大江戸ダイバーシティ
江戸の隣にある台場はもう一つの大坂と呼ばれるほど栄えていた。
西暦にして一六四八年、慶安元年のことであった。
海辺を埋め立てて作られたこの地はときに台場町などと呼ばれており、数多の商人や職人がおり、江戸の、ひいては日ノ本の経済の中心地となりつつある。欧州の言葉を好んで用いる者は「だいばぁしてぃ」などと言ったが、馴染みない言葉のために流行る兆しはなかった。
そして金が集まれば必然、欲が生まれるものであり、その金を目当てにして欲を満たすための施設が生まれるものであった。
遊郭はその代表格であろう。世に身を滅ぼすものと言えば三つある。酒、金、女である。それらは人間の根源的欲求を満たすものであり、遊郭はその全てを満たすものであった。酒を飲ませ、金を使わせ、女を侍らせるものである。
花街はこの台場にもあった。吉原に数は劣っていても、酒の席もそこそこに、遊女と結ばれるをの今か今かと待つ男がいた。
名は風津という。もちろんのこと本名ではなく、彼を見れば誰もがかぶき者と言うだろう。生まれは武蔵国と言っているが本当のところはわからない。齢は二十の半ばほど。髷を結うこともなく、ざん切り頭で歩いているのはこの台場町ならではであった。
そんな者を上客として扱う遊女など普通ではいないだろう。彼が馴染み客になるべく努力していた姿を多くの者が見ていたが、一様に首を横に振っていたものであった。
しかしこの日は、なんたる偶然か、はたまた気が変わったのか、あるいはそういう変わり者が好みだったのかはわからないが、遊女は風津を上客と認めたのだった。
まして、この遊女は太夫と呼ばれる、遊郭の中でも最高位の女だった。容貌は天女が如し、所作は姫が如し、着飾る衣装は竜宮の織物とも言われる。おおよその人がお目にかかれる相手ではない。大名や役人でさえおいそれと手を出すことはできず、酒の席で酌をしてもらうのがせいぜいだ。
風津がいま目の前にしているのはそんな女であった。名は珊太夫と言う。興奮が隠しきれないのは当然のことであろう。顔をだらしなく緩ませて、彼女の後ろ姿を見ている。
着物をゆるりと脱いで、肩を見せた。髪には、いまは風津の女であるという証に、専用の簪をつけている。これから珊太夫を自分のものにするのだ、という実感があった。金で結ばれた関係であるとは言え、風津は本気だった。ごっこではない。恋なのだ、と胸を張って言うことができる。
「ねえ、お願いがあるのだけれど」
遊女は言った。お願い、なんのことだ。風津は耳を傾ける。優しくしてほしい、などとは言うまい。むしろそれは誘いだろう。ははあ、もしや照れているのではあるまいか、などと下衆の勘ぐりをする。
ここは聞いておくのが男の甲斐性というやつだ、と風津は思って、彼女に少し近づいて言った。
「なんだい、改まって。俺と君の仲だろう。何でも言ってごらんよ」
「何でも? 何でもって言ったかい?」
「おお、もちろんだとも。何か悩んでいるのか。俺ならばどんな悩みも解決できるとも」
「さすがは名に聞こえし風津さま……頼もしいですわ」
そう言って微笑んだ。気がした。こちらにわずかに顔を向けた姿は艶やかで、いますぐにでも手をかけたくなる。我慢のときだった。
「あの男を知ってる? 永尾格次郎という名の男なのだけれど」
「うん? ああ、知っているとも。この台場にいる職人の一人だとか。すまんが詳しくはないぞ。俺は芸だとか技だとかめっきりでな。前も話した通り、剣しか道がない」
「ええ、そうでしたわね」
くすくす、と笑って彼女は言う。妖艶な表情にひき込まれそうであった。風津は自分の顔がだらしなく歪むのを理解した。
「それで、その、永尾殿がどうしたっていうんだ?」
「あの方をあなたに斬っていただく思うのです」
変わらない笑顔のまま珊太夫は言った。ああ、なるほど、自分の愛に応えよとお前は言うか。風津は思った。
もしかすると、珊太夫に詰め寄るあまりよくない客なのだろうか。懇意にするつもりはないのに、指名してはにじりより、礼儀作法を無視するような者だろうか。
ならばこの剣はためらうことなくその男を斬るだろう。愛しき者を守るためであらば。
「ああ、なるほど、そういうことか」
「そういうことでございます。理解が早く、助かります」
