55話 デートだ! 魔法だ! びしょ濡れだ!1
市場は、海とは反対側にあり、潮の香りも届いていない。密集した人々と台形のテントが並んでおり、これのせいで風が滞って、やや蒸し暑い印象をりり達に与えた。
2人は手をつないだままここへ来て、ようやく本来の目的であるデートへと漕ぎ着けたのだ。
「さて、ここが市場だが、いつもの要るか?」
「多分」
「なるほど。これも違うのか」
いつもの。文化の差から来る常識や認識のすり合わせだ。
アーシユルは手を離していつものメモ帳を取り出し、すり合わせの情報を書きなぐってゆく。りりは字が読めないながらも、気になってそれを覗き込む。
メモ帳の字は汚い上に乱雑。
というのも、りりが断片的に文化的に違う箇所を話すので、書く情報は注釈等を書き足していくというスタイルになっていたのだ。つまり、雑さに関してはりりの方にも問題があった。
「っと、こんなものかな」
「それ、私の研究メモなんでしょ? 文化の違いとかまで書いてても良いの?」
「ああ。これは、りりのと言うよりは、[人間]という種族の亜人研究図鑑だ。もうなんだって書いていい」
アーシユルはメモ帳を閉じて、顔の横で扇ぐようにしならせる。
「言っておくが、この段階で凄い価値があるんだぜ? なんて言ったって亜人研究図鑑でありながら魔人研究図鑑なんだ。今の段階で金貨10枚以上。もっと進めば50枚は容易く行く」
「えっと……金貨って一万円くらいの価値だとして……50……50万!? マジで!? この10ページそこらしかないメモ帳が!?」
りりが驚き、声を張り上げた事に、アーシユルは気を良くした。
「その代わりびっしり書いてある。しかも、この値段は、あたしが売るなら最低限その値段で売るというだけの話だ。これの価値が判る奴はもっと出してくれるだろうさ」
「50万円が最低ラインのメモ帳……」
りりは喉をごくりと鳴らす。50万円といえば、りりの銀行口座に入っているくらいの金額だ。それがほんの10ページ少しのメモ帳に負けるかもしれないとなれば、ただのメモ帳が途端に金の卵に見えてくる。
「おい、りり……目がヤバいぞ」
アーシユルは若干引いて、取られないようにりりからメモ帳を遠ざける。
こんな、傍から見れば子供同士のじゃれ合いを展開していた2人に、突如衝撃が襲う。男が駆け足でぶつかって来たのだ。
勢いよくぶつかられたアーシユルはそのまま転倒してしまうが、流石はハンターと言うべきか、そのまま受け身を取って起き上がって走り出す。
「待ちやがれ泥棒め!」
「……え、あ! 本当だ!」
この言葉で初めて、りりはアーシユルの手にあったはずのメモ帳が無いことに気づいた。突然の事態にまるで反応できなかったのだ。
メモ帳の行方は、アーシユルの視線の先で走り去ろうとする男の手にあった。それを確認してから、りりも慌てて追いかけようとしたのだが、病み上がりのせいか、上手く走れずに直ぐに転んでしまったのだった。
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「お前それが何か分かってるのか!」
「金貨50枚は容易い書類さ。聞いてたぜ? もうこれは俺のもんだ。諦めな!」
叫びながら男を追うアーシユルだが、男は大人で、いかにも走るのが得意ですという体つきをしていた。事実、男とアーシユルの距離はみるみるうちに離れ、挙げ句に男は人混みの中に消えてしまった。
アーシユルは身体能力は高いが、それは小回りが利くという方向性での話だ。身長から来る走る速度ではどうやっても大人には勝てない。
「ちくしょうが! あんな奴に!」
アーシユルは諦めて足を止める。足で追いつけないのならば作戦を練るしか無いと考えた。だが直ぐに、もう少し早くそうしていれば、投擲等でどうにかなったかもしれないという後悔が浮かび、苦虫を噛み潰す。後の祭りだった。
と、そこに。
「アーシユル! 上に向かって水出して!」
という、りりの声が飛び込んだ。
よく判らない指示を受け、疑問に思って見渡せど、視界内にりりは居なかった。
「はやく!」
「判ったよ!」
どこか自信を含むりりの声に、アーシユルは素直に胸のホルダーから水の召喚ジンギを取り出し、起動し、それを空に向かって掲げると……。
「はぁ!? りり!? え!?」
