久しぶりに、生徒になる。
久しぶりに生徒になった。
大学生活において、バイトはほとんどが塾の講師だった。合計5年の間に、三箇所の塾を渡り歩いてきた。そのため、ずっと「先生」と呼ばれる立場にいて、一応何かしらを教えてきた。
大学を卒業する予定となり、就職先からレポートの提出を求められるようになった。企業にも教育係なるものがあって、新入社員が一人前に働けるようにフォローをするらしい。そのフォローという名の研修は、実質のところ小学校、中学校の教育に似ている。教育チームという先生がいて、内定者という生徒という関係である。
関係の形は小学校である。教育チームにいる社員の方々も、自分たちが「先生」だと思っているところがある。だから、なんだか小学校に戻ったようで、お子ちゃまプレイを味わされているみたいである。一言でいうと、なんだか変である。
大学というのは、生徒ではなくて「学生」で、自律的に学を学ぶ姿勢をもっているとされている。しかし、企業の研修は、やっぱり一方通行な教育で、教育チーム側が「教えてあげている」という雰囲気がするし、そういう仕組みでもある。やはり、自分は「生徒」なんだと思う。
そうやって「生徒」になることで、バイトで会う塾の生徒の気持ちが、少しは想像できるようになった。一つわかったことは、「先生」というのは、静かにしておくことが重要なのである。
生徒が何かを学び、何かをできるようになる。すると、すぐに先生はそれを褒めたがる。また、生徒が問題の解き方がわからず止まっている、すぐに手を出して教えようとする。
しかし、すべての生徒がそれで嬉しく思うとは限らない。「わざわざ、そんなに褒めなくても・・・」と思う者もいる。問題を抱えていても、「自分で解決してみたい」と思う者もいる。しかし、先生というのは、生徒に干渉し、生徒ができるようになることで、「自分の存在感」を味わったりするのだ。
企業の研修でも、同じ風潮がある。挙げ句の果てには、「あなたのためにやっています」と言う。仕事でやってます、と言ってくれたほうが僕は納得できるのだが・・・。
塾の生徒にも、馴れ馴れしいが嫌い生徒がいる。だから、その人には、ビジネスライクに付き合えばいい。そしたら、子供扱いする大人でないと見なされ、その生徒から信頼されたりする。そして卒業したり、離れて行くときには、先生というのが不要になればいい。先生なくとも、生徒が一人でやっていけるようになればいい。病人がいなくなることを祈る医者と同じである。
先生は、生徒の記憶に残る必要はないのである。




