自分の生き方に悩む
悩みの話をもう一つ。
自分の生き方に悩む人も多いらしい。それはある程度共感できる。
日本は、多くのひとがある程度の豊かさと自由と平等をもっている。それ自体は、すばらしいことであるが(とはいえ、さらに改善はできる)、自由ゆえに何をすればよいか迷う。
自分の好きなことを自分の好きないようにすることができる。そう考えと、みんなの嗜好が多様化し、網目のように広がって行くように思われる。しかし、現実はそこまでに多彩ではなく、結局は人気のあるものに人々は執着する。
友達と同じゲームをしたり、人気のある動画やサイトをみる。そこに個性はない。みんなが面白いと思うものを、自分も面白いと思って見る。この同調に安心する。もちろん、このことが悪いわけではない。個人の生き方は自由であるから、それにケチをつけるつもりはない。
ただ、そうやって生きていると、「自分は誰かと全く同じ存在ではないか」と思えてくる。ゲームにしても、自分よりも上手にプレーする人間は世界を探せば無数に存在する。何にしても自分と同じような人、あるいはそれ以上に卓越した人、詳しいひとはいる。
そのときに、自分が何かのレプリカであるような気がする。道端の石ころのような気がする。そのあたりに転がっている石は、その形でなくても、誰も気にもとめない。世界を探せば、その石ころよりも綺麗な石もある。そんな道端の石ころのように、自分も「いなくてもいい存在」ではないか。その虚無感が漠然と感じる。
他人と仲良くできれば、その悩みは解決されるのか?いや、そうではないだろう。誰かと一緒にいても、いつか一人になる。そのときにふと気づく。「友達と一緒にいたのは、自分の寂しさを紛らわせたかっただけではないか」と。パリピーは、パリピーに溺れて浮かび上がりたくない人のための言葉である。
自分がレプリカではないかという恐れ。これから逃れるためには、自分だけができること、自分だけがわかるもの、自分だけが作れるものを見つけるしかない。
でも、僕はさっき思った。多くの物事には先人がいる、と。いまから世界を代表するプロ野球選手になれるわけがない。だとすれば、どうするか。一つだけある。だれも、関心を向かないニッチな世界に突入することだ。
そこに他人からの承認や羨望は必要ない。なぜなら「みんなに褒めらるために自分は・・をしていたのか」と、また自問自答をするからだ。こんなことを言っていると「若者の悩みだね」って大人ぶった人がいうだろう。僕は、「その言い草は、いかにも老けてます」と言い返そう。
自分が求めるのは、他人からの承認ではなく、自分の承認である。「〜を僕は欲した」「〜をして、僕はよかったと思う」と最後に言いたい。そう言えるとき、自分の生き方に悩みはなくなり、自分はレプリカではなく、オリジナルだと言うことがきっとできる。