地上から10メートル程の何もない空間。アーシユルを含む、周囲の人々の困惑を独り占めにして、りりはそこに立っていたのだった。
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ほんの少し時間は戻る。
りりは、泥棒とアーシユルが駆け出した直後に転んでしまう。
視線の先には、徐々に距離を離されてゆくアーシユルの姿。
一応、メモ帳は無くともアーシユルとりりの頭の中には内容が残っているので作り直すことは出来る。しかし、先にあれを売られてしまえば、今までの情報が無価値になり、アーシユルの成果が認められなくなってしまうのだ。
りりは憤りを覚える。何も役に立たない自身にだ。
だが、だからと言ってくよくよするばかりで諦めるりりではない。りりは比較的行動派なのだ。
辺りを見渡す。人々は、睨まれたと勘違いし、やや身を引いてしまう。
りりは、改めて自身が魔人として見られているのだと思い知り、苦い顔になる。
この時点で人を使う方法は有効的では無いと切り替えた。だとすれば、自身の力だが、りりはアーシユルよりも足が遅い。走って追いかけるのは無理に思えた。
ならば、りりが出来る事。それは念力に他ならない。
カースもあるが、負のイメージを固める時間が無い。その上、シャチの話から、昼の魔法と夜の魔法という概念があるという事が判明している。夜に使えていたカースは、すなわち夜の魔法だ。昼である今は使えない。
仮に使えたとしても、夜に使う念力のようにとても弱いものとして発現することになる。やはり使えない。今、りりに何かが出来るとしたら念力を利用した何かしかない。
念力。エナジーコントロールと言われるそれは、魔力を物質的なエネルギーとして作用させる魔法だ。
これは、シャチの持つ知識から得たものであり、同時に、りりが今までどれだけ念力を下手くそに扱っていたかという答えでもあった。
念力は、その形を好きに変形させることが出来るというのに、りりが使い方を知らないばかりに、今までは、もやもやとした抽象的で密度の薄いものとして発現されていた。これは、魔力を無駄に使っている事に他ならない。
だが、逆に言ってしまえば、魔力を持ち歩けているりりには、イメージするだけで完璧なエナジーコントロールが存分に使えるという事でもあった。
想像し、魔力に形を持たせるだけで、この世界でりりにしか見えない物質がそこに出来上がるのだ。
使いこなせていなかった時でさえ、ボクスワの神子の元で金属塊くらいなら持ち上げられた上、まだまだ余力があったのだ。使い方を知った今、[りりの念力]というポテンシャルは計り知れない。
況して、今は昼。絶好の念力日和になる。
手を前に突き出し、魔力の塊を操作し、横倒しの板を作り出す。
念力はりりの十八番。例え夜であろうとも、発生させるだけならノータイムだ。
今も、その例に漏れず、板を作り出すまでに1秒とかかっていない。
普通の人には見えないそれを操作し、地面から少し浮かせる。
物質的に出力されようとその本質は魔力だ。りりの思うがままに動く。
試しに左足を乗せる。ビクともしない。
右足で地面を蹴り、念力で出来た板の上に完全に乗る形になる。問題なく、りりの足は大地から離れたままになった。
更に強度を確かめるためにその場でジャンプしてみるも、足場はビクともしない。それどころか、りりにはまだまだ余力があったのだ。
確かな手応えに、りりは小さくガッツポーズをして、カースを使った際に出た「念力なんか」という言葉を撤回する。
あの時から、りりの自己評価は[弱い念力と、簡単に人を失明させる程の恐ろしい呪いを扱う魔人]だった。
だが、何のことはない。それは恐ろしい加虐の力に当てられて卑屈になった故に出た評価だ。
「私は今も昔も念力少女なんだ!」
幼馴染にからかわれながらつけられた二つ名を口にし、足場を動く歩道のようにスライドする長いものへと変化させ、まるで宙は我が庭と言わんばかりに駆け出してゆく。
手すりは無いが、落ちても念力で受け身を取ればいいのだ。リカバリーが利くのなら、鈍くさいりりでも物怖じせず問題なく動けた。
りりは月見山家の落ちこぼれ。だが、それはもう過去の話になる。
エナジーコントロールのなんたるかを掴んだこの瞬間、りりは世界の裏の理に触れる足がかりを得たのだった。




