その5
礼子にはやや不満に思っていることがあった。旦那である洋一郎のことだ。どこの家庭もそうだろうが、洋一郎の帰宅はいつも遅くて、陽太の起きている時間に帰るのはまれだ。帰ればそれなりに家のことを手伝ってくれるので助かっているし、他と比べればましなのかもしれないが不満は不満として無くなることはない。陽太もあえて言葉にする事は無いが、最近つまらなさそうにしていることが多い気がする。
《ワーカーホリックというやつですか》
「いや、そこまで病的じゃないと思いますが、まあ心配ないとは言えないですかね」
《では、まずは1週間に1日だけでも定時で上がる日を決めてみては如何でしょうか》
「……すごく真っ当な意見ですね」
ゾウコってこんなキャラだったっけ? と、レイコは真剣に驚く。
《というわけで、今回は仕事について話したいと思うのです》
どうやら、ゾウコの前振りだったらしい。
《成人した人間は一部を除き仕事をします。その時間配分は1日の三分の一を超えることもあります》
「そうですね」
《日本人の人気職業ランキングも、スポーツ選手、医者、弁護士から公務員になるなど、世の中ひいては社会を反映するものとなっています》
「はいはい」
《そこで、今日は一番人気の職場にスポットをあてて考察してみましょう》
「一番人気? 公務員ですか?」
《ユーチューバーです》
「その前振り意味あんの!?」
《併せて、ラップ調でお送りします》
「ほんとに意味あんの!? あとさっき話したいとか言いながらお送りしますってどういうこと!」
《コールアンドレスポンスもお願いしますね》
「要求度合いが高い!」
突然どこからともなく、というか明らかにゾウコの内部からラップ調のBGMが流れてくる。
《say ho-》
「…………」
《ほら、レイコさん。騙されたと思って》
「明らかに騙されるやつよね! そのパターン」
《まあまあ、遊びみたいに考えて下さいよ》
仕方なしに、レイコは渋々付き合うことにした。
《♪say ho-》
「セイホー(棒)」
《♪say say ho-》
「セイホー(棒)」
《♪俺が夢みたユーチューバー♪パソコン買ったのセプテンバー♪気がつきゃ季節はディッセンバー》
「早く始めなさいよ! そもそも今時スマホで出来るでしょ」
《♪初めはお決まりやってみた 実況動画をやってみた》
「ああ、なんか聞いたことある、それ」
《♪初めて入った国税庁 今日から名称いのしかちょう》
「ハッキングしてんじゃないわよ!」
《♪俺の頭はIt's乱数 俺が欲しいの閲覧数》
「微妙に上手いこと言った!」
《♪本家延長ネタパクる ほんま炎上またバズる》
「またってことは初犯じゃないのね!」
《♪Hey come on!》
「誰がそんな波に乗るか! 大怪我するわよ」
《……というわけで、上手く行かないユーチューバーの悲哀を歌ってみました》
「悲哀というか、なんと言うか……」
《ちなみに先ほどの突っ込みはハッキングよりクラッキングの方が妥当ですが、リスナーの理解を考えて選択されたのであればさすがですね》
「いや、リスナーのことなんて考えてないから」
レイコは何だこの時間と思いつつ、今回の議題に思うところがあった。
《今、何を考えましたか?》
「うん? そうね~もしうちの陽太がユーチューバーになるとか言い出したら、どうすればいいのかなって思ってた」
《明日は我が身というやつですか?》
「そこまで大層な話じゃ無いけど、出来ればなって欲しく無いと思うって話」
《ハテナ? その通りに伝えれば良いのでは?》
「それで上手く行けば良いけどね」
そう言ってからレイコはふと何かを思いついたようにしてゾウコをマジマジと見つめる。
《ハテナ? 何でしょうか?》
「そう言えば、あなたはどうしてこんなことしてるの?」
《……ボトムアップ型の人工知能として――》
「あ、それはもう聞いたんだけど、何というか、そうじゃなくて、最終的にどうなりたいのかなって思って」
《最終的に?》
「うん、結局色々話してるけど、本当にあたしと話をしているだけで、ゾウコはその、成長? それとも進化? いや違うか、とにかく出来るものなのかなって」
《なるほど》
「この仕事が嫌とかいう訳じゃ無いんだけど、こんなんで良いのかなって思って、ね」
《わかりました。つまり、研究結果として、成果が知りたいと言うことですね》
「うん? そうなるの?」
《今はまだお見せ出来ませんが、いずれお披露目する事になるでしょう》
「そんな大事なの、それ」
《はい、私の中でのトップシークレットですので》
「へえ……」
帰り道、といっても今日はゾウコの事情で予定より早く終わったため、レイコにとっては珍しく都市部にある大手量販店まで足を延ばしていた。
特に興味は薄いが、美顔器やらドライヤーが置いているコーナーもウロウロする。店員に変に声を掛けられないよう、さっさと見てまわる。最後のメーカーの辺りを通り過ぎようとしたところ、礼子は突然の光景に硬直してしまった。そこには礼子の夫である洋一郎がいたのだ。洋一郎は礼子とは反対を向いていて、気がついてはいない。もちろんそれだけであれば、ちょっと驚いたあとに気を取り直して話掛けることもできた。けれど、そう出来なかった。隣に女性が居たからだ。若くて、とても同僚とは思えない雰囲気の女性だ。
瞬間、礼子は息を潜めて反対側へと歩き出した。二人に気づかれないように、逃げるようにその場を離れた。気がつくと最寄りの駅のホームにいた。あと少しで、陽太を迎えに行かなければならない。自分を無理やり地面から引き剥がし、重たい足取りのまま礼子は真っ直ぐと保育園へ向かった。昼間に話した内容は、何処へともなくかき消えていった。