裸身をしゃなりと揺らして、彼女は近づいてくる。風津の首に手をかけた。膝立ちになっている風津は珊太夫を見上げる形になる。
顎を持ち上げられた。視線が重なる。にやりと笑った彼女は、顔をゆっくりと近づけてきた。
そのとき、風津は鞘から抜かないままに刀を振るった。一閃はまさに光陰の如し。次には珊太夫は鞘に当てられ倒れ伏すものだと思われた。
が、風津が当てたのは衣服のみであった。鞘に弾かれた衣服が舞い落ちると、その向こうに忍び装束を纏った女がいた。
変わり身の術、というのが脳裏に浮かんだ。数多の人物と出会ってきたが、忍者を見たのは初めてであった。
「御見事! 酒が入れど技の冴えに些かの衰えもなし。やはりおぬしは優れた剣客のようでござるな。しかし、どうして拙者がおぬしの知る珊太夫でないと分かったでござるか?」
「その間抜けなござる口調はわざとか?」
「こ、これは仕様というやつでござる! いいから答えるがよい!」
怒ったように忍者は言った。いいや、その風貌は女と呼べるほど成熟していないように見える。風津は心のうちで忍者娘と呼ぶことにした。
ふん、と風津は鼻を鳴らす。
「臭うのさ、鬼の気配だ。怪しい術を使って俺を惑わそうとしたな?」
「むう、なんという嗅覚でござるか。術を破る者はいれど、術を使う前に破られるとは思わなんだ」
「くノ一め、狙いはなんだ、答えてみろ。自慢ではないが、俺は人に襲われるようなことは両手で足りないぐらいはしても、わざわざ忍者を雇って殺めようとするような輩に喧嘩を売った覚えはねえ。むしろ媚びて生きてきた」
「本当に自慢にならないでござるな!?」
胸を張って言う風津に、呆れたように言う女忍者は、はあとため息をついた。
そして衣服を正して正座をすると、深く頭を下げる。いわゆる土下座であった。女に土下座させるのは少し気が引けたが、風津はひとまず言葉を聞こうと思った。
「試すような真似をした。深くお詫びを申す。その上で、お願いというのは他にない、永尾格次郎についてでござる」
その言葉に、風津は刀を納めないままに、問い詰める。
「なにゆえ職人なんかを斬らねばならんのだ。ここ台場は徳川のお膝元である地だ。そこで貴重な職人を斬ってみろ。次に転がるのは俺の首だ」
「徳川に仇を為す者でござる。その証拠を確かに掴んでいればこそ、こう言っているでござるよ」
忍者娘の口調はいたって真面目だった。ござる口調だが。彼女の生真面目な質のみではなく、嘘偽りはないように思われた。ござる口調だが。
公儀隠密の身なのだろう。その身のこなしは風津の力と技を以ってしても、捕らえるのは困難だった。
混乱した風津は頭を掻いて、ひとまず刀を納めた。きん、という音が鳴るとともに、忍者娘は顔をあげる。
「術にて利用しようとした身ではあるが、おぬしの腕を信用しているのは本当でござる。我が主人からは、術を破られたならば破格の待遇で迎えようと言われておれば、金銭もきちんと用意があるでござる。魑魅魍魎、悪鬼羅刹を斬る不死殺しの風津と言えば……」
「もういいもういい。今日は終いにしよう。酔いもすっかり醒めちまった、クソッ」
悪態をつく風津は、そう言って席の端に寄せていた徳利をお猪口へと傾け、口に運んだ。
不死殺しなどという異名がついたのは、いつからだろうか。知る人ぞ知る名だ。なにせ妖鬼の類が表舞台より相当数減っている。悪さをする者ばかりか、善き鬼まで減っている昨今においては、風津の出番はそもそも少ないのだ。どこか異界へと逃れたか、あるいは自分の知らない同業者が漁るようにして討ち取っているのではないかと考えている。
刀を抜いてすっかり意識の冴えてしまった風津は、そこではたと気づくことがあった。
「本物の珊太夫はどうしたんだ? 俺はあの女に用があるんだ。テメエなんかに構ってる暇はねえ。いや、ここにいねえってのは、いったいどういうことだ。ことと次第によっちゃあ、ただじゃ済まさねえぞ」
「本物の珊太夫はいまごろ、洋上でござるよ」
「……は?」
忍者娘の答えに、間抜けな返事をする。耳を疑ってしまった。
「客たるおぬしが知らぬのは道理よ。珊太夫はかねてより客として来られた南蛮渡来の御仁と恋仲であった。商売ではない関係でな。しかし相手の男は帰国の時期となり、珊太夫にも買い手も現れた。そこで拙者は両人より依頼を受け、珊太夫の立場と引き換えに逃したでござるよ。拙者としても風津殿をたぶら……会うために必要なことでござった」
