31話 魔人の落ちる日
アーシユルは、りりが目を覚ましてから甲斐甲斐しく世話をしていた。
単純な心配もあったが、自身だけ軽症で済んでしまったという負い目のようなものもあった。
だが、それだけではない。
馬車で移動している時から、じわじわと好意が高まっていっていたのだ。
理由は不明……。
だが、しっかり面倒を見ようと思えるくらいには好意は高まっていた。
そこへ海への転移だ。
犯罪者への罰として放り出されたそこで、死に物狂いで状況を打破しようと躍起になっているりりに心を撃たれた。
自身が諦めてしまった生きるという事柄に、りりは諦めず、言葉通り身を削って死中に活を見出したのだ。
それに勇気づけられて、今のアーシユルがある……。
りりに恋をするのは自明だった。
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りりから見て、アーシユルは逃亡を助けてくれている女の子だ。それ以上でも以下でもない……そもそもそんな浮ついたことを考えている余裕が無いのだ。
少なくとも今は……。
それでも手を繋がれると安心感を覚える。
こちらへ来てから、意識を持ってやる初めての肌と肌の接触だ。少し気分が高揚した。
先程、海水人魚に担がれていたのはノーカウント。あれは人肌というよりは、少々冷えた分厚い肉のような感触だったのだ。ノーカウント。ノーカウントだ。
魔法を使えと言われているのに、何のアクションも見せないで黙りこくったりりとアーシユル。
その場に居合わせたシャチは空気を読んで、今日のところは諦め、落ち込んだままずりずりと這いずって海へと消えていった。
2人はそれを見送ってから、2人の世界に入り込む……と、いうよりは、アーシユルが一方的にそんな気分になっていっているのだ。りりはそれに流されている。
アーシユルは向き直り、そっと微笑んで頭を撫でた。
りりは少し照れる。
「前から思ってたけど、アーシユルは女の子なのに男前さんだよね」
笑いながら軽口を叩く。
陰鬱な気持ちが少し浮上してきていた……のだが、次の一言でそれは大きく崩れることになる。
「は? あたしは女じゃないぞ?」
「……ん?」
りりの思考は見事に停止した。
「あ!? さてはそこから違うのか!?」
「は? な、何が!?」
先程まで覚束なかった思考は、ここへ来て違う方向に乱れる。
「あたしは無性だ。男でも女でもない。ヒトは成人するまでこうだ」
「え? え? え???」
パニックだ。
女の子だと思っていた子が男女という枠にすら入門していなかったのだから混乱は強くなる。
「ヒトの生態系の話だ。大人になるまでは子供同士でグループを作るんだ。で、成人する時に例外もあるが、1番大きく成長した奴が女になる。それ以外は皆男になる。ここまでは良いな?」
良くない。
そう口に出す事も出来ない程度には頭は散らかっていた。
「成人したら、女は外生殖器が無くなって女性型になる。背がデカイ女モテるのも、でかい方が子供が産みやすいからだ。クリアメがモテるのもそんなところだ。解ったか?」
「……はい……多分……」
全然理解が追いつかない。
と、いうのも、男性器が退化するという点で引っかかっていたからだ。
成人していないヒトは男性ではないという括りでありながら、外性器……つまり、男性器そのものは付いている。
りりからしてみれば、成人していないアーシユルには男性器のある男の子だ。
「他にも女が死んだら、稀にだがその場に居た1番若い男が女に変化するとか、生まれてくる子供は高確率で2人以上っていうのもあるが……どうだ? 共通点はあったか?」
「……ほぼ。いや、全く無いって言ってもいいかも」
「全くか……参ったな。22%って思ったよりも大きいな……」
アーシユルは頭を掻く。
一方でりりは、先程まで女同士でも少しいい雰囲気になっている気がする……と、思っていたのが全て吹き飛んでしまっていた。
そもそも女性ですらなかったのだ。
男性器があるのも初耳。
それがあるということは、アーシユルがなんと言おうと、りりの中では……。
「それって大人になるまで皆男の子って事じゃ……ぁ……ん……」
ようやく思考が追いついて叫んでしまい、身体が軋む。
それに伴って声も失速していった。
「確かに女性器は無い。だが、生殖能力も無ければそもそも勃起すらしないんだぞ。そういうのは全部成人してからだ。だから成人して生殖可能になったらグループは荒れる。性の快楽っていうのが凄まじいそうだ。体験してないから判らないがな」
大真面目に語るアーシユルの顔はどう見ても女の子のそれだ。
無性と主張しようが、りりにとってもうアーシユルは男の子なのでギャップが凄まじい。
確認しようと、アーシユルの股間に手を伸ばして掴むが、アーシユルはなんら気に留める様子はなかった。
この暴挙は、普段ならば絶対にしないような事なのだが、今のりりは完全にテンパっており、その異常事態に気付けない。
そのまま揉むと、手に伝わるのはふにふにとした小さな主張。
「あ、ある!?」
「お……おう? あ、そう言えばさっき洗ってる時、確かにりりの股間には付いてなかったな」
「なっ!? にゃぁぁ!?」
汚れ放題だった股を洗われた事を思い出し、顔を真っ赤にさせてテンションを乱高下させる。
ついでに、どさくさに紛れてうっかり熱心に揉んでしまっていた手を離した。
恥じらうりりとは対象的に、アーシユルはさも当たり前のような態度で話を続ける。
しかし、その頬は少々赤くなっていた。
「あたしは変わり者で、グループを作らずにクリアメのところにずっと居たんだ……で、今年成人するんだ。今年中に身長が伸びるか、例外に当たれば女になる。伸びなかったら男だ……でも、周りに同世代のヒトは居ないから、実はどっちになるか判らないんだぜ?」
そう言うアーシユルは、酷く自然に蠱惑的な表情になってゆく。
唇は一言々々をしっかりと発音しており、動いている舌まではっきり見えた。
りりは空気に流されやすい。今回もそれに漏れず、思いっきり空気に飲まれてゆく。
「でもな、居るんだ……あたしよりちょいと大きくて、年は上だが、見た目には同世代の……22%くらい外れてる[人]がな……」
「はひぇ!?」
ですよね!
