六
一ヶ月が過ぎた。
沢野との交際はうまくいっていた。お互い、クラスでは目立たない、おとなしい人間だったので、いろんな点で気があった。
二人がいっしょにいる間、雅彦は暗い目つきをして、羅利子にむかって大声で文句を言いつづけた。羅利子は必死でそれを無視したが、気になって沢野との交際を心から楽しむことができなかった。
数日前に、沢野と初めてのくちづけを交わしたときも、雅彦は羅利子の耳元に顔を近づけて、
「やめてくれ。やめてくれよ」
と泣きながらうめいていた。
そんな状況でも、羅利子は沢野のために、うれしそうな表情を浮かべなければならなかった。
このうっとうしい幻覚を消すことはできないかと思い、何度か雅彦が消える光景を想像してみたが、だめだった。あの日、あまりにも長時間集中して想像したために、雅彦の幻覚は、頭の中にこびりついてしまっているらしい。
その日の夜も、雅彦は、布団に寝転ぶ羅利子にむかって懇願していた。
「なあ、頼む。お願いだから、あの沢野とかいう奴と別れてくれ。そして、おれの恋人にもどってくれよ。おれにはおまえしかいないんだ」
「うるさいわね」
寝返りをうって、背を向ける。
すると、雅彦は立ち上がって、荒々しく怒鳴った。
「いい加減にしろ。あんたはおれを作ったんだろ。だったら、あんたはおれを幸せにしなきゃいけないはずだ。造物主の責任ってものを考えろ」
羅利子は何も言わなかった。
雅彦はふるえる声でつづけた。
「あんた、おれを作ったときに、あんたを死ぬほど愛するという設定をおれにつけたよな?」
羅利子は記憶を探ってみた。
そういえば、そんなことをしたような気がする。
「おかげでおれは、いま、すげえつらいんだ。あんたに分かるか?本当に死ぬほど愛するということが、どんなに苦しいものなのか?」
雅彦の声は、涙まじりの絶叫となっていた。
「心臓がつぶれそうで、本当に死にそうなんだぞ」
羅利子は、半身を起こして雅彦を見た。いつの間に、こんなにやせたのだろう。あの輝いていた顔が、頬の肉がなくなったせいで、しゃれこうべのように見える。目のまわりがくぼんでおり、涙のあとが、赤く残っている。
わたしを死ぬほど愛したせいで、こうなったのか。
気持ち悪い。
「なあ、頼むよ。沢野と別れてくれ。そうしてくれないと、おれ、マジで死ぬかもしれない」
雅彦は、畳に額をこすりつけた。
そんな雅彦を見下ろしながら、羅利子はゆっくりとこう言った。
「じゃあ、死ねばいいじゃない」
重い沈黙が、部屋の中をただよった。
雅彦は顔をあげた。いまの言葉が、理解できないといった顔をしている。
「いいものをあげる」
そう言うと、羅利子は包丁を細かく想像しはじめた。外見、固い感触、切れ味などを、一瞬で思い浮かべる。
包丁の幻覚が、雅彦の目の前にあらわれた。それは鈍い音をたてて、畳の上に落ちる。
「それで自殺しなさい。そうすれば、もうずっと、苦しまないですむでしょう?」
呆然とする雅彦を見ながら、羅利子は心の中で笑っていた。
何で今まで思いつかなかったのだろう。初めからこうすればよかったのだ。雅彦を殺してしまえば、もう二度と、沢野との恋を邪魔されることはなくなる。まあ、死体の幻覚となって、一生視界に転がっているかもしれないが、それくらいのことはかまわない。口出ししないだけ、だいぶマシになる。
「あんた、それでも人間か?」
雅彦が、信じられないといった口調で叫ぶ。
「幻覚のあなたに言われたくないわね。よく考えてみなさい。わたしはこれからも絶対にあなたを愛さないわよ。だからあなたは、わたしが死ぬまでずっと苦しむことになる。そんなつらい思いをするくらいなら、いまここで一生を終えてしまったほうがいいんじゃない?」
優しく語りかける。
「わたしを死ぬほど愛しているんでしょう?だったら、わたしのために死んでちょうだい」
雅彦はうつろな目で、羅利子と包丁を交互に見比べた。そして腕を震わせながら、包丁を拾って強くにぎりしめた。
「首を切りなさい」
興奮で声がうわずってしまう。いくら幻覚とはいえ、目の前でひとの死を眺めるのは、刺激的だった。
ところが、雅彦は包丁の切っ先を羅利子に向けた。電灯の光が、銀色の刃を照らす。