「まだ死んだと聞かされた方がましだった……」
風津はそうつぶやいて、お猪口を呷った。
このまま酒を飲んでいれば悪酔いしてしまいそうだったが、飲まずにはいられなかった。
* * *
「それで依頼のことなのでござるが」
忍者娘はそう言った。風津が三本目の徳利を空にしたときだった。
お猪口を口につけながら、じろりと忍者娘の方を見る。彼女は太々しい態度で正座をし、風津を見ていた。
「なんだよ。今日は終いだって言ったはずだぜ。それに、こちとら失恋の痛みで酒にでも溺れてねえとやってられねえんだ。話は後で聞く」
「そうもいられないでござる。永尾格次郎なる男が幕府へと仕掛けるのは今日、このときでござる」
「もっと早く言え、そういうことはよ!」
風津はそう言ってお猪口をおいた。忍者娘は顔を少しだけ綻ばせる。
「おお、受けていただけるでござるか!」
「そうじゃねえよ。だがなあ、テメエのせいで損した分は取り返さねえとならねえ。俺が珊太夫に払った分以上はもらえるんだろうな?」
「小さい男でござるな!?」
「俺だってなあ、本気だったんだからなあ!」
いまにも泣き出しそうな風津に、忍者娘はどうどうと馬をあやすように扱った。
ふう、と息を大きく吸って、吐いた。過ぎたことは仕方ない。気持ちを切り替えて、次に備えるのが肝心だ、と自分に言い聞かせる。
刀を脇において、交渉の席についた。舐められてはいけない。剣の腕は確かに見せたのだから、こうして刀を備えるだけでも牽制にはなるだろう。
「それでテメエ、名前は」
「はっ、申し遅れました。しかし、珊太夫という名もあながち間違いではないでござる」
「身分をもらったからか?」
「いかにも。ゆえにいまは珊と呼んでいただけると助かるでござる」
なるほど、と風津は頷いた。そもそも、忍者たる者がそう簡単に真名を明かすとは思えない。
ひとまずは珊と呼ぶことにするのだった。
「お珊、話を聞く前に俺の話だ。まず永尾格次郎なる者を斬ることはできんよ。俺の剣では人を斬ることができない。不死殺しなどと呼ばれているが、逆に言えば不死の者のみを斬ることができるだけだ。どこで話を聞いたかは知らんが、そこを勘違いされては困るぜ」
「先ほどは、剣の話を珊太夫にしていたと聞いたでござるが。怪異を斬ることのみに特化した剣の自慢を?」
「馬鹿言うんじゃねえ。するわけねえだろ。あれはカマカケってやつよ」
ううむ、と唸る珊は、少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。あまり表情の変わらない者であったが、どうやら自分の腕前に関わることには敏感らしい。
ともあれ、風津は伝えるべきことは伝えた。無論のこと珊は風津のことは知っているようであるから、人を殺めることができないことを承知の上での依頼であるだろう。聞く価値はあるかもしれない。
「もちろん、おぬしの腕については知っているでござる。永尾格次郎を捕らえるのは拙者に任せよ。おぬしには、拙者の護衛を務めていただきたい」
「忍者が護衛を必要とするって、そいつは逆じゃねえのか?」
「まったくでござる。しかし、相手は絡繰技師でござるゆえに。脅威というのも、彼の作る絡繰は江戸そのものを窮地に追い込むことのできる絡繰でござる」
「からくり?」
絡繰と言えば、仕掛けの類を指すものだった。いまでは絡繰と言えば、もっぱら南蛮由来の異様な技術のことを指す、歯車や歯軸を用いた機械のことであった。
この台場の地は、そうした技術を学ぶ地として作られたものでもある。和蘭と物資的にも、技術的にも貿易を行う地であった。過去において葡萄牙の商人たちを管理する目的で出島が作られたが、島原の乱にて九州が天草一揆衆と葡萄牙の手に落ちてからこの方、台場町がその代わりとなったのだった。
「たかが絡繰だろう。……それに、余計に俺を必要とする理由がわからんぜ」
「ただの絡繰ではござらぬ。鬼の絡繰でござる」
「鬼だぁ?」
風津は眉を釣り上げる。なるほど、鬼であれば自分の出番だろう。しかし絡繰と鬼をつなぎ合わせるなどと風津は聞いたことがなかった。
