1話 慌て者の訪問者
通気性の悪い小屋の中、りりは困惑していた。
トイレに行きたいと言って連れてこられたのがここだったからだ。
置いてあるのは他人の糞尿が溜まっている桶と、尻を洗う用の水の入った桶だけ。他には何もない。
「ここで……え? 本気で言ってるの……?」
臭く、不衛生極まりないのは周りの環境を見ても不自然なものではなかった。だからといってこれに順応できるかというのは違う話だ。
しかし、それに関わらず便意というものは襲ってくるので、「異文化だから仕方がない」と、呪詛を小さく唱えながら用を足す。
りりがこんなトイレ事情に身をおいているのには理由がある……。
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都会の夕空の下、トボトボと歩いているりりの黒髪をビル風が撫ぜる。整えてあったそれは本来のくせっ毛へと戻っていった。
ただでさえ仕事で疲れているところに追い打ちをかけられた気になり、控えめにため息を吐き、ぼやく。
「やだなぁ……」
上京してきて以来、ずっと社宅より通っている今の会社の上司との相性が合わないのだ。
ただ合わない。どちらが悪いというわけではないのが余計に質が悪かった。
が、これも仕事だと考え、メールでもチェックしようとスマートフォンを取り出そうとした時……。
「わっ!」
うっかりと手を滑らせて落としてしまう。
咄嗟にスマートフォンに意識を集中させると、落下速度が落ち、破損は回避された。
ホッと一息付く前に、"今の" を周りの誰かに見られていないかを確認する。
歩行者は "誰かが物を落とした" という現象しか見ていなかったようで、りりの心配とは裏腹に、誰もが気にすることなく自分のスマートフォンに視線を落として歩き去ってゆく。
ホッとし、落としたスマートフォンを拾い上げた。
スマートフォンが減速した理由。それはりりの能力によるものだ。
念力。
りりがいつからか使えるようになっていた能力の名だ。
世間一般で、それはマジックやら手品と言われるものだが、りりのこれは種も仕掛けもない正真正銘の超能力だ。
とはいえ、その能力は強くない。せいぜい、家でコップやリモコンを手元に持ってこれる程度。スプーン曲げなど夢のまた夢。
りりは目立ちたがりではない故、能力を使ってお金を稼ぐという考えはない。加えて、使えて当たり前の能力を見せびらかすのは違うんじゃないかという思いもあった。
そのため、りりはごくごく一般的な社会人として生活しており、この能力のことを知るのも、両親とクラスメイト達の間だけに留まっている。
交差点で信号待ちをしながら、落としたばかりのスマートフォンのメールを確認する。
受信は1件。地元の友達から。
「今度の連休に遊びに行くから泊めてな」
特に用事も入れてなかったので「良いよ」とだけ返して、再び胸ポケットにスマートフォンを収める。
メールをしている間に歩行者用信号は青になっており、他の歩行者から大きく出遅れて、少し慌てながら足を踏み出した……のだが、視界の端に映った妙なものに気を取られ、歩みは鈍っていった。
[空間の歪み]……そうとしか形容できないものが、みるみるうちに歩道の隣に展開されてゆき、あっという間に3メートル程の大きさにまで成長していったのだ。
穴の先には半透明に見える広い部屋のような光景が広がっている。
これを見ているのは、りりと、信号待ちしている車のドライバーくらいだ。歩行者はとっとと交差点を渡ってしまっているので目にしていない。
りりは突如現れた大穴に困惑するのと同時に、目を輝かせて興味津々に近づいてゆく。信号はまだしばらく変わらない。
君子危うきに近寄らずとは言うが、りりは君子にはなれないタイプだ。
そんな時、遠方よりクラクションと共にゴムタイヤの擦れる音が飛び込んできた。
ハッとして振り返ると、過剰な速度で暴走する大型の貨物車の姿が映り込んだ。
貨物車は前方を走っていた車に衝突すると、あろう事かりりの方へと進路を変えた。フロントガラス越しに見える運転手は突っ伏して意識を失っているように見える。
軽自動車ならともかく相手は大型の貨物車だ。接触すれば跳ね飛ばされるどころかミンチになってしまう。
りりは全身の毛を逆立たせ、慌てて[空間の歪み]の方へと走り出した。咄嗟なので正常な判断が出来ていなかった。
それが運命の分岐点になる。
悲鳴を上げることも忘れ、一瞬とも永遠とも思える時間の中、必死に足を動かし[空間の歪み]を越えた。
歪みの先に映っていた半透明な世界は、境界を越えた瞬間にくっきりとした現実へと変わり、その一歩目を滑りの良いタイルが出迎える。
タイルとヒールの相性は最悪。カツンという音を鳴らし、りりは顔から無様に転倒した。
直後。貨物車はりりを追うように[空間の歪み]から現れる。
死んだ。
頭を真っ白にしてそう確信した。
現れた貨物車は荷台で天井を削りながら、りりを高い車高の下敷きにするように通り過ぎ、部屋の石壁へと速度そのままにぶつかった。
一瞬で巨大な鉄塊へと変貌を遂げたそれはようやく暴走を止め、僅かにタイルを擦るゴムタイヤのスリップ音だけを響かせる。
りりは背中を通り過ぎた確かな存在感に息を呑み、死の恐怖と同時に、生への喜びを噛み締めた。
