伍
「綺麗な菊だね」
自分の席に飾られてある花を見つめながら、雅彦はつぶやいた。
午前の授業中。教壇では、初老の数学教師が黒板に数式を書いており、生徒たちは黙ってそれをノートに写している。教室に、チョークの音が響く。
誰も、教室を歩き回る雅彦の存在には気がつかない。
幻覚だから、当たり前なのだが、それでも羅利子は、不思議な気分になる。
木川奈津の席を見た。
葬式が終わってから、もう一週間以上たつのに、彼女はまだ欠席している。
まだ、雅彦の死を悲しんでいるのね。馬鹿な女。悲劇のヒロインにでもなった気でいるのかしら?そんなことで、死んでしまった雅彦が喜ぶと思っているの?
あざけるような笑みを浮かべて、幻覚の雅彦に目をもどす。
それにくらべて、新しい幸せを手に入れて、彼の死から立ち直った私は、なんて素晴らしいのだろう。
そのとき、側にやってきた雅彦が声をかけてきた。
「おい、あの窓際の席に座っているやつ、さっきからおまえのことをちらちら見ているぞ」
「え?」
目だけを動かして見ると、窓側の一番前の席に座っている男子生徒が、さりげなくふりむいたふりをしながらこちらを見ていた。
その生徒の名前は、沢野洋。クラスの中では、比較的おとなしい人間だ。
何か用かしら?
見つめ返すと、沢野はあわてた様子で前に向き直った。
一週間がたった。
羅利子は雅彦と、楽しい日々を過ごした。
海沿いや公園で、ゆったりと戯れあった。熱く抱き合い、くちづけをかわした。夢が叶って、羅利子は涙を流した。
人前で彼と会話をしていると、気がちがっていると思われるので、学校にいるときは、人気のない校舎裏で話をした。
雅彦は、羅利子にとって、最も心地よい言葉を何度も投げかけてくれた。それは、普通の恋愛ではなかなか得られない快感であった。
これが普通の男子ならば、付き合い続けてゆくうちに、ひとつ、またひとつと欠点が目についてしまうはずだ。下手したら、それが原因で別れてしまったりする。しかし、雅彦にはそれはない。もし欠点が見つかったとしても、想像によっていくらでも作り直せるのだ。
まさに、「理想」の恋人であった。
これは他の女子では味わえない。特殊な想像力を持つ私だけができる恋愛だ。
そう考えて、羅利子は他の女子達に対して、優越感を抱いた。
さらに月日がたった。
羅利子は、学校の中で、ますます孤立していった。
雅彦と話しているところを誰かに見られたようだった。ひとりでブツブツ何かと会話する、キモイ女という噂がたち、同級生から避けられるようになっていた。
だが、それはかえって羅利子にとって好都合であった。まわりに人が近寄らなくなれば、雅彦て話せる機会が増える。
その日も羅利子は、放課後の誰もいない教室で、雅彦と窓の外を眺めていた。
吹きこんでくる風が冷たい。校庭の木々はすっかり葉を落とし、幹と枝だけの姿になっている。
「もう、冬なんだね」
「ああ、君がおれを作ってくれてから、もう二ヶ月もたったんだな」
羅利子は、雅彦と腕を組んだ。固い筋肉の感触が、とても気持ちいい。
「まだ、帰ってなかったんだ」
突然、後ろから声をかけられた。
驚いて振り向くと、教室の入り口のあたりに、いつの間にか、沢野洋が立っていた。
「月田さんって、いつも放課後教室に残るよね」
沢野は落ち着いた笑みを浮かべながら歩みより、羅利子の前で止まった。
雅彦が、眉間にしわをよせて、なんだこいつ、とつぶやく。
「わたしに何か用?」
ぶっきらぼうに聞くと、沢野は、ええと、とつぶやいて、そのまま黙りこんだ。
そして、少し間を置いてから、口を開いた。
「月田さんって、休み時間とか昼休み、いつも校舎裏に行くよね。あそこで何をしているの?」
羅利子は目を丸くした。
「なんで私が校舎裏に行くことを知っているの?」
「いや、その」沢野は声を小さくした。「いつも遠くから見ていたんだ。月田さんのことを」
その言葉の意味することを察して、羅利子は息をのんだ。
沢野は真剣な顔にかり、しっかりと言った。
「前から、月田さんのことが好きだった。もし、よかったら、ぼくと付き合ってほしい」
羅利子は、顔を赤くして、雅彦を見た。そのまま互いに呆然と見つめあったあと、雅彦は不安そうに顔を歪めて言った。
「断るよな。当然断るよな。おれがいるんだから」
その必死な口調を聞いて、思わず情けないと思い、そんな自分に驚いた。雅彦に対して、負の感情を抱いたのは、これが初めてだ。
羅利子は沢野に向かって言った。
「私なんかと付き合ったら、あなたまでみんなに避けられるよ」
「そんなことは、全然かまわない」
沢野は即答した。
その強い口調に、羅利子の胸は高鳴った。そんな上手な告白ではないのに、今まで教室の風景の一部だとしか思っていなかった沢野が、なんだかとても輝いて見えた。
「なんでこんな奴と話をするんだよ。さっさと断ってしまえよ」
羅利子の心を読みとったかのように、雅彦はあわてた声をあげた。
それを無視して、羅利子は言った。
「一晩だけ考えさせて。明日、必ず返事をするから」
「どうして断らなかったんだ?」
夜、自分の部屋で机に突っ伏している羅利子にむかって、雅彦は声を荒げて聞いた。羅利子は、ちらりと雅彦を見ただけで、何も返事をしなかった。
「まさか、あいつと付き合うつもりなのか?」
声が震えている。
そんな雅彦のことは気にせずに、羅利子は沢野のことを考えていた。
好き、だなんて言われたのは、生まれて初めてだ。
さっきからずっと、気分が高揚している。熱いため息が、何度も口からもれる。
それにくらべて、雅彦への想いは冷めてしまっていた。以前のような激しい感情が、完全になくなっている。たった一言の告白が、自分の心をここまで変えてしまったことに、羅利子は驚きを感じていた。
「おい、何か言えよ」
雅彦は、まだわめいている。昨日まで、たくましく感じていたその低い声が、いまではただの雑音にしか聞こえない。
一晩だけ考えさせてと言ってみたが、その必要はないようだ。
翌日から、羅利子は沢野と付き合いはじめた。その日、授業時間以外はほとんど沢野といっしょにいた。
そんな二人を、雅彦は心臓をえぐられたかのような目で見つめていた。