少しばかり悩む。鬼退治という本来の仕事に、金もたんまりとくれるときた。受けない理由はない。
だが、鬼の絡繰など聞いたことがない。そもそも鬼と絡繰というのは相反するものであるようにすら思える。
「いいだろう、興味が湧いてきた。その話、受けよう」
「では参りましょう」
そう言うと、珊は畳を持ち上げる。そこには簡単にだが、階下へと繋がっている戸があった。
突然の行動に驚く風津は思わず呼び止める。
「おい、どういうことだ。永尾殿のところへ行くんじゃねえのか。窓障子を突き破った方が早えぞ。そっちに行ったらほら、護衛のもんがおるだろ。自信があるなら大したもんだが、俺はあいにく人が相手ならお荷物も同然だぜ」
「まだ話してなかったでござるな。永尾格次郎がいるのはこの地下でござる」
「……は?」
「永尾格次郎はこの遊郭の主人と癒着しておる。おぬしが珊太夫に払った金はその格次郎の研究開発の資金になった、というわけでござる」
「いっそのこと俺を殺せ!」
そう叫んでしまったとしても、仕方ないことだろう。
* * *
珊が作った抜け穴は、大胆にも遊郭を真下へと貫いていたが、上手く人目が避けられていた。むしろその大胆さが、通路を通路とは思わせないでいた。穴から覗いて辺りに誰もいないのを確認すれば、どんどん深くへと潜っていく。
最終的にたどり着いた地下には巨大な空洞が広がっていた。埋立地であるこの台場に、さらに地下を秘密裏に掘り進めるとは、この組織の強大さをうかがわせた。いま二人がいる梁は、その天井を支えるためのものだ。正直に言って、忍者でもなければ好き好んでこんな場所にはやってこないし、ここを都合のいい道であるかのようには言わないだろう。
「あれが永尾格次郎でござる」
珊がそう言って、眼下をのぞかせた。そこにいたのは白髪混じりの老人だった。服がだらしなくほつれている。奥にあるなんらかの装置を眺めながら、あれこれと指示を飛ばしていた。永尾格次郎は職人であると同時に、この工房の頭でもあるのだろう。
そしてその胸元に見えるのは十字架であった。伴天連の者であり、それはこの国では天草の手の者とみなされ敵視されていた。九州を一国とし占領する彼らと戦争がずっと続いているからだ。
一方で風津は、目の前にある珊の尻に目が惹かれていた。ううむ、これはなかなか。
「見よ、あれが奴らの切り札である鬼の絡繰、絡繰甲冑よ」
風津は再び下へと視線を落とすと、そこには鎧兜を纏った人形があった。動く気配はまったくない。もし人であれば、微動だにしない、というのは至難だ。
そして人形であるからこそ、彼らがどの程度の実力を持っているのかはわからなかった。武の道を歩む者は一挙一足にそれが表れるのだが、絡繰である彼らには通用しないようだった。
永尾格次郎の怒号が飛ぶ。
「気をつけて扱え! 鬼核を乱暴に扱えば、中の鬼がお前らを喰らうぞ!」
運び出されている石は、内側から光を漏らしていた。それこそが鬼だ、と風津は思った。
鬼とは決して、角が生えた異形の者を言うわけではない。この世への執着や、黄泉の気などの陰気に毒され魂のことを言う。一般に知られる鬼などはそれが姿形をとったものでしかない。古くは隠と呼ばれていたそれらは本来、目には見えず空気と同じようにあるのだ。形になるものはすでに脅威なのである。
あの光る石を鬼核と呼んでいた。あれが鬼の絡繰の動力源なのだろう。
しかし奇妙であった。鬼を石ころに封じ込めているのも奇妙だったが、その石ころは、絡繰甲冑へと組み込むには大きすぎるように思えたのだ。
「あいつら、まさかとんでもなくでかい兵器を作ってるわけではあるまいな」
「そのとおりでござる。奴らは巨大絡繰によって、江戸を破壊しようと目論んでおるでござる」
永尾格次郎の指示に従って鬼核を運び入れている者たちが向かう先には、全貌の見えない巨大な装置があった。あれさえも絡繰であると思うと、ぞっとしない。
「そもそもいまここで作られている絡繰は、南蛮の技術である業零武の流用してるでござる。元は南蛮における〈力ある文字〉を使っているようだが、日ノ本では鬼をその代用としているようでござる」
「まさか、ここのところ鬼がめっきり減ったのは」
「奴らが集めているに違いないでござる」