顔から転けたため頭はクラクラするものの、起き上がり状況把握を優先する。
白くくすんだ石造りの壁の部屋に、艶のあるタイル床。
辺りには、木製の長テーブルを初め、椅子や彫刻刀等が散乱しており、それはここが工房だと示していた。
先を見ると、貨物車によって崩れた壁が土煙を上げている。
後方では、先程まであったはずの[時空の歪み]は消え失せており、代わりに慌てふためく金髪の外国人が2人と、同じく金髪が1人俯きで倒れていた。
慌てる2人は、りりに対して何かを叫んでいるものの、言語が違うのか言葉は意味を持って届かない。だが、その動きは明らかにりりの頭上を指していた。
指を指された方に目をやると、天井が今にも崩れ落ちんと凄まじい勢いで亀裂を増やしていた。貨物車の荷台によるダメージ故だ。
「うわ……」
にじり寄ってくる危機を感じ、走りやすいようにと脱いだヒールを手に持ち起き上がる。
そして、即座に貨物車が開けた大穴へ向かって駆け出した。崩落の可能性があるのだ。一秒たりともこの場に居たくないと考える。
走り出すのとほぼ同時。天井が崩落を始め、轟音と共にりりの背後に瓦礫が量産されてゆく。
「うああああ!」
この声は女の子らしくない。
そんなズレた事を考えながら、何故か必要以上に重く感じる身体に鞭を打ち、貨物車の窓ガラスの破片が散乱する床を走る。
ガラス片が足裏に食い込むものの、危機的状況に痛覚は完全に麻痺しているのか、それは逃走の邪魔にはならなかった。
外に出ると轟音が収まり、代わりに土煙が舞いあがる。
ほっと一息。
一先ずの危機を乗り越えたりりを出迎えたのは、美しく輝く星空と花咲き乱れる庭園だった。
先程までは夕空だったはずなのに、空を見上げれば満天の星……。
まだそんなに時間は経っていないはずだ。
と、混乱する頭のまま、未だ強く脈打つ胸を落ち着けつつ、辺りを見渡す。
だが、それで判ったのは庭園の向こうにはずっと石壁が続いているということだけだった。
ふと、何か違和感を感じる。嗅いだ覚えのある匂いがしたのだ。
何の匂いだろう? と、徐に後ろを見ると、拉げた貨物車の足元に、艶々と輝く異臭を放つ液体が広がっていっていた。
感じた違和感の正体……ガソリンだ。
おまけに、車体からは火の手が上がっている……爆発の危険があった。
「ひ……火! 逃げな……きゃっ!」
長らく電車通勤をしていたので、久しくガソリンの匂いを嗅いでいかなったが故に、一瞬反応が遅れる。
頭の中で響く警鐘に従い、歯を食いしばって全力でその場から離脱せんと走った。
ガソリンの爆発の規模が如何ほどなのかなど、調べたことすらないのだ判るはずもない。
庭園を突っ切り、石壁を少し行った所で見つけた格子状の勝手口から外に出た。
少しして、爆発音が耳へと届く。
意外と大したことはない。と、ホッと一息付いて足を止めたのだが、その頭に響く警鐘は鳴り止んではいなかった。
再び身体を緊張させて走りだす。
昔からこういう予感には従うようにしていた。
走り出して間もなく。先の比ではない規模の、空気を震わせる程の大爆発が起きる。離れていたというのに強い耳鳴りを起こさせる程のものだ。
時間差で、炎由来の生ぬるい風が届き……先程まで足を止めていた所へ、爆発に巻き込まれた残骸が飛来し、突き刺さった。
間一髪。
警鐘に従って素直に動いて良かったと、心から安堵する。
「…………はぁーーーー」
ここで、肩を落としてようやく一息付いた。
上体を起こし、深呼吸をしてから爆発のあった方を見ると……ありえない光景が映る。
「……お城だ」
と、言っても西洋の物だ。まず日本ではお目にかかれない。
その一角が、黒煙を撒き散らす炎に包まれライトアップされていたのだ。
状況の変化に振り回されていたりりだが、城の暗かった窓に次々と灯りが灯ってゆくのに気づく。
人が居るなら大丈夫そうだ……と、少し安心することが出来た。
「疲れた……とりあえず向こうで休ませて貰おうかな……」
炎上する城をバックに、妙に重く感じる身体を引きずり、力なき足取りで少し行ったところにある建物を目指す。
ペタペタと石畳を踏む足は、徐々にその感覚を取り戻していった。
目的地とした所は、何やら絵の描かれた看板の下がる西洋風な2階建ての建物。
りりが到着したのとほぼ同時。中から大柄な外国人に見える女性と、りりより少し小柄で赤髪で気の強そうな中性的に見える少女が出て来た。
2人は、炎上する城を背負うりりの存在に気づいて話しかける……のだが、やはり言語が違うのだ。りりはこれを理解できない。
「何語……ですか? わ……からない……です……」
一応返事をするも、同じく言葉は通じない。
しかし、とりあえずの危機を脱した事と、人に出会えた安心感から、心に張り詰めさせていた緊張の糸を切らしてしまった。
手に持っていたヒールをポトリと落とし、ふらりと前方に向かって倒れる。
倒れそうになったところは、大柄な女性に支えられて事なきを得た。
りりは強い包容力を感じ……その意識を手放す。
この時に出会った、小柄な赤毛の少女に見えた存在。
それはりりの運命を大きく動かしてゆく事になるのだが……それは、まだ誰も知らない物語だった。