そう言ったつもりだが、その口は変な音を漏らすのみだった。
アーシユルの少女のような顔が鼻先に触れるくらいの位置まで近づき、上気した息遣いが肌に当たる。
匂いはしない。嗅覚は麻痺したままだからだ。
引き剥がせない。左腕はともかく、右腕はもう動くというのに。
顔が紅潮する。先程まで寒気すら覚えるほどに蒼白だったというのに……。
どう見ても少女にしか見えない、アーシユルの美しい瞳がりりを飲み込む。
「りり。お前はあたしが面倒をみてやる」
殺し文句と共に、アーシユルの右手がりりの頭を掴む。
アーシユルは、空気に飲まれた思考を停止させているりりの唇にキスをした。
それは啄むようなキスではなく、舌を侵入させる大人のキスだ。
りりは流石に驚き逃げようとするのだが、いつの間にか、頭と共に右腕も押さえつけられているので逃げられない事に気づく。
得意の念力は思考の外だった。
絡む舌に更に唾液が送り込まれると、頭の先までビリビリとした電流が流れる。そう錯覚するような甘美な刺激に、りりは目を閉じる事すら忘れる。
こうなると、もう逃げられない。流され続けるのみだ。
アーシユルの顔が離れ、2人の舌の間には、混ざりあった涎の橋がかかる。
ほんの数秒のキスだったが、その目は垂れ下がり、身体を小刻みに震わせていた。
2人共、思考を停止させ、暴力的とも思えた快楽の余韻に浸った。
「りりはどうだ? 来年にはどうなってるか判らん奴だが……これから一緒に居る気はあるか?」
やや緊張するアーシユルの声に、既に蕩けているりりは思ったことをそのまま口にする。
「真っ赤……」
「髪か?」
「顔もね」
言われ、アーシユルは少し目を伏せ、恥ずかしがりながら上目遣いになってりりを見る。
と、いうよりは、そもそも目を離そうとしていないと言う方が正しい。
「そもそも、あたしは最初、変な奴だなって思ってたんだぜ!」
「うん」
アーシユルは、照れているのか落ち着かない仕草に変わる。
りりはそれを指摘せずに落ち着いて受け止めてゆく。
「実際、思った以上でな……常識知らずで我侭で……直ぐにへたれるし、女にあるまじき弱さだしでな……」
パッと聞く限りでは悪口だが、アーシユルは熱い視線を込めてりりを見ている。
「だが、そんなところを見ている内に興味が湧いてきてな……あの時までは確かに研究対象としてだったんだが……騎士達から逃げてる時からどうにも……こう……可愛いなって……」
「……あの時って魔人だったのか。みたいなこと言って睨んでなかった?」
少し意地悪な質問を投げかける。先程の悪口三昧の仕返しだ。
「その時はまだ防衛本能みたいなのが勝ってたんだよ……実際話を聞いたら直ぐに打ち解けただろ? な?」
「そうだね」
必死に食い下がるので、おかしくなって微笑んでしまう。
そこには、初対面の時の突慳貪な雰囲気はまるで無かった。
それは完全なる恋する少女の表情だ。
そんなアーシユルの気持ちの一つ一つを受け止めてゆく。
しかし、噛み締めたい気持ちとは裏腹に、りりの性欲は暴走寸前になっていた。
既に視界が輝き、アーシユルの唇以外が見れていない。
そんな事はつゆ知らず、アーシユルは続ける。
「でも、決定的だったのはシャチに襲われた時だ……研究対象とかじゃなく、もっと単純に……失いたくないって……心の底からそう思ったんだ……」
「うん」
「特に、りりが海に沈んで戻って来なかった時なんて世界が暗くなった気さえした……」
「夜だし実際暗かったよ」
少し茶化す。
りりは、既にアーシユルの反応を見るのが楽しみで仕方なくなっていることに気づいた。
「それ以上だ。もっと感覚的に暗くなった気がしたんだ……必死だったんだぞ! あたしは上手く泳げないし、りりも見えないし! ……だから、あの雷撃が当たったのは単純に運が良かっただけだ」
アーシユルは感情を乱高下させる。
その時の恐怖や絶望を思い返し、そして助かった時の幸せを反芻しているのだ。
「え? 私、偶然で生きてたの?」
「ああ。りりが海面に出てきた時はりり自体が光っていた気さえしたんだ。本当に嬉しくて嬉しくて……どう言えばいいか判らない」
アーシユルはその時のことを思い出してしまって感極まったのか、若干涙目になっていた。
アーシユルが一通り言ったので、次はりりの番だ。
だが、語るという選択肢は無い。
「アーシユル……」
「……なんだ?」
先程から鼓動は高まる一方だが、苦しいというものではない。
天気は曇天。
海は少々荒れているが、今のりりの脳内程ではない。
「私の住んでた所だと……目は瞑ってするものなの……」
まだ痛む右手を動かし、それをアーシユルの左頬に添え、顔を引き寄せるように誘導する。
接近する顔……2人共がゴクリと唾を飲み、息を荒くしていた。
耳と頬を燃えるように熱くしながら、蠱惑的な表情をしてこう言う。
「もう一回……」
こうして、2人は唇を再び触れ合わせた。