なるほど、と風津は頷いた。鬼がいなくなるのはまあいい。しかしそれらが利用され、兵器として使われているというのは、いい気がしない。それに自分の仕事がなくなってしまう。
風津は刀を構える。鬼であれば、斬ることができる。その意思を示した。
視界の端に何かが映った。大きな義眼がこちらを向いている。その眼がついているのは蜘蛛の背であった。人の子ほどもある大きさの蜘蛛の形をした絡繰だった。
じりりり、とけたたましく音が鳴った。
「何者だ!」
下から声がする。視線が集まってきているのを感じた。目の前にある尻に向かって風津は声をかけた。
「気づかれたぞ、どうする!?」
「決まっておろう、飛び込むまで!」
忍者と思えぬほどの豪快さで敵陣中央へと降り立つ珊に呆気にとられる。
珊は腰から刀を抜いて、永尾格次郎へと突っ込んでいく。その動きはまさに疾風のごとし。
しかしそれに応じたのは鬼の絡繰甲冑であった。永尾格次郎を常に守るように設定されているのか、珊の刀を片腕で受け止めた。
刃を噛むような構造になっている腕に刀が突き刺さる。珊はとっさの判断で刀を離し、後ろへ退いていく。
その絡繰甲冑の直上に風津は飛んだ。空中で抜刀しながら、縦に一振り。光が弾けた。絡繰甲冑には傷ひとつつかず、糸が切れたかのように倒れた。
鬼のみを斬る一閃であった。風津は絡繰甲冑の中に仕込まれている鬼核に狙いをつけ、中に封じられた鬼のみを斬ったのだった。
一瞬の出来事であり、その太刀筋は誰の眼にも捉えることはできなかった。武を歩む者であれば、それはもはや神業にたとえられよう、恐るべき抜刀術である。
持っている刀もまた、特徴的であった。元は古い大太刀であろう巌物造りである刀は、先が折れていた。本来ならばさらなる長さを誇っていた馬上で扱う刀は、奇しくも打刀ほどの長さになっており、取り回しはよさそうであった。
「むう、甲冑に傷ひとつつけず斬りつける剣術、只者ではないな。妖しい者よ、そしてくノ一め、公儀隠密か。この格次郎の野望を邪魔しにきたな」
「うるせえなあ、俺はイラついてるんだ、とっとと捕まりやがれ!」
格次郎の言葉を聞きながら、風津は叫んだ。再び抜刀の構えで、周囲を見渡す。
絡繰甲冑の数々が二人を取り囲んだ。なるほど、鬼より厄介であると風津は踏んでいた。鬼は目的のためならば形振り構わずに戦うものであったが、この絡繰甲冑は戦いの術理を知る者であった。そのように仕込んだ者がいるのだろう。
珊もまた余裕の様子であった。汗ひとつ流さず、涼しげな様子で敵を見ている。
「永尾様、準備が整いました!」
声があがった。巨大な装置を仕上げた職人の一人からだった。格次郎は頷くと、声をあげた。
「では、起動させよ!」
その言葉を合図に、装置は大きく振動し始めた。がたがた、とけたたましい音をたてると、それは動き出す。
格次郎はその装置へと乗り込んでいった。この鬼の絡繰甲冑と違い、人の力によって制御する必要があるのだろう。風津と珊が追おうとするが、絡繰甲冑たちに遮られる。
幕がとられて、装置の正体が露わになった。
円錐の角の生えた獣のようであった。頭でっかちで、角がその姿の半分を占めている。手足にあたる部分は折りたたまれて、歯車によって布を回し車輪がわりに駆動するようだ。
「これぞこの永尾格次郎が宿願の形、絡繰土竜よ! 名付けて怒利竜往転! これにて江戸城を粉砕せしめ、切支丹による平等の世を造り上げようぞ!」
「なんて面妖な! 絡繰とはなんでもありか!」
「そ、それは偏見でござる! あんな珍妙なものばかりではござらぬ!」
風津と珊が声をあげる。あまりのことに呆気にとられていたが、事態はそれどころではない。珊が思っていた以上に開発は進んでいたのだ。
* * *
「行けぃ、貫けぃ!」
格次郎はそう言って、絡繰土竜を操縦した。円錐の角が回転を始める。すると一目散に風津の珊の元へ突っ込んできたではないか。
二人は慌てて飛びのいて、間一髪で避けるも風圧に煽られて態勢を崩した。それは隙であったが、格次郎の目的ではなかったのだろう。彼の絡繰土竜はその角を壁へと突き刺した。
巻き込まれた絡繰甲冑たちが粉砕されたのは僥倖ではあったが、絡繰土竜のありあまる威力をも証明していた。
「まずい、外へ出るつもりでござるか!」