「どういうつもり?」
羅利子は、ゆっくりと聞いた。
深く息を吸ってから、雅彦は答えた。
「あんたの言うとおりだ。こんな苦しみを味わいつづけるくらいなら、おれはここで命を断ってしまったほうがいいと思う。でも、おれは幻覚だけど、心は人間なんだ。死や痛みに対する恐怖がある」
少し間を置いてから、雅彦はつづけた。
「だから、あんたを殺して、おれは消えることにする。おれはあんたの幻覚だからな。死ぬんじゃなくて、消えるんだ。そうすれば、痛みはなく、眠るようにして、命を終えられる」
二人はしばらくの間、互いににらみあった。どちらの視線も、どす黒いもので満ちていた。
「馬鹿ねえ」
羅利子はわざとらしくため息をついた。
「その包丁はわたしの幻覚なのよ。幻覚の包丁で、本物の人間を殺せるわけがないでしょうに」
「普通の人間ならな」
雅彦は笑った。
「だが、特殊な想像力を持つあんたなら」
肩を刺された。
刃の肉にめりこむ感触が確かにある。
羅利子は愕然とした。
そんな馬鹿な。幻覚の包丁に傷をつけられるなんて。
もったいぶるようにして、血が流れだす。傷口から、熱い痛みがゆっくりと、広がってゆく。
「やっぱりだ」
うれしそうにつぶやき、雅彦は包丁をひきぬいた。
羅利子は雅彦を突き飛ばした。立ち上がり、震える足取りで部屋を飛び出す。
「逃げたって無駄だぜ。おれの本体は、あんたの頭の中にこびりついているんだ。あんたがどこにいようと、おれはあんたの目の前にあらわれる」
雅彦の勝ちほこった声を背中に受けながら、羅利子は階段を駆けおりた。涙で視界がかすんでいる。汗が、どっと浮き出てくる。
一階に降りると、両親のいるリビングに駆けこんだ。
「父さん、母さん」
娘の必死な叫び声に、テレビを見ていた両親はおどろいてふりむいた。
「どうしたんだ?」
父親が駆けよってきて、羅利子の肩に手を置く。
「痛い」
顔をしかめて、その手をはらった。父の指が、傷口に触れたのだ。
「どこか痛むの?」
母親が、心配そうにたずねる。
見れば分かるでしょう、と言いかけて、ふと気がついた。いま羅利子の肩は、赤黒い血で染まっている。それなのに、両親の視線はまったく肩の方を向いていない。
まるで、血が見えていないかのように。
まさかと思って、聞いてみた。
「ねえ、いま、わたしの肩から、いっぱい血が出てるよね?」
両親は、顔を見合わせて首をかしげた。そして、父親が答えた。
「何を言っているんだ?血なんて、どこにもついてないぞ?」
羅利子は顔を青くした。
そして、わかった。
なぜ、幻覚の包丁で刺されて、傷を負ったのかが理解できたのだ。
「気づいたようだな。そのとおり、その傷はあんたの幻覚だ」
いつの間にか、両親の背後に雅彦が立っていた。手に血のついた包丁を握りしめている。
雅彦はつづけた。
「さっき二階で刺された瞬間、あんたは、傷や血、刺される感触や痛みを、無意識に想像してしまったのさ。そして、それは幻覚となって、あんたの肩にあらわれた。実際のあんたの肩は無傷なんだ。だから、親に助けを求めても無駄だぜ。狂人あつかいされるだけだ」
危険を目の前にした時、人は恐怖を感じる。それは、その危険に巻き込まれたときの苦痛を想像してしまうからだ。
「おい、どうした羅利子、そんなに震えて?」
父親が声をかけるが、羅利子は聞いていなかった。
「どうだ?幻覚でも痛いだろう?幻覚でも苦しいだろう?あんたが凡人離れした想像力を持っていてくれて助かったよ。おかげでおれは、今まで苦しめられてきた復讐をゆっくりと果たすことができる」
雅彦は、包丁をかまえて飛びかかってきた。
羅利子は逃げようとしたが、足がもつれて、仰向けに転んでしまった。その上に、雅彦が馬乗りになり、包丁をふりあげる。
突然倒れた娘を見て、両親はきょとんとしていた。
想像してはいけない。自分が傷つくところを、決して想像してはいけない。
必死にそう考えたが、包丁が振りおろされた瞬間、喉が切り裂かれる様子をとっさに思い浮かべてしまう。
幻覚の血しぶきが、天井に飛び散った。
その光景を眺めながら、羅利子は自分の死を想像して
終