまった。
どうやら施術は終わったようだ。
辻さんはにっこり笑って手を差し出す。私はその手を掴んで台から降りた。
ようこそ、迷家へ。
今日から私も、マヨイガの一部。