珊の言葉に風津は同意した。ただの絡繰ならいざしらず、あの絡繰土竜もまた鬼核を積んでいるのだ。性質はともかく巨大な力の塊たる鬼を使っていれば、できないことなどほとんどないと言っていいだろう。
それを知るからこそ、風津は鬼の力を用いた絡繰甲冑や絡繰土竜を恐るべき敵と定めていた。
「鬼の力はとんでもねえもんだ。そいつを悪用しようってのはわからんでもないが、直接に江戸を狙おうなんざいい度胸をしている。頭が飛んでるって言ってもいい」
「であれば、文字通りその頭を飛ばしに参るまででござるよ」
二人は駆動する絡繰土竜へと近づこうとするも、凄まじい馬力で地面を掘る絡繰土竜が撒き散らす土に押しとどめられる。これでは、絡繰土竜が地上に出るまで手のつけようがない。
それでも気が逸る珊は飛んでくる土を掻き分けてでも絡繰土竜へと駆けようとした。風津はそれを押しとどめる。
「おいおい、珊、嫁入り前の娘が土遊びなんかしちゃいけねえよ」
「いらぬ心配をしないでほしいでござる!」
憤慨する珊であったが、風津は聞く耳を持たなかった。それよりも、絡繰土竜よりも先に地上へ向かうことが先決であった。
「だが、地上に出ればあの土竜だってただじゃ済まねえよ。ここがなんで台場って呼ばれてるか知ってるか? その通り、大砲を横に並べてるわけだが、それは内側に向けてるものもある。この街で南蛮の輩が悪さをしようもんなら、街ごと沈めちまう覚悟があるってこった」
学問や技術の発展を願い作られた埋立地であったが、一方で反乱の芽が育つことや、切支丹たちが新たに生まれることも恐れていた幕府の者たちは、この島を取り囲むように防壁を立てて、その上に大砲を並べたのだった。
葡萄牙と手を組んだ天草衆の勢いと技術は、それだけのものだったのである。
ゆえに、この地は台場と呼ばれるようになった。
そうこう言っている間に、二人は地上へと飛び出す。屋根の上に登ると同時、絡繰土竜は地上に大きな穴を開けて現れた。遊郭の一角を粉砕して通りに出たそれは、思った以上に機敏な動きを見せる。小回りを披露し、まっすぐ幕府へとその角を向けた。
「いざ参らん、憎き江戸城へ!」
そんな格次郎の声が聞こえた。怪しげな光を漏らして駆動する絡繰土竜は、地上にあって恐るべき性能を発揮する。速度をあげれば、馬もかくやという速さで直進を始めたのだった。
「なっ、あれじゃあ大砲も当たらねえどころか、防壁の奴らが気づいた頃には台場を抜けちまうぜ!? 台場の門だってあの角にかかれば一撃にちげえねえ」
「なんとしても止めねばならぬ!」
そう言って珊は屋根の上を駆ける。風津はそれを追いかけた。
絡繰土竜の速さも相当のものであったが、追う二人の脚も尋常ではなかった。何よりも珊は速い。さすがはくノ一と言ったところであるが、風津は違った。自身の身体能力について自負があるからこそ、その上を行く珊に違和感を覚える。上忍にすら劣らぬはずの自分が、たかが女の忍びに及ばないはずがない。
そうこうしているうちに、絡繰土竜へと追いつく。まず珊はどこに隠し持っていたのか、焙烙火矢に火をつけて投げつける。大きな音をたてて爆発が起こった。戦乱の時は人ではなく船に対する攻撃に用いられた兵器である。相応の威力があるはずだが、絡繰土竜はびくともしなかった。
次に繰り出したのは、鋼糸だった。印を結ぶかのような動作で鋼糸を網のように編み上げ、絡繰土竜に投げる。見事な忍術だ。鬼道も交えているのか、強度が格段に上がっている。動きがわずかに止まったかに見えたがしかし、絡繰土竜は止まる気配を見せなかった。
大きな門が見えた。台場門である。そこを抜ければ江戸城まで一直線だ。もはや猶予は残されていない。
「風津殿、絡繰土竜の鬼核は斬れるでござるか!?」
「いいや駄目だ、俺のが脚は速いが、剣を振るうとなりゃあわずかに足らん! だが、さっきの鋼糸で足止めしてもらえりゃあなんとかなる!」
「委細承知! でござる!」
珊はそう言うと、鋼糸を四方八方に散らしながら跳んだ。何をするつもりだ、と問うまでもない。自身を中心に蜘蛛の巣のように鋼糸を張り巡らせ、絡繰土竜を止めるつもりなのだ。……その身を呈して。
鋼糸は地面や家屋に突き刺さる。それさえも鬼道が張り巡らされているのが、風津の目には見えた。絡繰土竜の回転角に珊は巻き込まれる。果たして、大きな音を立てて、絡繰土竜は止まった。珊の網にかかったのだ。
