残された記録
どんな歴史を知るにおいても、映像や写真は我々現代人に対して最も強い説得力を与えられると考えられがちだが、実際には、その影響力は、それらの粗さや無彩色によって尽く棄却される。我々は、それらの映像を視聴するとき、もしくは写真を眺めるとき、間違いなく、現代人が過激的なアニメを、または漫画を見るかのように、冷めた視線でその記録を追っているのである。モノクロ映像の中で見えぬ弾丸に貫かれ斃れる兵たちは、まさに、あっけなく(そして滑稽であり)、またモノクロ写真においては、その粗っぽさも相まって、もはや混沌としていて、直感的ではなく、指で輪郭を追ううちに、それらは理性的な、学術的な問題に掠め去られる。そもそも、大部分の我々は、その粗い霧の向こう側を覗こうとは努力せず、すべてが手元に収まるフィルムに閉じ込められた、別世界の物語である。当時の我々は、生々しい惨禍の最中に、数多の生け贄を足下に従えた勝利を手にする儀式を果たすべく、規律的に順当な生け贄量産機を開発し、またそれらが含み、かつ産み出したあまりにも惨たらしい意味を、久しい平和を渇望する我々はなんとか嚥下し、これらを通過することで、新しい次段階の幸福がもたらされ得るだろうというポジティブな面を受け入れた。また、それを育てるための土壌を拵えた惨禍を、臨場感の喪失無しに後世に伝えられるという映像記録は、我々が多くの期待を込めるところだった。しかし、例によって、我々のリアルは、贅沢にも、当時よりも全く鮮明であらねばならないから、既に先人が期待した記録の現実性は、当時とほとんどその姿を変えていないにもかかわらず風化し、たった一人の個人が短期間の想像で生成しうる産物と同等の事物として扱われている。また、残虐な記憶を呼び起こす最後の頼みの綱であろう生々しい庶民の文献も、我々は無視し、短絡的に残虐なおとぎ話を(また、その反動から構築されるより緻密で高度な、残虐的で哲学的な、しかし我々のヒステリックな獣性を全く考慮しないおとぎ話を)読みふけり、それらを虐げる――つまり読破することで、人類の史上最大の恐慌を乗り越えたのだと、小高い丘で恍惚しているのである。結局、先人が残した代物は、霧払いを志向する者を除いて、全く効果が無いに等しく、この現状を打破するには、我々は再び残虐な写真と映像を、現代に確立せる当時とは比べものにならないほど高度な技術を以て、鮮明に収めなければならないだろう。喜ばしいことに、現代の写真と映像は、全く我々の視界を模写しているから、その惨禍の機会をやり過ごせば、私たちは脳裏に鮮明な記憶を刻み続け、より確固たる安寧を手に収めることができるだろう。しかし、その惨禍の機会をやり過ごすというにも、それらを収めた写真、映像、また映像を再生するための機械、そしてその視聴者が、その惨禍の中に悉く消滅しないという条件を満たす必要がある。
ごめんなさい
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