しかしいかに網が強固であっても、鋼糸をとめている家屋までが頑丈になるわけではない。絡繰土竜の馬力を考えれば、すぐに決壊するのが目に見えていた。わずか一瞬の隙を、風津は逃さない。
先の折れた刀を振りかざせば、時が緩慢に感じられた。目を鋭くする。絡繰土竜の鬼核が見えた。流れるような動きで、縦一文字に刀を振り抜く。厚い装甲の上からでも、風津の剣は鬼を斬ることができた。
鬼とはすなわちこの世への執着、遺恨を抱えた魂の類である。生命力という、魂をこの世に繋ぎとめる力を遺志で代替しているのだ。それは細い線であり、他者から生命力を奪うことなしには保てないものであった。それゆえに鬼は他者を様々な方法で襲い、強大な力を持つことが必要となるのだ。力の集積体となった鬼を利用している鬼核もまた同様だ。
それを断つのが風津の剣術『楢威流』であった。
そして先端の折れた刀の銘は獅子丸と言い、過去に鬼と戦った勇士が手にした刀であるという。
風津が地面に降り立つと同時に、絡繰土竜は停止した。すんとも言わなくなり、完全に鬼核を絶ったことを確認できた。
刀を納めると、風津は珊の元へと駆け寄った。絡繰土竜の前へと出ると、そこには悲惨な姿となった珊がいた。
鋼糸に引っ張られた腕と脚は外れてしまっている。身体の内側が漏れていた。瞳からは光が失われており、顔にかかる髪が人形じみていて哀しさを誘った。
珊は絡繰であった。肉付きは人に似せた何かである。内容物は決して内臓ではない。鋼糸が無数に編み込まれた綱であった。もはやどのようにして作られたのかさえわからなかった。絡繰土竜の回転角に巻き込まれて形が残っているだけ、優れた職人が作ったのだろうということは理解できる。
口が開閉する。彼女の持っていた柔らかさはどこかへ行ってしまった。
「風津……殿?」
「なんだ、起きてたのか」
「何も見えないでござるよ……どうなったのか、教えてもらえなかろうか」
「おめえは絡繰土竜を止めて、俺が一刀両断よ。役目をおめえは果たした。安心しろ」
「耳もあまり聞こえなく……風津殿、どこにいるでござるか」
風津は黙って、鋼糸でかろうじて繋がっている珊の右手を握った。すると彼女は、ふっと微笑んで目を閉じる。満足したのだろうか。その最期まで、彼女は自分がどうなっているのか気づいていないのかもしれない。
「まったく、嫁入り前の娘が、こんなぼろぼろになるもんじゃあねえぜ」
それだけ言うと、珊を抱え上げるべく手を脇へと入れた。公儀隠密が片付けるだろうが、それまでどこかへ寝かせておきたかったのだ。
が、そこへ何かが割れる音がした。外れて転がっていた珊の左手を誰かが踏んで壊したのだ。
顔をあげれば、そこには顔を怒りに染めた永尾格次郎がいた。ぐりぐりと念入りに珊の手を潰す。
「おのれ、絡繰風情が、我が悲願を邪魔しおって! 天草様にどのようにして顔向けすればいいと言うのだ!」
そのように憤る格次郎を、風津は冷めた目で見る。ゆっくりと近づき、刀の柄に手をかけた。すると格次郎は虚ろな笑みを浮かべる。
「私を斬るか。侍とて所詮は好んで人斬りをする者よ。我らの願いにそぐわぬ者だ。刀を振るえる、握れるだけで人の上に立ったつもりか」
「俺は……人を斬る剣は持たない」
そう言って、柄で殴りつけた。格次郎は間抜けな顔を晒して倒れる。
夜の台場に残ったのは風津ただ一人であった。
* * *
数日後、格次郎の絡繰土竜の爪痕を大きく残したものの、人は変わらぬ生活を送っていた。背景には幕府と和蘭との会談が重ねて行われたようであったが、庶民にとってはどうでもいいことだった。
風津は茶屋で団子を食べていた。台場の団子の中では上等な方だったが、風津からしてみれば外の団子の方が美味かった。食事があまりよくないのが、この台場町の欠点である。
お茶で腹に流し込むと、視線は茶屋の看板娘に向いた。若い娘だ。背丈はそれなりに高く、腰の位置も高い。自然と視線はその腰に向いてしまう。なるほど、いい団子屋だ、とほくそ笑む。
「風津さん、一段と元気がないねえ」
彼女がそう声をかけてきた。よく顔を出す店であったが、そのように声をかけられたのは初めてのことだった。
串を置いて、風津は言う。
「そりゃあ、元気もなくなるさ。タダ働きをさせられたもんでね」
あれから公儀隠密から便りは何もなかった。珊を連れていったところまでは見ていたが、それからの接触は皆無である。珊の言っていた報酬なるものはついぞ支払われなかったのだ。
「まあ、それは困ったねえ。で、お代は払えるの?」
「つけといちゃあくれないかい」
「いつになったら支払えるのよ」
そうは言いながらも彼女は皿を下げて、見送ってくれる。年末までに支払うか、逃げるかの準備をしなければならんな、と風津はぼんやりと考えていた。
街中を歩くと、誰も彼もが風津を避けていく。赤い髪は鬼を想起させるらしい。鬼を斬る業を背負っている自分が鬼に間違われるなど、笑い話のもなりはしなかった。
台場町の端には長屋があった。ここは居つく場所のない流れ者が多く集まる場所でもある。職人になれなかったもの、怪しい商人、主君を失った流浪人。天草との戦乱が続くいまでは、あらゆる人手を必要としているはずであるが、矢面に立つのを嫌うような者たちは戦乱から逃げていたのだった。それを賢明だとも言う者もいる。
かく言う自分は、戦では人を斬れぬ役立たずだ。こうして魑魅魍魎を斬る仕事をしてこの地にたどり着いたが、ろくなことはなかった。そろそろどこかへ行こうかとも思ったが、いまさら京にある家へと戻るのはごめんだった。
がらり、と我が家の戸を開けた。
「おかえりなさいませ、でござる」
そこには三つ指をついた娘がいた。顔を下げているが、その口調で誰かはすぐにわかった。それに見覚えのある簪もつけていた。
数日前に壊された絡繰忍者であった。
「おめえ、生きてたのか! 報酬を払ってもらおう!」
「出会い頭の第一声が金のこととはなんとも女心のわからないやつでござるな!?」
「俺だって命を懸けてやったんだ。命があっただけ儲けもんだなんて考えで生きていけるほど甘くはねえ」
風津がそう言うと、珊は顔をあげる。そして気まずげに視線を逸らす。
何かやましいことがあるのだとしたら、ひとつしかない。
「まさか、払えねえって言うんじゃなかろうな」
「そのまさかでござる。知っての通り、拙者は絡繰でござる。本名を石川五右衛門。いいや、それを本名と言うかはわからないでござるが。織田信長公より授かった名は百地三太夫、それより前は百地丹波という名でござった」
「なっ、はあ?」
素っ頓狂な声をあげてしまったが、おかしな話ではなかった。彼女は絡繰であり、鬼の力で動いている。だが伊賀忍者の祖たる百地丹波であり、且つ豊臣の時代に名を馳せた義賊の石川五右衛門と名乗り、しかも女だと言われれば、疑いたくなるのも心情というものだ。
「絡繰土竜との戦いの折に大破したものの、風津殿の剣がわずかに早く、脊髄にあった鬼核は無事でござった。しかし四肢も頭部もつぶれてしまい、その修理のために用意していた報酬も、拙者が豊臣よりくすねていた貯蓄もすべて使いきってしまったのでござる」
しからば、と彼女は再び頭を下げた。
「拙者、この身をおぬしに捧げる覚悟で参った」
それを意味するところがわからない風津ではない。ごくりと息を飲んだ。
絡繰とは言え、いいや絡繰であるからこそ珊は魅力的な外見をしていた。彼女が着飾って歩けば誰もが振り向くだろう。間抜けなござる口調に耳をふさげば、なるほど。
わずかな期待を込めて彼女を見ると、まばたきをしている間にこちらに尻を向けていた。
「胸はともかく、尻には自信があるでござるよ! 先ほどの茶屋でも女の尻を追いかけているような風津殿であれば、さぞかし好物でござろう!」
謎の自信を持って彼女は言った。その尻を眺めて、風津はため息をつく。
「い、痛いでござる! 何故叩いたでござるか!」
「るせえやい、恥じらいってもんはねえのか!」
「なにおう! 拙者がどれだけの覚悟をもって臨んでいるのかわからないでござるか!」
「知るかんなもん! いい女になって出直してこい!」
二人はそうやって言い合いを始めた。しかしそれは、二人の知らぬ光景でもあったことを痛感してもいたのだった。
これより二人は幕府と天草の間で悪鬼羅刹を打ち破り、義により人を助け、金により身を苦しめる、そんな痛快な後日譚が続くのであるが、幕引きましてまずはこれきり。